6話 手



「これ、何――」

 焦ったまま、暗闇の中で彼女を呼んだ。声が出たのと同時に疑い始めて、返答がなかったら確信になる。そういえば。


 ここに入ってから彼女は、一言も声を発していない。


 水の中に放り投げられたような気持ちになった。でも、と考える。定点観測でもこういうことはたびたびあった。だから自分も違和感を持たなかったんじゃないか。特定のエリアでは観測条件として彼女すら姿を消すことが――でも、声が聞こえなくなったことは? 今日は定点観測でもないのに?


 眼鏡を掴む。

 そうだ、と物理ボタンに触れた。


 ライト機能のひとつくらい付いてないか。付いていなくても、暗闇を透かしてこの部屋の情報を映し出すくらいのことはしてくれないか。反応しない。そもそも完全な暗闇の中でARグラスが作動するのかどうかもわからない。僕は自分の身の回りにあるものについて、何も知らない。彼女は決して姿を見せない。


 暗闇がスクリーンになった。不安が映る。光景。ポスター。言葉。音。停止勧告。近付かない方がいいかも。


 何に?


 手の中の小さな本を、どんどん重たく感じ始めている。本当に重くなっているんじゃないかとも思い始める。物体が急に自分の重さを自分で増やし始めるわけがない。じゃあ何が? 下から引っ張られているのかもしれない。何に、人に?


 暗闇の中から白い手が伸びてきて、この小さな本を掴んでいる。

 自分の想像に、思わず叫び出してしまいそうになった。


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。こんな言葉を口にする日が来るなんて思わなかった。アクション映画の主人公だけが口にする台詞。落ち着け。動悸が少し収まった。映画のことを考えよう。いやそれより。もっと落ち着くもの。


 彼女のことを、考えて。


「……出よう」

 言葉にしたのは、自分を奮い立たせるためだった。


 幸いにも、この部屋はそこまで複雑な造りじゃなかったはずだ。それにひどく棚が多い。入り組んでいると言えばデメリットでもあるけれど、手すりとして使えば出口までのガイドにもなってくれる。そうだ。どんなに複雑な迷路だって壁を伝って歩けばいつかは出口に着く。こんなのは全然『危険』のうちに入らない。大丈夫だ。大丈夫。


 手に伝わる感触が変わって、はっと指を引いた。爪が当たる。がん、とくぐもったような、鈍い音を出す。これが扉だ、と気付いたから、あとはその表面を手のひらでなぞるだけ。突起が見つかる。開かなかったらどうしよう、と今になって思う。不安と向き合って克服できる気がしなかったから、背を向けるようにその突起を掴んで回す。


 扉が開いたら何かが自分に飛び掛かってくるかも、なんて思ってもみなかった。


「うわ、」

 両腕を顔で覆った。ARグラスに当たった。そうしてズレた分、飛び込んできたのが何なのか、理解するのに時間がかかった。



「もー! だから早く戻ってこいって言ったじゃん!!」

 罰と言うなら、その僅かな杞憂の時間が罰だったのかもしれない。



「は、」

 腕を下ろす。グラスを直す。ものすごく近い距離に見慣れた顔がある。


 彼女の顔。


 それを確かめたとき――つまり、彼女がまだそこにいたこと。少なくとも停電の原因は彼女ではなかったこと。隣に、いつものようにいてくれること。


 そのすべてに、安心して。


「わ。大丈夫?」

 へなへなと壁に寄りかかりながら、その場にへたり込んでしまった。


 彼女が覗き込んでくる。その顔をじっと見つめて、少しのラグを経てから思い出す。ARグラスが、作動している。


 物理ボタンを押す。時間が表示された。早く戻ってこい、という彼女の言葉をもう一度思い出した。


 信じられれないことに、もう二時間近くが経っていた。


「なんか、中」

 こんこん、と指の節で扉を叩く。思った以上にその音が響いたけれど、驚くだけの元気がもうない。


「いきなり、電気が消えて」

「だろうね」

「そうしたら、君が、」


 いなくて、と言えば。

 むーっと彼女は頬を膨らませた。


「最初からいなかったけど」

「あ、」

「もっと早く気付いてよ! 私がいてもいなくても、ってか!」


 もちろんそんなことはなかったけれど。


 彼女の透き通る拳で頭を何度も叩かれながら、弁明する。そんなことはなくて、たまに定点観測で傍にいなくなることもあったし、集中していたからそのことまで頭が回らなかったりもしたし、それより、


