村人の思考

滝村透

村人の思考

 豊かな自然に囲まれたその村にある木造の民家には、私の他に二人の人間がいた。一人は年老いた男で、紳士的な気品を感じさせる白いひげを蓄えていた。もう一人はまだ二十歳にも満たないほどの若い娘で、彼女がその老人の世話をしていた。私はこの家で、彼らとともに平和に暮らしていた。

 しかし、よく考えてみると、私は自分がなぜここにいるのかということがどうしても思い出せなかった。いや、そもそも「考える」という行為をすること自体、私にとっては極めて困難である。何かを「考え」ようとすると、まるでそれを押さえ込むかのように、頭が鋭く痛み出すのだ。これはとても奇妙なことだと思う。フランスの思想家パスカルは、「人間は考えるあしである」と言った。それくらい、人間にとって「考える」というのは大きなことなのだ。それなのに——ん? パスカル? 考える葦? 私は一体どこでこんな知識を……

「ダニエルさん、大丈夫ですか」

 耳元で、娘の声がした。私の名を呼んでいる。

「あぁ、すまない。考え事をしていたら、眠り込んでしまったようだ」

 娘が心配そうにこちらを見ている。

「ダニエルさん。そんなに難しいことなんて、考えても仕方ないですよ。眠ってしまうほど深く考え込んだって、何にもなりません。何かに抗おうとはせず、この世の流れに身を任せるのです」

「はぁ……」

 私は目の前にいる娘が何を伝えようとしているのか、全くわからなかった。

「では、考えることは悪、ということ?」

「そう言い切ってしまうこともできると思います。私たちのような存在が、何かを考えたって無駄だからです」

「でも、君だって色々考えたいこともあるだろう。将来のことについて、あれこれ思い悩む年頃じゃないのか」

「悩みを抱えてる暇なんてないですよ。私には、とても多くの責務が課されているんです。お爺様やダニエルさんのお世話をしたり、家を綺麗に片付けたり、お客様の対応をしたり。そういった仕事に日夜追われていて忙しいですし、それに、私は私に課された役割を全うしていれば、何も悩まなくていいんです。終わりの見えない悩みから逃れるために、私は自分の内なる声を殺し、ただただ単調に事務的に自分の仕事をこなすのです」

 娘は一切の迷いも感じさせない口調でさらりとそう言ったが、その生き方は私には到底理解しがたいものだった。

「君は、そんな生き方で楽しいのか。感情を押し殺して、粛々しゅくしゅくと業務をこなすだけの毎日だったら、外に遊びに行くこともできないだろう。そんなの、ほとんどロボットと同じじゃないか。君は人間だろう」

「ええ、いかにも私は人間です。呼吸をしなければ死にますし、この薄く柔らかい皮膚の内側には赤い血が流れています。しかし、だからといって自分の意思のままに好き勝手に行動するということは、決してありません。村人たちに求められているのは、与えられた役割を確実にこなすこと。私たちは自由と引き換えに、恒久の平和と安定した生活を保障されているのです」

 娘の厳然とした態度に押されて、私は次第に反論する気が失せていった。私が何かをじっくり「考え」ようとすると、そのたびに頭に刺すような痛みが走り、私は何かとても大きな存在から、「何も考えるな」と命令を受けているように感じた。また、この生活に対して漠然とした疑問はあるものの、現にこの利口な娘のおかげで今の安定した生活があるため、ここは変に逆らわないでおこうと思い直した。

「わかっていただけましたか」

と娘がいた。私は黙ってうなずく。そのとき、玄関のドアが突然に開いた。

 ドアを開けたのは立派なよろいを身に付けた兵士で、家に入ってくるや否や、挨拶もせずに横柄おうへいな態度でこちらに向かって歩いてきた。

 兵士が娘の前に来ると、娘は特に驚いた様子もなく淡々と彼に向かってこう言った。

「お爺様だけが、この村の守り神の声を聞くことができるのです」

 娘の話を聞き終わると、兵士は黙ったまま部屋の奥の老人がいるところまで歩いて行った。すると老人は、

「神の力を利用するとは、全く罰当たりなやからじゃ」

と言った。兵士はまたしても何も言わないままで、表情ひとつ変えることなくきびすを返し、今度は私の方に向かってきた。私は不気味な兵士の接近に怯え、どうか早くこの家から出て行ってくれと願った。しかし、その兵士は無情にも私の目の前で立ち止まり、何かを言ってほしそうにこちらを黙って見ていた。咄嗟とっさに気の利いたことでも言うべきなのだろうが、あいにく何も思い浮かばない。私は観念して、心の中にあった率直な疑問を口にした。

