第3話 弱さを自覚した少女は、一歩を踏み出した

 初めてのお茶会から、二週間。あれから週に三度ずつ、ニナはこっそりファータ・フィオーレのサロンに赴き、レオンツィオと、あるいはリオネッラ、ローザと、小さなお茶会を頼んでいた。

 そしてその日ニナはついに、髪を下ろして登校してきた。瓶底眼鏡はつけていたが、あのぎちぎちの三編みは解かれ、亜麻色の髪がふわふわと揺れる。生徒たちは最初、それがニナだとは気づかず二度見していた。

 当のニナはと言えば、心臓を激しく鳴らして、だけれどそれを顔には出さずに教室に入る。誰にも挨拶をされないのはいつものことであったが、あの日からリオネッラとローザが笑みを携えひらひらと手を振ってくれる。今日は髪を下ろした姿に少し驚いた顔で、けれどすぐにふたりとも満面の笑顔になった。

 たったそれだけで、涙が出るほど嬉しくなるニナである。だけれどその喜びは、一瞬にしてかき消された。

「おい、お前! どういうことだ!」

 何度も聞いた、ニナを責める声。婚約者のレアンドロがニナに歩み寄り、彼女の髪をさして言った。

「――ごきげんよう、殿下」

「オレの質問に答えろ、ニナ! 髪を下ろしていいと言った覚えはない!」

 この言葉は、想定内だ。レアンドロが何か言わないはずがなかった。ニナはゆっくりと深呼吸をして、準備していた言葉を発した。

「申し訳ございません、殿下。今日うっかり、寝坊をしてしまいまして。髪を結ぶ時間もなかったのです」

 動揺を見せず、頭を下げる。レアンドロはチッ、と舌打ちをした。

「オレの婚約者ともあろうものが、寝坊だと? なんて無様な!」

「――殿下なんて、何度遅刻したかわからないのにね」

 誰かの声が聞こえ、レアンドロは勢いよく顔を上げる。

「おい、今オレに無礼なことを言ったのは誰だ! オレは王子だぞ!」

 今度は誰の声も返ってこない。ニナが頭を下げたままちらりと視線を動かすと、ローザが舌を出して笑っていた。

 レアンドロはいつもそうだった。自分の非を認めないどころか、王子だから全て許されると思っている。そんなはずはない。そんなこと、許されるわけがない。王族であるから何をしてもいい、などということがまかり通ってしまったら、この国はとっくに滅んでいる。

 家に迷惑がかかってしまうかもしれないと思って、今まで我慢していた。きっといつか、王子も態度を改めてくれるのではないかと期待を抱いたこともあった。

 だけれど果たして、レアンドロが変わる未来があるのだろうか。

「あの、殿下。……よろしいでしょうか」

「何だ」

「今後のことについて、お話したいことがございます。今日の放課後、お時間をいただきたいのですが」

「今日だと? それは」

「今日の放課後はあたしとデートの約束をしてるから、無理ですぅ~!」

 二人の間に割り込んできたのは、デーリア・カルデラーラ男爵令嬢。レアンドロの「浮気相手」だ。レアンドロの腕にぎゅっとしがみついて、にたりとした笑みを浮かべてニナを見た。

「そういうわけだ。お前に割いてやる時間はない」

 浮気をしていることを隠しもせず、婚約者の申し出を拒絶する。ニナの胸に浮かぶのは悲しさではなく、虚しさであった。

「……でしたら、殿下の都合の良いときで構いません。どうかお時間を」

「ねぇニナさんさぁ、今さらレアンドロ様の気を引こうとか、無駄だと思いますけど。だってアタシの方が可愛さもカラダも、ニナさんより上だし! そうよね、レアンドロ様!」

「あぁそうだな、デーリアはニナよりもずっと良い女だ! 愛嬌があるし、オレの良さを誰よりもわかってくれている!」

 本気でそう言っているのだろうか。

 そんなふうに思ってしまったのは、リオネッラとローザである。今でこそ瓶底眼鏡をしているとは言え、レアンドロはニナの素顔を知っているのではないのだろうか。デーリアは確かに愛嬌はあるのだろう、だが年齢にそぐわない濃い化粧は、若干やり過ぎてしまっている雰囲気だ。