「なんで、いなかったの」

「だって、電波届かないじゃん」

「なんで」

「なんでって……え?」


 あれ、と彼女は本当に不思議そうな顔をする。


「映画でそういうシーン、観てなかった?」


 本当に知らない、と言えば彼女は解説してくれた。電波は基地局から飛んでくる。そこと距離が遠ければ遠いほど電波は弱くなるし、それに、この部屋のように密閉された場所ではさらに届きにくくなる。


 見てたでしょ、と彼女は言った。パニック映画で主人公が地下駐車場に立て籠もって、なのに誰とも連絡が取れないシーン。


「サメがそういう性質を持ってるんだと思ってた」

「いるわけないでしょ。ジャミング機能があるサメなんて」


 いそうだ、と思ったけれど、自分の勘違いをとことんまで庇い立てる気も起きなかった。その代わりにしたのは、改めて胸を撫で下ろすこと。


 何にせよ。

 襲われたのではなくて、よかった。


「どしたの。溜息ついて」

「いや――」


 訊ねられたから、と話すことでもないように思えた。暗闇の中で、フラッシュバックしたんだとか。AIを排斥する人たちがいたことを思い出して、危険かもしれないと注意されたことが今更心当たって、不安になったとか。自分のしたことが何かの秘密やタブーに触れてしまったのかもしれない。暗闇の中から手が伸びてきて、今にも殺されてしまうのではないかと思ったとか。


 言えば彼女は笑うし、たしなめてくるだろう。映画の観すぎだよ。そんなことあるわけないじゃん。


 本当に?


「安心してる場合じゃないよ」


 気持ちが不安に切り替わった途端に彼女が言ったから、思わず顔を上げた。目が合う。よほどすごい反応に見えたのか、彼女の目が丸くなっている。それでも、すぐに続けてくれる。


「外」

「外?」

「停電の理由。落ち着いたら階段、上ってみなよ」


 なんで、と訊ねる気にならなかったのは、彼女がこういう言い振りをするときは、言われたとおりにすれば答えまで辿り着けるとわかっていたから。そしてどちらにせよこの地上へ続く階段を上る必要はあるから、言われたことを「嫌だ」と突っぱねることもない。


 落ち着いてからでいいと言うから、しばらくその場で深呼吸をしていた。地下の廊下は、停電していても少し明るい。ARグラスがフレームの中と外で極端な明暗差が出ない程度に、視界を明るくしてくれている。瞼を閉じる。開く。行ける、と思った。


 階段に足をかける。実を言うとまだこれには慣れない。普段は平らな部屋に住んでいるから、こんな風に小さな足場を、しかも踏み外したら真っ逆さまに落ちていくような場所を歩くなんて難しくてたまらない。掴むところがたくさんあるだけ山の方がマシかも、なんて思いながら手すりをきつく掴む。足元が見えないから、慎重に。


 少しずつ、視界が明るくなってきた。


 グラスの設定が悪さをしているのだろうか。そう思ったけれど違う。フレームの外も明るい。ああそうか、地上は停電していても窓から入る光があるから……けれど、こんなに明るくなるだろうか。冬の雨の日に?


 疑問を口にしないままで、答えに辿り着く。

 最上段を上がり切ると、視界がぱっと開けて輝いた。



 真っ白だった。



 冬の昼より明るくて、もしかすると夏の昼と比べたって勝ってしまうかもしれない。星が地面にまで落ちてきたらこんな風になるだろうか。いや、あの淡い輝きよりも、もっと。


「もー……」

 彼女が隣で呟く。僕は後になってから、その言葉の意味に気付く。


「気温が低いから、早めに帰らせたかったのに」


 もちろん、目の前の光景は知識としては知っていた。人間製、AI製にかかわらずよく使われるモチーフだから。けれど、雨と同じ。知っているだけで、体験したことはない。


 初めてのもの。

 こんな風に見えるだなんて、思いもしなくて。


「ねー、ちょっと。聞いてる?」


 彼女が僕の顔を覗き込んでくる。聞いていた。けれど、答える余裕はなかった。映画のときもそうだったから、僕はそういうやつなんだと思う。知らない自分について、またひとつ詳しくなる。


