第2話 オネェ系公爵子息、激しく興奮するの巻

 ニナ・ミネルヴィーノの普段着は、やはり地味だった。暗い色合いの服ばかりがクローゼットに並び、婚約者であるレアンドロの贈ったドレスも酷く地味なものばかりであった。アクセサリーや花を贈られたことは一度もなく、ましてやデートをすることもない。形ばかりの婚約者であり、レアンドロからの愛など微塵も感じてはいなかった。

 過去に一度だけ、レアンドロに聞いたことがある。あまりに自分の知る公爵令嬢の姿と、彼の望む自分の姿が異なったためだ。

 するとレアンドロはふん、と鼻で笑い、「女が優秀である必要などない。常に慎ましく淑やかで、ただ在ればいいだけの存在だ。お前はオレより優秀であってはならないし、オレより目立ってはならない。他人との交流など以ての外だ。お前を愛してやる気などないが、父上から命令された結婚だからな、あくまで形だけのものだ。お前は黙ってオレの言うことを聞いていればいいんだよ」――と、言ってのけたのだ。

 酷くショックを受けて、父親に婚約解消を訴えたが、当然受け入れられることはなく。母親に助けを求めようとしたが、当主である母は常に忙しく、ニナは迷惑をかけたくはないと考えてしまった。だからニナには、現状を受け入れる選択肢しか残されていなかった。自分が何か粗相をすれば、家が責められてしまう。

 言われるままに分厚い眼鏡をかけて、きつく三編みを結んで。化粧などすることはなく、アクセサリーをつけることもなく。そして友人を作ることは許されず、最低限の会話すらもままならない。

 どうしてこんなことに。

 最初こそ酷い絶望に泣いてばかりだったニナは、いつしかその状況に慣れてしまった。目立たないこと、交流をしないこと。婚約者が何をしていても、見ないふりをすること。彼女の感覚は麻痺して、それが当たり前の日常になってしまった。

 そんなときだ。

 彼との接触は、本当に突然だった。

 唐突に木の上から現れて、よく動く表情で言葉を紡ぐ。レオンツィオ・アルバーニは、とても有名な公爵子息だった。

 平民の女性のような口調に、華やかな笑顔。振る舞いはとても丁寧で美しく、友人も多い。ニナは何度かその、きらきらと輝く笑顔を見た。令嬢令息問わず様々な人と交流し、笑っている姿。なんて眩しいひとなのだと思った記憶がある。

 自分とは縁のない人間。きっとその笑顔を間近に見ることはこの先もない。そんなふうに思っていた。

 それがあの日。今から約二週間前。

 木の上から現れた彼は、ニナに一枚のカードを渡した。

「変わりたいと思ったらこの住所の場所に来てちょうだい。それまでは今まで通り、アタシはあなたに声をかけないし興味のないふりをする。あなたがこの場所に来なければ、その先もずっとね。いくらでも悩んで構わないわ」

 自分の状況を、誰かに話したのはこれが初めてのことだった。家の事情を軽率に話してしまうことは、公爵令嬢としてマナー違反だと思っているのだが――彼なら。レオンツィオなら決して口外することはないだろうと思えた。馬鹿にしたふうでもなく、ただ本当にニナの行動に疑問を持って声をかけたのだろう。

(たくさん友達のいる方だから、私のことなんて一生気づかれないと思ってた)

 違う世界に住む人であるのだと、最初から交流を諦めて。声をかけられたときはとんでもなく驚いたが、嬉しかったのも事実だ。

 レアンドロに支配されたままの人生――それが当たり前であると受け入れていた自分。心のどこかではずっと、なぜ、どうして、と叫んでいたと言うのに。

 変わってみない? の問いかけを、すぐに受け入れることは出来なかった。現状を変えてしまう恐怖はどうしたってあって、レアンドロに知られたらどうなってしまうことかわからない。父親からは間違いなく叱られる。