「おいお前! ノックもせずに黙って他人の家にズカズカ入ってくるんじゃねぇ! 挨拶ぐらいするのが礼儀ってもんだろ! それに、何だその物々しい装備は! この辺鄙へんぴな田舎で戦争でも始めるってのか?」

 すると、娘が私の腕を掴んで制止した。兵士は醜い怪物でも見るかのような目つきで私を見て、慌てて逃げるように家から出ていった。ドアが閉ざされた後、娘が頭を抱えて項垂うなだれた。

「どうしよう。言われた通りにできなかった。計画が……シナリオが狂っちゃう」

「ん? 一体どうしたんだい? 計画って何のこと?」

 私は何のことやら全く理解できなかったが、ただ自分が何か重大なミスを犯してしまったのだろうということだけは感じ取っていた。娘が口を開く。

「ダニエルさんは……まだ出てくるべきではなかったんです。まだ、外の世界の人に見られてはいけなかった。その時機が巡ってくるまで、この家でかくまっておくのが私に与えられた仕事のひとつでした」

 娘は後悔した様子でそう言ったが、私には何のことやらさっぱりわからなかった。

「どうしてだよ? 私が何か犯罪でも犯したっていうのか?」

「ダニエルさん、考えてもみてください。この東洋の田舎町で、あなただけが西洋の人間です。それでも、言葉は何の問題もなく通じている。変だと思いませんか」

「確かにそうだな。しかし、君は先ほど、考えることは悪だと言ったはずだ。そんな君が考えることを促すのは、いくぶん奇妙に思えるのだが」

「そんなことは、もはや些細な問題です。このことはすぐに外部に伝わり、いずれここに警察が来ることでしょう。ダニエルさんは取り調べを受け、何らかの罰を受けることになります。この世界の住人は、自由を求める心を捨て去り、ただただ機械を動かす歯車のように従順であることが必要なのです。世界の流れを阻害することは、断じてあってはなりません。理不尽に思われるでしょうが、それが世界のルールであり、それによって平和は守られているのです」

 娘がそう言い終わったのと同時に、先ほどのようにドアが突然開き、三人の警察官が入ってきた。

「警察です。あなたがダニエルさんですね。先ほど、我々の計画に反する事象を確認しました。世界の安寧のため、至急あなたを『修正』しなくてはなりません。署までご同行願います」

 私は警察官に手錠をかけられ、逃げられぬように身体をロープで結ばれて、彼らの車に乗せられた。ふと後ろを振り向くと、娘の泣いている姿が見えた。彼女が泣いているのを見たことは、今まで一度もなかった。

 私は無言で車を走らせる警察官に訊いた。

「おまわりさん。私が一体、何の罪を犯したっていうんです?」

「簡単なことだ。あんたは『バグ』なんだよ」

「バグ?」

 全く予想外の言葉だった。

「そうだ。開発者も予想だにしなかった挙動を、あんたはした。だから、あんたは『修正』されなくちゃならねぇ。世界はほんの少しの綻びからでも崩壊し得るからな。どんなに小さな問題でも迅速に対処する。それが我々警察の仕事だ」

 警察官は慣れた口調でそう言った。

「じゃあ一体……どうしてこんなトラブルが起こったんです? 原因は何なんですか?」

「ひとつは、あんたが妙に深く考え込む人間だったこと。あんた、パスカルのこととか考えてただろ? そんなこと考える人間、この世界にはそうそういねぇよ。あんたが何か考えようとするたびに、我々はそれをどうにか押さえ込もうとしていたんだが、それでもあんたは考えることをやめなかった。恐らく、プログラムにどこか甘い部分があったんだろうな。高度な思索は、やがて反逆に繋がる。世界平和のためには都合の悪い存在だ」

 車は村を抜け、大きな街の中を走っていく。村の近くにこんな街があったことを、私は知らなかった。

「そして、もうひとつの原因。それは、あの娘だ」

「娘?」

「彼女は、あんたに気があった。だから、あんたとしっかり対話をしたんだよ」

 私はひどく驚いた。

「まさか、彼女が私に好意を? そんなことはあるまい。どうして警察にわかるんだ」

「我々は、平和維持のため人々を監視している。外見だけでなく、心の中までもね。外国人であるあんたの滞在先として、あの家は選ばれた。そこに住む二人は単なるNPC、いわゆるモブキャラだ。ゲームの中核を担っているわけではないし、名前もない。現にあんたは、あの二人の名前を知らないだろ?」