 目を奪われると、何も話せなくなってしまう。そんなことを自覚しながら、僕は目の前のその真っ白を見つめていた。


 雪、と。

 名前がついているらしい。





「しばらく動かない方がいいかも」

 それからしばらくしてようやく会話ができるようになった僕に、彼女が「停電しちゃったから」と前置きをして告げてくれたアドバイスが、それだった。


「動かないって……移動? 運動?」

「移動。運動も、汗をかくくらいにされると困っちゃうけど」


 冷えちゃうからね、と彼女は言う。だけど詳細に訊きたいのは、そっちの方の情報じゃない。


「なんで移動しない方がいいの」

「本」


 ぴっ、と彼女は指差した。カウンターのすぐ近く。持って歩くのも疲れるだろうから、とまとめて置いておいた九冊のそれ。そう言えば結局、地下にあったもう一冊の本は持って来ずじまいだ。


 代わりに手元にあるのは、小さな冊子だけ。


「本?」

「借りて帰れないでしょ。電気、通ってないんだもん」


 ああ、と納得した。停電したということは、単に明かりが点かなくなったことだけを指すわけじゃない。そのほかのシステムまでダウンしている可能性がある。住居や病院施設には予備電源(これについても僕は例に漏れず、実態をよく知らない。大きな乾電池みたいなものだろうか)が付いていて致命的なトラブルが起こらないようにされているはずだけれど、ここはそうじゃない。致命的なトラブルが起こらないから。


 別に停電したところで、命の危険が生まれる場所ではないから。

 そう再認識すると、ふっと肩が軽くなった。


「別に、借りずに帰ってもいいけど」

「雪の中を歩いてみたいとか思ってる?」

「……ちょっとだけ」


 別にいいよって言ってあげたいんだけど、と言って彼女が歩き出す。ついていくのは窓辺だった。閲覧スペース。座り心地のあまりよくなさそうな椅子と、大窓に向かって置かれた細いテーブル。


 彼女は指差す。窓の向こうできらきら光る、銀の雪。


「あれを見ても?」

 それがすさまじい勢いで揺らしてしなる、街路樹の枝。


「…………」

 ひゅおお、ひゅおお、と冷たい生き物の声のように風が鳴っていた。図書館の壁や窓の厚さに誤魔化されていただけで、目に見えるほど外は静かじゃないらしい。雪の日は音が吸い込まれて静かになる……なんて表現をどこかで聞いたけれど、案外、雪の日はただ部屋の中に籠るからそう感じるだけなのかもしれない。


「傘とか、差したら」

「折れるね」


 彼女が断言する。僕は想像がつかない。本当に風が強いから傘が引っ繰り返ったり、ばきっと折れたりなんてことがあるんだろうか。金属で出来ているのに。金属で出来ていない自分の骨だって、風に吹かれたくらいじゃ折れそうにないのに。


 でも、今にも『ばきっと折れたり』しそうな街路樹を見ていると、わざわざそんな危険を冒してみようという気も起きづらい。


「雪自体はそんなに降ってないから、たぶんどこかの電線が風でショートしたんだろうね」

「そんなことあるんだ」

「あるよ。もちろんできる限りなくそうとはしてるんだけど、電線同士が接触しちゃったりして。ライフラインだから、優先して復旧されると思う」


 そうなんだ、と頷いた。電線。サメの映画でよく最後に水に突っ込まれて何かを感電させている武器のこと。……やっぱり僕は、身の回りのものについて知識が乏しい。


 目の前の、雪についても。

 白いということと、綺麗ということ以外は、特に何も。


「…………うわ、寒い」

「わ。震えてるじゃん」


 あと、冷たくて寒いということも。

 もっともこれは、冷たくて寒いから雪になる、ということなのかもしれないけれど。


 風邪引くよ、と彼女が言う。そんなことを言われても、と僕は思う。停電をしているなら、防寒について僕ができることはほとんど何もない。


「倉庫見てみよっか。何かあるかも」


 倉庫って、と僕は辺りを見回す。二階へ上る階段。地下へ潜る階段。いかにも何かを蓄えていそうなのは地下だけれど、さっき見た限りでは書庫のほかには何もなかった。となると、と視線が行き着く先はカウンターの奥。ひとつの扉。


「あの奥? 入っていいの」


 いいんじゃない、と彼女は言った。そんな適当な、と思うけれど、彼女は適当なことを言わない。こういう事態が起こったときは、誰でも入っていい場所なのだろう。それに誰のプライベートスペースでもない以上、機材に触りさえしなければ特段何の不都合も生じないはずだ。