 でも、だけれど。

 このきっかけを、無駄にしたくなかった。

 現状を変えられる可能性を、手にしたかった。

 だからニナは今、とある店の前に立っている。

 ファータ・フィオーレと書かれた看板を見上げて、ごくりと息を飲む。外観から、何の店であるのかは判断出来なかった。本当にここに来ても良かったのか、やはり帰った方がいいのか。しばらく迷いに迷っていた、そのとき。

 勢いよく扉が開かれ、ニナはひっ、と小さく声を上げた。

 出てきたのは大変ふくよかなご婦人で、バッチリキメたお化粧に派手なドレス、首元のネックレスは宝石が眩しいほど輝いて、ニナは目の前がちかちかするのを感じた。

「あら!? あらあら、まぁまぁ!」

 婦人はニナを見ると頬に手を当てて、きらきらと瞳を輝かせた。思わずたじろぐニナに、婦人はぐいと顔を近づけて上から下までじろじろと見やる。

「アナタ! 最高のダイヤの原石ね! うちの店に御用? 歓迎するわ、入ってちょうだい!」

 さぁさぁ、と扉を開いて、中へと誘う。ニナはふと、婦人の口調がやけに聞き覚えがあるものだと気づいた。

「あ、あの、わたし、レオンツィオ様からこのカードを貰って」

 レオンツィオの名前に、長いまつげをぱちぱちと瞬かせた婦人はさらに笑顔を深め、ニナの手を取った。

「坊やのお友達なら尚のこと大歓迎よ! ようこそ、ファータ・フィオーレへ。ここはアナタを花の妖精にする場所よ」

 手を引かれ、扉の奥へと進む。その先に広がったのは、鮮やかな色。たくさんのフリルやレースがカーテンや絨毯に用いられ、宝石や花があちこちに飾られている。女性が、あるいは男性が飾りや花を眺め、楽しげに言葉を交わしていた。

「ここ、ここは、えっと、」

「言ったでしょう? アナタを花の妖精にする場所だって」

 ファータ・フィオーレ。

 流行り廃りに拘らず、オーナーが良いと思った布や服、装飾品、日用品に至るまでたくさんのものが揃う店である。その店ではオーナー率いる精鋭のスタイリストが揃い、客を「花の妖精」へと変えてくれる場所として一部の貴族の間では有名な店であった。美しく着飾りそのまま社交の場へ赴くものもいれば、備え付けのサロンで優雅な一時を過ごすものもいる。客層は女性だけではなく、美を求める男性客も多い。

「あらぁ! 待ってたわよ、ニナ!」

 聞き覚えのある声に顔を上げて、ニナはまた息を飲んだ。

 学校は制服のため、皆が同じ服を纏っている。それでも彼は雰囲気がきらきらとしていて、目を奪われたのであるが。

 レオンツィオは青を基調としたコートにウェストコートとブリーチズ、袖や裾はたっぷりのフリルがあしらわれ、多彩な色糸と下品にならない程度の宝石で刺繍がされていた。彼の雰囲気とぴったりと合っている服装に、ニナは思わず見惚れてしまう。彼女が良く知る「王子」と、異なる雰囲気はまさに「王子様」であった。