「あーら、それならさっさと婚約解消なされば?」

 ニナの身体が小さく震えた。はっと視線を向けると、教室の入り口にレオンツィオが立っている。お茶会の日からこれまで、レオンツィオが教室を訪ねてくるのは初めてである。口角を上げたにやけた表情で、つかつかとレアンドロに歩み寄った。

「何だ、貴様!」

「初めましてでもないけれど、どうせ覚えていないでしょうから。改めてご挨拶差し上げます、殿下。レオンツィオ・アルバーニ。どうぞお見知りおきを」

 レオンツィオの顔を見たレアンドロは、はっ、と鼻で笑った。

「……あぁ、なんだ。誰かと思えば気色の悪い喋り方をする男か。女とつるんで手芸やお茶会に興じているらしいじゃないか。軟弱者めが」

 ぴくりと、レオンツィオの眉が動く。けれどその顔から笑みは消えなかった。

「アタシのことはどうでもいいでしょう。それよりも殿下、婚約者のレディ・ミネルヴィーノよりもそちらのご令嬢を優先すると言うのなら、もう婚約を解消してしまってもいいのではなくって? そして新たに、ご令嬢と婚約なされば」

 レオンツィオの言葉に頷いたのはローザたちだけではなく、クラスメイトの何人かもだった。

 皆言葉に出さないだけで、レアンドロの態度には思うところがあったのだろう。

 目を輝かせたのは、デーリアだ。

「あたしはそれが一番いいって思ってるんだけどぉ~」

 デーリアとは逆に、レアンドロは顔をひきつらせていた。

「お、王族の結婚とは、そう簡単に解消出来るものではない! オレは何度も解消を申し出ているが、父上が……そ、それにニナの家の父親が特に猛反対しているのだ!」

「ふぅん? でも殿下がレディ・ミネルヴィーノのお父様に告げたら済む話じゃない? 真に愛する相手がいるから、ニナとの結婚は解消する! って」

 目の前で起きている光景を、ニナはぽかんとした顔で見つめていた。ずっと言えずにいた、言うことは許されないと思っていた言葉を全て、レオンツィオが言ってくれている。レアンドロと対峙している間、ずっと冷えていた指先が少しずつ温もりを取り戻していた。

「まさかとは思うけど、面倒な仕事をニナに任せて、ご自身はそのご令嬢と一日中しっぽり過ごそうとか考えていらっしゃらないわよねぇ! 殿下ともあろう御方が! そんな都合のいいこと思ってたりなんかしないわよねぇ!」

 ざわりと、教室にざわめきが走る。察していたもの、さすがにそこまでは、と考えていたもの様々であったが、今やレアンドロを見る眼差しは冷ややかで。それまで媚を売っていたクラスメイトも、目を背けて関わらないようにしている。

 レアンドロはぶるぶると拳を震わせて、表情を歪ませた。レオンツィオを睨みつけ、デーリアの手を振り払い大股で歩み寄る。

「貴様、オレを誰だと思っている?」

「レアンドロ王子殿下、でしょう?」

 刹那、レアンドロの拳がレオンツィオの頬を打った。ニナは驚愕に顔を歪め息を詰め、ローザとリオネッラが身を乗り出す。

「貴様がどこぞの公爵家の息子だろうが、オレより格下であるということを忘れるな。王族の力を以てすれば、貴様の家など簡単に潰せる」

 ふん、と鼻で笑い、レアンドロは教室を出て行った。デーリアもレアンドロの後を追いかけて行き、教室は一瞬静かになる。ニナははっと我に返ると、慌ててレオンツィオに走り寄った。