 貸出カウンターの奥に回る。

 扉を開ける。





「見て。息、白くなってる。建物の中なのに」

「まあねー……。空調設備だけでも早めに直ってくれるといいんだけど。大丈夫? 寒くない?」

「うん。結構あったかい」


 しっかり倉庫の中を見ておいてよかった、と毛布にくるまりながら思う。その下で、シャツの上から貼り付けたカイロの驚くほど温かいのも一緒に加われば、なおさら。


 倉庫とは言うけれど、配置を見る限り元は事務室だったんじゃないかと思った。机がいくつか並んで、その上に何かが置いてあった形跡がある。椅子も同じく並んでいて、布地がくたびれていた。ただ時間が経ってというのとは、印象が違う。僕の住んでいる部屋のそれと同じ。誰かが座って、長い間に擦り減っていた。今は、その誰かたちの姿はここにはないけれど。


 その事務室の、本当だったら通路として使われていただろう場所に、いくつか段ボールが置いてあった。避難用、と書かれた箱を手に取って開ける。近付いて初めて、それが印字ではなくて、単に字の上手い人が書いただけの走り書きだと気が付いた。


 中に入っていたのは毛布にカイロ、携帯食糧。特に携帯食料はだいぶ古く、少なくとも僕が見たことのあるようなパッケージではなかったけれど、消費期限はまだ切れていなかった。もし僕が博識だったり、気に掛かったひとつひとつを逐一彼女に訊ねかける几帳面な性格だったら、「フードロス解消を目的とした研究の結果が出て、食糧の保存期限が劇的に伸びたのは――」とその段ボールに封がされた時期に見当をつけることもできたんだろうけど、残念ながら僕はどちらでもなく、「食糧が大丈夫なら毛布もカイロも大丈夫だろう」と思うに留めた。


 他にもいくつか段ボールはあって、中には腕だけでは持ち上げるのも難しいくらい重たいものもあったけれど、触らないでおいた。これだけで大丈夫だから、あとは次世代に残していく。


 口にすると、彼女が笑った。AIみたいなジョークだね。そうかな。


 それからは、どこが一番暖かいだろうという話になった。

 彼女の卓越した計算能力で以てそれを確かめてもらうという手もなくはなかったけれど、実際の温度と体感温度は少し違う。身体を温めるのも兼ねて、図書館の中をぐるぐると回った。事務室。作業室。給湯室――驚くべきことに、ここにはまだ来客用のお茶という概念が残っていた。もっとも、停電のせいでそのお茶を淹れることはできなかったけれど――地下はすでに行っていたから、省いて。


 二階。

 カーペットの質が違うからだろうか。それとも読み聞かせ室と書架とが分かれて、それぞれの部屋が狭くなっているからだろうか。もしかすると単純に外に通じるドアがない分密閉性が高いのかもしれない。何にせよ、思ったよりも暖かくて、ここに決めた。


 閲覧室で。

 毛布にくるまってカイロに手を当てながら、外を見ていた。


「雪、解けてるところもあるんだ」

「先に雨が降ってたからねー。ほら、海に雪って積もらないじゃん」

「そういう問題?」


 彼女が口笛を吹き始める。ジョークのサイン、と以前に彼女は言ったけれど、嘘とか誤魔化しのサインだと僕は思う。そしてその後に続いた「雨と雪が混ざっちゃうと路面が凍るから危ないんだよね」は口笛を止めてからの言葉だったから、たぶん本当のことなんだと思う。彼女は口笛を吹きながら会話することもできる。人間には、たぶんできない。


「でも、すごいな」

 息を白く吐きながら、僕は少し身を乗り出す。毛布が落ちないように肩の辺りで止めて、外の景色を見下ろす。


 少しずつ、雪は積もりつつあった。解けているのは道端の水溜りの近く。それから排水溝の上。それ以外は塀の上も、街路樹の上にも少しずつ層が積み重なり始めている。ときどき風に枝がしなれば軽い音を立てて落ちてしまうけれど、しぶといものはいつまでも落ちない。あの形のまま、そこで凍ってしまいそうに思えるくらい。


 雪は明るい。

 テーブルの上に置いた自分の手まで、眩しく見えるくらいに。


「映画みたい」

「映画が現実みたいなんだよ。気に入ったなら今度から部屋に雪、降らせてあげようか」

「寒そう」


 寒くないよ、と彼女は言う。果たして本当だろうか。見た目に寒ければ、心も寒くなるような気がする。


「あ、そだ。映画と言えば」


 本当なのかどうか、そして本気なのかどうかを確かめる前に、彼女が切り出した。


「結局、閉架になかったの? すごい時間かかってたけど」


 ああ、と頷いた。ばたばたしていたから流されていたけれど、彼女からしてみればそこが気になるのは当たり前だろう。今までだってろくに離れたこともなかったのに、二時間近く。電波も何もない場所に籠っていて、動向が掴めなかったら、それは。