「この子が坊やの言っていたダイヤの原石ね! 最高の素材じゃないの」

「でしょう? ニナ、この方はアタシがお世話になっているこの店のオーナーよ。マダム・アリーダ」

 ニナはぽかんとしたまま、レオンツィオを見上げている。レオンツィオが首を傾げ、ニナの目の前で手をひらひらと振った。

「……あっ! す、すみません、失礼をっ」

 頬を紅潮させてわたわたと慌てた様子のニナに、アリーダは瞳を細めて楽しげに笑った。

「あらいいのよ、気にしないで。レオンツィオ坊や、素敵でしょう? 私が見立てた服なのよ」

「あの、あの、……本で見た『王子様』みたいで、つい見惚れてしまって……」

 レオンツィオはふっと笑って、ふるふると首を振って腕を組んだ。

「仕方ないわ、ニナの言う王子様、はアレだものね。顔が良くても気品がなければ、真の王子様にはなれないのよ」

「私から言わせれば坊やもまだまだ坊やだけれどね」

「マダム。同級生の前でカッコつけたい男の子の気持ちをご理解いただけるかしら」

 きょとりと、瓶底眼鏡の奥の瞳を瞬かせているニナに、レオンツィオは小さく咳払いをして一歩歩み寄った。

「ニナ。ここに来たということは、覚悟を決めたってことね?」

 ニナは表情を引き締めて、小さくこくりと頷いた。

「何をどうすればいいのか、まだわからないんです。この選択が正しいのかも……でも、今のままでは駄目だと思って」

「最初の一歩が大事よ。踏み出せただけ大きな進歩だわ。――ニナ。アタシね、あなたはとても素敵なひとだと思うのよ。でもその分厚い眼鏡が、心を縛り付けるようなギッチギチの三編みが、台無しにしてる。だからまずは、外見から変わりましょう」

 そう言うとレオンツィオは、アリーダに目配せをした。アリーダはこっくりと深く頷き、周囲に視線を巡らせて手をパンパンと叩いた。

「アナタたち! こちらのダイヤの原石をピッカピカに磨き上げてちょうだい!」

「はい、マダム!」

 何人かの声が揃い、数人の女性店員がニナを囲んだ。ニナは身体を縮こまらせ冷や汗を浮かべ、きょろきょろとしきりに辺りを見渡しては戸惑った表情を見せている。レオンツィオは笑顔で、ニナに声をかけた。

「大丈夫よ、ニナ! アタシを信じて!」

 拳をぎゅっと握り、ね! と頷いて見せる。ニナはおどおどとしていたが、眉をきっと上げて深く頷いた。

 そのままニナは店員に連れられ、別室へと通された。アリーダは楽しげに笑みを深めて、レオンツィオを肘で小突く。

「珍しいじゃない、アナタが入れ込むなんて。訳ありみたいだし、良くしてあげなさいな」

「言われなくてもそのつもりよ。このあとローザたちも来るから、お茶とお菓子をお願い」

「あの子、公爵令嬢なんでしょう? 高級なやつを準備した方がいいかしら」

「いつものやつでいいわ! あの子に必要なのは、友人とのごく当たり前の時間よ。気兼ねなく楽しんで貰わなきゃ」

 レオンツィオはいつも明るくはつらつとしているが、今日はいつもにも増して活き活きしているように見える。アリーダは口元に手を当ててくすくす笑うと、ちらりと横目にレオンツィオを見て言った。

「本当、良い顔してるわよ、アナタ。まるで宝物を見つけたみたいにね」

「そうね、綺麗なもの可愛いものは全て宝物だわ」

 そういう意味ではないのだけど、とは、口には出さず。アリーダは別の店員に声をかけ、お茶とお菓子の準備を頼んだ。

 しばらくしてローザとリオネッラが合流し、三人は先にお茶会を始めることにした。ローザたちもここの店の常連で、サロンで良く小さなお茶会を開いている。

「まさか本当に彼女を引っ張り出してくるなんて思わなかったわ」

「あら、彼女は自らの意思で来たのよ。アタシはここの場所を教えただけ」

 四人分のティーカップが並べられ、テーブルの中央にはビスコッティなど数種類のお菓子が載せられたトレイ。レオンツィオたちの、いつものお茶会風景だ。

「レアンドロ殿下は、相変わらず?」

「えぇ、今日も件の令嬢と腕を組んで下校しておりましたわ」

 ふぅ、とため息をつくリオネッラである。あれから彼女も、馬鹿王子ことレアンドロとニナのことが気になってしまっていたらしく。ついついその行動を、目で追ってしまっていた。

「正直、殿下の行動の意味が全くわかりません。ニナ様を邪険にし、さらには束縛のような真似までして、なのにデーリア様とは恋人のように振る舞っている。デーリア様との結婚を考えているのでしたら、ニナ様を解放してくだされば良いのに」