「レオンツィオ! ご、ごめんなさい、わたし、わたしのせいで、こんな、」

 泣きそうに顔を歪めて慌てるニナであったが、レオンツィオは「ふっ」と吹き出して、それから声を上げて笑い出した。

「ねぇ、聞いた!? 今の捨て台詞! 三下のキャラのセリフじゃない、小説で良く見るわ!」

 おっかしー! と膝をバシバシ叩いて笑うレオンツィオの頬は赤く腫れ上がっており、ニナは眉を下げてレオンツィオの頬に手を伸ばした。レオンツィオは笑うのを止め、ニナを見やる。

「ニナ?」

「あの、痛くはありませんか? 真っ赤になって……」

「ふふ。アタシこう見えて打たれ強いのよ。あいつのパンチなんて、ぜーんぜん効かないわ。それよりニナ、いい感じじゃない。しっかり話そうとしてて、偉いわ」

「……断られてしまいましたけど……やっぱり一度ちゃんと、お話をしないといけないと思ったのです。お話をしたらもしかしたら、殿下も私の気持ちを理解してくれるんじゃないかって、思ったんですけど……」

「ちょっといいかい?」

 ニナのクラスメイトの一人である伯爵子息が、遠慮がちに声をかけたきた。ニナとレオンツィオが顔を向けると、伯爵子息はニナに尋ねる。

「僕ずっと、ミネルヴィーノ嬢はあの王子を受け入れてるんだと思ってたんだけど、もしかして全然ちっともそんなことなかったのかな」

「アレを受け入れるって、女神様でも無理じゃない?」

 レオンツィオが言うと、伯爵令息とその周囲にいる令嬢令息は納得したような表情を浮かべた。

「私、なんて心が広い方なのかしら、って思ってたけど、そうよね、あり得ないわよねアレは」

「だって自分は平気で浮気してるくせに、ミネルヴィーノ嬢とは誰も話すなって言うのよ。矛盾してるわよね、それって」

 令嬢たちは、皆が皆同情めいた表情で。令息たちは気の毒そうにニナを見て、思い思いに言葉を漏らした。

 ニナは、自分がずっと一人ぼっちであったのは、レアンドロが一番の要因であるが自分のせいでもあったと強く実感する。もっと早く我に返って、行動に移していれば良かった。父親の言う「幸せ」に違和感を持って、しっかり声をあげるべきだった。

 勇気を出せず、言われるがままにしていた自分の弱さ。

 つくづく、それを思い知った。

「あの……あの、わたし、」

 ニナがもじもじと手元を動かし、視線を泳がせる。レオンツィオは穏やかに笑って、ニナの言葉を待った。

「わたし、皆さんとずっと、お話ししてみたいと思っていて……普通の、クラスメイトみたく、接して貰えないでしょうか」

 クラスメイトたちはざわざわとして、顔を見合わせる。令嬢の一人が、戸惑いを帯びた声で言った。

「そうしたい気持ちはあるのだけど、ミネルヴィーノ様と関わることで殿下……王族に何かされるかと思うと、怖くて」

 レオンツィオがまた声を上げて笑う。

「あのねぇ、皆してあいつの言うこと真に受けてるけど、気にしすぎ! あいつの言う通り、殿下に逆らった令嬢令息すべてに罰が下されるのなら、同じだけ反感を食らうでしょ。本当の王家はそこまで愚かではないはずよ。レアンドロ殿下が例外なだけで……っていうかいい加減、アレをほったらかしにしたままなのもやめてほしいわよね~」

 ね、と、レオンツィオはニナに向かってウィンクする。ニナは頬を染めて、安堵の表情を浮かべた。

 令嬢令息たちは、少しずつ納得しているようだった。

「あの、それじゃあ……これからよろしく、ミネルヴィーノ嬢」

「私も。実はあなたがいつも読んでる本、気になっていたの。私も読書は良くするから……」

 ニナの周りには、すぐに人が集まってきた。中にはまだ様子を窺っていたり、レアンドロからの報復を恐れてか近づかないものもいたが。ぽつんと一人孤立していた頃よりは、ずっといい。

 ローザとリオネッラも加わって、一層賑やかになる。ニナの表情にも、笑顔が浮かんでいた。

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