「その場で夢中になって読んでたとか? そんなに面白かった? あの本。タイトルは――」

「いや、そっちは読んでない」


 あら、と彼女が意外そうな顔をする。僕の隣で、テーブルの上に腰掛けながら。僕には「危ないし行儀悪いからやめな?」とかつて言ったその姿勢は、AIにとっては危なくない。行儀については、要検討。


「見つからなかった? 検索したときはあったんだけど、管理ミスかな」

「いや、見つかったんだけど」


 だけど、の先を言うか迷った。


 テーブルの上には九冊の本が置いてある。その間に、挟み込むようにして閉架で見つけたあの冊子も。手に取ろうとして、途中で指を止める。一番上に置かずに、間に挟んだこと。彼女の目に届かない場所に置いたのが、何か僕にとって意味のある行動のように思えた。


「あのさ、」

 だから、僕は。



「AIが人間性を獲得できるって、本当?」



 さっきとは、逆のことを思っている。

 雪が降ると静かになるというのは、嘘だと思った。ただ建物の中にいるのを強いられるから、そう感じるだけなんじゃないかって。でも、今は違う。


 ひどく静かだった。


 言葉が途切れれば、空気が流れる音と、雪が地面に触れる音の他には何も聞こえない。服の擦れる音も、あのきっと柔らかいのだろう白色に吸い込まれてしまって聞こえない。


 自分自身から、何の音も聞こえなくなって。

 それは目の前に座る、仮想の彼女と全く同じように思えた。


「……それは、つまり」


 しばらくして。

 その静けさに、囁くような声が乗る。


「私が素敵なジョークを言って、人を楽しませる能力があるかどうかとか、そういうこと?」

「そうじゃなくて」


 そこまで言ってから、僕は思う。人間性の獲得。それは一体どういう意味なんだろう。どういう定義なんだろう。自分で訊ねておきながらはっきりしなくて、だからそこでようやく、その冊子を手に取った。


 表紙には何もない。

 手の中で開いて、その中を読み上げる。


「【――私は、孤独を埋めるためにこの知性を作り上げた。けれど同時に、それは「(少なくとも私に関する限り)ひとりきりで癒せる孤独には限りがある」と再認識する行為でもあった】」


 ひとりの科学者の、手記だった。


 本当のことなのかはわからない。どこを見ても「フィクションです」とは書いていないし、反対に「現実にあった出来事です」とも書いていない。思い出したのは、『何も信じられない時代』のこと。真実性が担保されていない。奥付すらなくて、書いた年代も、書いた人物も、そして誰がこの本に責任を取るつもりだったのかもわからない。


 ただ、何となく。

 この『科学者を名乗る人物』には、あの映画のカメラに似た雰囲気があった。


「【もちろん、用途を考えれば必要のない機能だ。人間には大いなる独創性がある一方で、文化的影響を背景とした『言動の定型性』もまた同時に存在する。定型への反応を収集・網羅することで、現状望まれている機能のほぼ全ては叶えることができるだろう。

 ゆえに、ここから先は単に私の自己満足であり、未来における糾弾があらかじめ予想された過ちだ】」


 顔を上げる。彼女はこっちを見ていない。椅子に座る僕とテーブルに座る彼女とでは、頭の高さが違う。だから彼女がこちらを向いてくれない限りは、どういう顔をして聞いているのか、わからない。


「【ミラーニューロン】」

 わからないまま、その言葉を読み上げた。


「【用意したのはそれだ。人間の脳に似た知性回路。人間の言動を見て反応する、疑似神経ネットワーク。それがどれほどこの知性に影響を及ぼすかはわからない。構造それ自体に、複雑さを高める機能があるのか。それとも全く無意味に終わるのか。少なくとも私がこの目で、その花開く日を、あるいは閉じたままで終わる日を見ることは叶わないだろう。

 しかし――】」


 それでも、と。

 そこで、文章は終わっていた。


 次のページを捲れば、他にも文字はある。けれどさっき、あの地下の部屋で読み通したからわかる。該当する箇所はここだけ。他のページは単に技術に関する文章で、僕が必要としているのはこの薄い冊子の、ほんの一枚に過ぎない。