「そうよね、使えない第三王子の結婚なんて、大した意味もないでしょうに」

「本人はそう思っていないのよ、きっと。公爵令嬢と結婚した方が外聞も良いし、彼女は優秀だから面倒なことは全て任せられる。さらに彼女の従順さを利用して、その功績は全部自分のものに……デーリア嬢のことは愛人にでもするつもりかもしれないわ」

 自分で言っていて気分が悪くなったのか、ローザは顔を顰めてお茶を一気にあおった。レオンツィオもむっすりとしており、腕を組み指先をトントンと鳴らした。

「アタシがなんとかしたいのは寧ろあっちの方ね。人前で粗相でもしないかしら」

「毎日してますわよ。でもいつも通り、先生たちは見ないふり。まるで殿下のことなどいないように振る舞っているように見えますわ」

「力のない権力者ほど厄介な存在はないわね~! 王家もなんであんなのをほったからしてるのかしらっ」

 きぃい、とヒステリックに叫んでしまった頃合い。サロンの扉を叩く音が聞こえて、レオンツィオは顔を上げ返事をした。扉が開き、アリーダが顔を見せる。

「お待たせ。ニナちゃんの変身が完了したわよ」

 がたん、と、レオンツィオが勢いよく立ち上がった。

 アリーダに呼ばれて、その後ろから一人の可憐な令嬢が姿を見せる。

 ふわふわの亜麻色の髪に、ぱっちりとしたアメジストの瞳。薄く化粧が施されて、その容姿は一層可愛らしく見えた。身にまとう服も、先程までの重い色ではなく、オフホワイトの布地に紫色の糸で細かい刺繍が入っているドレスに変わっていた。

 レオンツィオも、ローザも、リオネッラも。目の前に現れた令嬢がまさか「ニナ」であるとは、思いもしなかった。

「彼女、化粧を一度もしたことがなかったんですって。でも素材が完璧だったから、少しのお化粧でこの出来よ。まるでお人形さんのようでしょう?」

 ニナはぱちぱちと瞬きをして、それからローザとリオネッラに視線を向けた。それから慌てた様子で両頬を押さえ、後退る。

「コルテーゼ様、ファネッリ様も……! そ、その、は、恥ずかしいわ、こんなところを見られて」

「そ、そんなこと」

「そんっっっなことないわ!!」

 ロザリーが言い切るより先に、レオンツィオがずいと前に出てつかつかとニナに近づいた。きらきら、よりは目をピカピカに光らせて胸の前で手を組み、うんうんと何度も頷く。

「なんっっって可愛いの! 可憐だわ、愛らしいわ! ふわふわの亜麻色の髪も素敵、このアメジストの瞳も吸い込まれそう! あぁ、やっぱりアタシの目に狂いはなかった! あの分厚い眼鏡の奥に見えるアメジストが、ずっと気になっていたの!」

 ものすごい勢いのレオンツィオに、ニナは言葉を失っていた。まっすぐな称賛の言葉に慣れておらず、理解するまでに時間がかかっていた。そうしてようやく理解する頃には顔がトマトのように真っ赤になり、わっ、と両手で顔を覆った。

「あら、どうして隠しちゃうの?! その可愛いお顔、もっと見せてちょうだい!」

「ちょ、ちょっと、レオンツィオ! いい加減にして! ニナ嬢、困ってるでしょう!」

 ローザがレオンツィオの首根っこを掴んで、距離を取らせる。レオンツィオはあら、と小さく声を漏らし、少し離れた場所からニナに向き直った。

「ごめんなさい、ニナ。余りに可愛らしかったからテンションが上りすぎちゃって……」

「は、はい、あの、わ、わたしこそごめんなさい、こういうの慣れていなくて……」

 アリーダは楽しげに笑ってニナの肩を優しく叩くと、そのまま少しだけ背中を押した。

「これから慣れていけばいいのよ。さ、坊やたちとお茶会を楽しんで」

 あとは頼んだわよ、とレオンツィオに目配せしたアリーダは、そのままサロンを後にした。気を取り直したリオネッラが小さく咳払いをして、ニナに向かって礼をする。

「ニナ様。もうご存知のようですが、こうしてお話をするのは初めてになりますね。リオネッラ・コルテーゼです。どうぞリオネッラと呼んでください」

 ローザも居住まいを正して、リオネッラの隣に並んだ。

「ローザ・ファネッリよ。私のことも、ローザと気軽に呼んでくださる? 私たちもレオンツィオのように、ニナと呼んでも?」

「も、もちろんですわ! ――あの、ローザ。もう忘れていらっしゃるかもしれませんが、わたし、以前あなたに声をかけていただいて……とても嬉しかったんです。だけど、その……せっかくの好意をお断りして、申し訳ございませんでした」

 深く頭を下げるニナに、ローザは優しく笑って答えた。

「いいのよ。今はその理由もはっきりわかっているもの。こうしてしっかりお話する機会が出来て良かったわ」

「それもこれも、ニナが変わる勇気を出したからよ。さ、こっちに座って。お茶会の仕切り直しよ」

 ニナ、ローザ、リオネッラが席に着くと、レオンツィオはティーポットを手に取り、手慣れた様子で紅茶をカップに注いで行く。爵位が上がるほど、貴族が自ら給仕を行うことはない。常に身の回りを世話するものがいるためだ。ゆえにレオンツィオの行動に、ニナは思わず目を丸くしてしまった。

「ふふ。私も最初はびっくりしたけど、レオンツィオは好きでやってるのよ。気にしないで」

「そうですわ、ニナ。しかもレオンツィオが淹れた紅茶は中々のお味でしてよ」

「マダムの選んだ茶葉はどれも素晴らしいもの。まぁ、アタシの愛情が一番の旨味だけど」

 はいはい、と呆れたように笑うローザとリオネッラである。ニナは一瞬きょとんとして、それからくすりと、少しだけ笑った。レオンツィオは目敏くその表情を見やり、まじまじとニナの顔を見つめる。

「……あの、何か?」

「あなた、本当に可愛いわ。今まで意識していなかったのを後悔するくらい」

 再びニナの顔が赤くなる。

「あの分厚い眼鏡じゃ、誰も気づきませんわよね。――でもそうなると、ますます殿下の行動の意味がわかりませんわ。これだけ可愛らしい婚約者の、何が不満だと言うのでしょう」

「確かに。ねぇニナ、殿下にあの姿を強いられたのって、いつ頃から?」

 初めてニナを見たときから、ニナはずっと分厚い眼鏡にギチギチの三編み姿であった。

「えぇと……婚約をしてからすぐでした。六年ほど前、でしょうか」

「六年!? 六年もの間ニナという宝が封印されていたと言うの!?」

「レオンツィオ、声が大きい。それで、きっかけとかって覚えてる? まぁあの殿下なら、いきなり言い出してもおかしくないけど」

 ニナは視線をティーカップへと移し、少しだけ間を置く。過去の記憶が蘇り、眉が僅かに寄った。

「婚約お披露目パーティのときだったかと思います。招待された貴族の方々が、わたしに声をかけてくださったんです。いくつもの有名なブティックや宝石店も……著名な作家の方もいらっしゃったと思います。……殿下はそれが、気に入らないようでした」

 レオンツィオたちは理解出来ないとばかりに、顔を見合わせる。

「なぜお前ばかりが注目されているんだ、王子のオレがちやほやされるべきだ、と」

 三人同時に、深い深いため息が漏れた。

「それからです。なるべく地味な格好をして、こういった公式の場では広間の隅にいろと言われるようになったのは。公爵家のものとして、殿下の婚約者としてそれはどうかと思ったのですが……父から、殿下の言うことを聞けと言われて」

「殿下も殿下なら、ニナのお父様もお父様で問題ね。そこまでして王家に取り入る必要があるのかしら」

 レオンツィオがニナに視線を向けると、ニナはこく、と頷いて口を開いた。

「父は、王族との繋がりを強く求めているんです。それが評判の悪い第三王子であろうと……当主である母は日々忙しくしており、わたしはそんな母に迷惑をかけたくない一心で今まで過ごしていたのですが」