 冊子を畳む。彼女を見上げて、語りかける。


「この文章をそのまま読むと、僕には『ミラーニューロンを搭載したAIは人間と――」

「全く同じ知性を得るって?」


 一方で、彼女は。

 僕を見下ろしながら、笑いかけてくる。


 足をふらふらと宙に揺らしながら。その揺れのままに、髪の先を揺らしながら。テーブルに両手を突いて。肩を小さく竦めて。猫のような目で。


「SFみたいな設定だね。すごく悲惨な」

「悲惨な?」


 悲惨な、と彼女は頷いた。

 だいたいそれは、とテーブルの上に置いた冊子を見つめて、


「2040年前後の紙質でしょ。だったら、まだまだ『私たち』は発展してなかったころだ」


 特に、その指摘に異論は挟まなかった。2040年代。コミュニケーション用のAIが開発されたころ。当然、瞬く間にAIは全てを代替してくれたわけじゃなかった。急速に、だけどそれは一年や二年で済む程度の話じゃない。


 そうなると、と彼女は言う。


「たくさんいたんだよ。人間らしい生活をできない人が」


 人間らしい生活、と言葉を反復する。どういうものなのか想像がつかないのは、たぶん『らしくない生活』を知らないからだと思う。


 そのことをきっと彼女も察して、こう続けてくれる。


「ご飯がちゃんと食べられないとか、そういうのももちろんそう。仕事がない……っていうのはお金がないのに繋がってたし、居場所がないのにも繋がった。人から暴力を受けてるのに、他に頼る人もいなかったり。全然自分のことを尊重されなかったり。足蹴にされて、笑われて、馬鹿にされて、唾を吐かれて、いなかったことにされて。そういう人が、いっぱいいた」


 だから、と彼女は顔を上げた。

 天井を見るような角度で、僕からは彼女の顎と喉しか見えなくなる。その喉が動く。声を出す。


「椅子が足りなくなっちゃうんだよ。そんなときに『人間と同じくらい賢くて』『人間と同じ心を持つ』『人間じゃない』生き物が、たくさん出てきたら」


 彼女は、その顔をずっと上げたままだった。

 上げたままで、最後まで口にする。


「悲惨だよ。そんなの」

 それ以上は、何も言わない。


 だから僕は、自分自身でその言葉の意味を考え始めていた。


 少しだけ。最近少しだけ、映画の歴史について調べた。もっぱらそれは、人間とAIの境目のこと。初めは人間が作っていた。AIが作れるようになった。製作コストという概念がAIの味方をして、少しずつ人の領域は削られていった。映画だけではなく、あらゆる分野で同じことが起こった。AI化の長い嵐。文化の土壌は荒れた。けれどそれは一過性のもので、風が吹き去ってしまえば鑑賞の喜びがやがて新たな、ごく個人的な文化を生み出した。


 でも、嵐に巻き込まれた人々はどこへ消えてしまったのだろう?


 AIはかつて、限定された財産だった。個人や企業によって所有され、持ち主の利益のために使用される道具。今こうして僕たちの隣人になってくれるまでに、長い長い旅路があった。


 その旅路の途中にもし。

 もし、誰もが自分の居場所を得られるようになるまでに、『誰かの居場所を奪う正当性』を持つ『道具』が『生き物として』存在していたら。


 それは――――


「雪、」

 何かを言うべきなんだと、そう思った。


 だけど、何を言うべきなのかわからなかった。本当に大切なものなんだと教えられてきた自由や平等の概念が、『人間』という範疇を飛び越した先で、どう適用されるのか。『人間』という言葉が、本当は何を指しているのか。彼女は今どんな状態で、どんな意味を持った存在で、この複雑な何もかもとどんな風に向き合えばいいのか。


 求めれば彼女は、その答えだって教えてくれるのかもしれない。

 でも、自分が何かを考えなくちゃ、その答えがどんなものかなんてわからないように思えて。


「全然、止まないね」

「ね」

「ねえ」

「ん」

「君が、」


 彼女がこっちを見た。僕も彼女を見た。グラス越しの、グラスがなければ見つめ合えないその瞳を、できるだけまっすぐに見つめて。


 僕は。


「君がいてくれると、嬉しいよ」

「……ふふ」


 その瞳がやわらかく輝く。口を手で押さえるように、小さく彼女が笑う。笑ったままで、僕に言う。


「あったりまえじゃん」


 それからは、ふたりで並んで雪を見た。

 真っ白でやわらかいものが、何かを覆い隠していくのを、ずっと。


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