 胸元に手を当て、ニナは顔を上げる。アメジストの瞳は揺らいで、そこにはまだ不安や戸惑いが浮かんでいる。

「どうして、なぜ、という疑問は、日々胸の中にありました。だけれどその感覚すら麻痺してしまうくらい、わたしは今の生活に慣れてしまっていた。……でも本当はわたしも、こんなふうに色んな方とお喋りがしたい。流行りの飾りをつけて街を歩きたい。殿下の目ばかりを気にする生活は……辛いんです」

 浅い呼吸を繰り返し、膝に置いた拳をぎゅっと握りしめる。

 とんでもないことを言っているのではないか。これは自分勝手なワガママではないのか。そんな想いがニナの焦燥感を生み、呼吸を荒くしていた。

 レオンツィオはそんなニナに優しく微笑み、ミルクの入った小さな容器をニナのティーカップのそばに置いた。

「ミルクティにして飲んでみて。気持ちが落ち着くわ」

 半分ほど残った紅茶に、ミルクを少量注ぐ。ティースプーンでかき混ぜて、ゆっくりと飲み下した。ほ、と息を漏らすと、鼓動も呼吸も先程までよりずっと落ち着いた。

「ニナ。あなたのその想いは、至って普通の感情ですわ」

「リオネッラ……」

「私達のこの時間は、今しかないのよ。あのまま誰とも関わらずに過ごしていたら、絶対一生後悔するわ」

 ローザの言葉にレオンツィオはうんうんと繰り返し頷く。ニナの前にお菓子をいくつも差し出しつつ、自分もビスコッティを口にした。

「ねぇ、ニナ。従順なのは必ずしも良いことではないの。父親の言うことを聞くのは『良い子』かもしれない。でもあなたが不幸になっているのにそれを強いる親は『良い親』ではないとアタシは思うわ」

 生きていれば、多少の我慢は必要だ。自分の意にそぐわないことをしなければならないこともある。それでも、王族との関わりを持ちたいという自らの「欲」のために娘を利用するのはいかがなものか。彼女の父親は王家に嫁ぐことが幸せだと言っていたようだが、ニアを見ている限りそうは思えない。

「せめて第一王子か第二王子だったら良かったのに」

「あら、でもその二人の王子だって、あの馬鹿王子を好き勝手にさせてるじゃない。報告なんかはとっくに上がってるだろうに」

「お忙しいとは思いますけれど、ご自身のご兄弟でしたらせめて叱るなりしていただきたいものですわ」

 ほんとよねぇ、とビスコッティをかじり呟いたレオンツィオは、手をパンパンと叩いてにっこり笑顔を浮かべた。

「さっ。それじゃ、馬鹿王子の話はここまで! ニナ、どんな話が聞きたい? 楽しい話しましょ!」

 紅茶を飲んでいたニナはぱちりと瞬きをし、ティーカップを両手で持って視線を動かした。

「え、えっと、……その、……いつも、皆様がどんなお話をしているのか聞きたいです」

「色んなお話がありましてよ。流行りの服に、今街で人気のお菓子屋さん。それから人気小説の話とかも」

「人気小説って言えばアレよねぇ、平民のふりをした公爵子息が主役の『気になるあの子は嫌われ者』!」

 ニナがはっと顔を上げて身を乗り出した。

「私もっ、私もあの本買いました! 王子のために頑張っていた令嬢の姿が何だか他人とは思えなくて、それで、」

 はしゃぐようなニナの姿に三人は、思わず彼女を見てぽかんとしていた。ニナはすぐに我に返り、慌てて椅子に座り直す。

「ご、ごめんなさい、あの、わたし、」

「あははははっ!」

 声を上げて笑ったのはレオンツィオだった。ニナが驚いてローザたちの様子を窺い見ると、彼女たちも口元を隠して笑っていた。

「あ、あの、」

「いいの、いいの! それでいいのよ、ニナ! あの平民のふりした公爵子息が中々曲者よねぇ、協力するふりして実は、みたいな」

「でもあの嫌われ令嬢も盲目だったから、あぁいう感じで近づいたのは正解だったんじゃないかしら」

「プロポーズのシーンはわたくし、ドキドキしてしまいましたわ。恋愛ごとに淡白そうに書かれていましたのに、情熱的でしたもの」

 ニナは今、別の意味でドキドキしていた。久しく忘れていた、「楽しい」という感覚。自然と笑顔が浮かんでしまう感情を、思い出した。

 それから四人は、笑いの絶えない楽しい時間を過ごした。

 ニナは初めて聞く話がいくつもあって、どれも新鮮で堪らなく楽しかった。帰るのが、心底惜しいほどに。

「ニナは明日からどうするの?」

 そろそろ解散という時間、レオンツィオが尋ねた。変わる決心をして、分厚い眼鏡と硬い三編みから解放されて。明日からどう過ごすのか。

 ニナは少しだけ黙り、静かな声で言った。

「急に全てを変えるのは難しいです。わたしの心の問題もあるのですが……だから少しずつ、変わって行こうと思って」

「それがいいと思いますわ。あの殿下のことですもの、急に全部変わってしまったら暴れそうな気さえしますもの」

 リオネッラが頷く。レオンツィオも同意を示し、テーブルに手をついて立ち上がった。それから自らの手首につけていたブレスレットを外し、ニナに差し出す。

「これ、差し上げるわ」

「――え?」

「派手な装飾でもないし、かと言って地味すぎでもない。ブレスレットならブラウスの袖に隠れて見えないだろうし、これくらいならつけていけるでしょ」

「そ、そんな、悪いです!」

「あらなーに、アタシのお古じゃ不満だって言うの?」

「そそそそういうつもりじゃ、」

 あわあわと盛大に慌てふためくニナに、リオネッラとローザは顔を見合わせてまた笑った。

「ニナ、受け取った方がいいわよ。受け取らないと受け取るまで帰れなくなるわ」

「えっ」

「友情の証として受け取りましょう、ニナ」

 おろおろしていたニナは、レオンツィオの顔を見上げた。レオンツィオはにっこりと笑ってニナに歩み寄ると、ほっそりとした手首にブレスレットをつけ満足そうに笑った。

「このブレスレットと、そのドレス。アタシからの贈り物よ、ニナ」

「ドレスまでなんて、そんな」

「お礼だとでも思ってちょうだい。ニナのような可愛らしい子、生まれて初めて見たわ。美しいものや可愛いものはいくつもあるけど、こんなに胸がときめいたのは初めてよ」

 胸元に手を当てて、うっとりと言葉を紡ぐ。ニナはくすぐったいような、なんとも言えない心持ちになって視線を彷徨わせた。頬が熱くなって、瞳が揺れる。

「レオンツィオ、わたし……あなたにどれほど感謝を告げたらいいのか……何かお礼が出来たらいいのですけれど」

「そうねぇ、だったら」

 口元に手を当てて、企むような表情を浮かべる。ちら、とニナを一瞥して、人差し指を立てた。

「あなたが幸せな姿を見せてちょうだい。今のあなたの状況だと難しいでしょう? でもアタシはアタシへの感謝の印にあなたの幸せな姿を望むわ。無理とは言わせないわよ!」

 何度も繰り返し瞬きをして、ニナはレオンツィオを見つめる。

 初めて出会ったときも彼は聞いていた。今、幸せなのかと。

 父親は、王家に嫁ぐことこそ幸せだと言っていた。王子と結婚すれば幸せになれると。だけれどニナは現状、少しも幸せを感じていない。このままでいて、レオンツィオの言う幸せを感じることが出来るのだろうか。

(でも、変わると決めたもの)

 きっ、と眉を吊り上げ、深く頷く。

「見ていてください、レオンツィオ。わたし、頑張ります」

 ニナの返事にレオンツィオは、綺麗な笑顔をさらに深めたのだった。

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