 言われてみると確かにそうだった。私は共に暮らしていた二人のことを「老人」や「娘」としか思っておらず、そのことに疑問を抱いてもいなかった。

「あんたは数ヶ月後のアップデートで新たに追加される予定の新キャラだったんだ。世界中を旅している風変わりな男という設定さ。アップデートはまだ先だが、データ自体は事前に入れられていた。だから、それまであんたはその存在を外部の人間に知られてはいけなかったんだ。それで、あんたを家の中で匿っておくことをあの娘に命じていたってわけさ」

 警察官は淡々と説明を続ける。

「娘は極めて従順で、計画は実に首尾よく進んでいたよ。プレイヤーたる兵士が家の中に入ってくると、娘と老人は彼らに決まった台詞を一字一句違わずに語った。それが二人の最も基本的な仕事だ。そして娘は命令通りあんたを一番奥にある部屋に閉じ込めて、外界から隠した。だが、次第にあんたは部屋から出たいと懇願するようになった。溢れんばかりの知的好奇心を持っているから、狭くつまらない部屋に閉じ込められているのが耐えられなかったんだろう。そんなことは気にせず娘は命令通りにしておけばよかったのだが、あんたに好意を持っていたがためにその要望を受け入れてしまい、依然として家から出さないものの、部屋からは出してあげることにした。我々にとって、彼女のこの行動は誤算だったよ。まさか単なる一介のモブキャラに人を愛する心があろうとは、思いもしなかった」

 娘のことを思うと、私は胸が張り裂けそうになった。

「それと、あんたは考えることに長けているが、あの娘も恐らくは、高度な思考が可能なはずだ。彼女はあれこれ考えても無駄だと述べていたが、それに気づいていること自体が、高度な思考の産物なんだよ。彼女は自身の置かれた状況を客観的に見ることができていながら、それでも命令を遵守じゅんしゅし、平和な日常を送ることを選んだ。そこに現れたあんたという存在が、彼女を狂わせてしまったようだがね。それに、あの老人は村の守り神と心を通わせることができる、かなり聡明そうめいな爺さんだ。その血を受け継いでいるから、あの娘も優秀な頭脳を持っているんだろう」

 車が停止した。左手には、ひときわ巨大な建物がそびえ立っている。

「でも、なんで単なるNPCにそんな頭脳が与えられたんだろうな。ゲームを進行する上では脅威にもなりかねないじゃないか」

 そう言う警察官の声色こわいろからは、怒りと呆れが滲み出ていた。

「開発者の遊び心でしょう」後部座席に座っていた警察官の一人が言った。「遊び心を失っていない人が、ゲームを作るのには向いてるんです。恐らく制作の途中で、何か面白い要素を散りばめたくなったのでしょう。秩序を乱し、予定調和を狂わす問題児を。そんな悪戯いたずらのために奔走させられる我々にとっては、たまったものではないですが」

 その警察官は溜息をつくと、ふと思い立ったように私に訊いた。

「そうだ。今のうちに君に訊いておきたいことがある。私はこの仕事をしていて色々と思うことがあるわけだが、君はあの村人たちのことを愚かだと思うか?」

 その目は真っ直ぐに私を見つめていた。だが、何の感情も読み取れない。この警察官たち曰く、私やあの娘はゲームの中の存在であり、人間ではないらしい。それでも私には、いま目の前にいる彼らこそが自主性を失ったキャラクターのように見えた。命令と本心の狭間で煩悶はんもんしながら私に接したあの娘には、命のきらめきが確かにあった。

「いや、愚かだとは思わない。レヴィ=ストロースは著書『野生の思考』の中で……」

「ほう、パスカルの次はレヴィ=ストロースか。君にはもはや、思考の押さえ込みは効いていないようだな。大したもんだよ。ゲームの中に置いておくには惜しい人材だ」

 私はもう、何を考えても頭に痛みは感じなかった。

「とにかく、あの人たちは愚かじゃない。あの村では……」

 そこまで言ったとき、私の頭に情報が洪水のように流れ込んできた。高速で回転する頭脳が思考をはばむ障壁を押しのけ、ようやく思いついたと言うのが正しいかもしれない。

「食事……! あの村の人たちは、私を含め、食事を一切摂っていない! なぜこのことに気づかなかったんだ……」

「ショクジ? そんな概念は存在しない。正確に言えば、君が知る必要はないということだ。そんな概念が、他にもたくさん存在している。深くシコウし、カイワを楽しみ、ショクジを摂って、アイを育む……そんな人間的なことなど決してできぬように、これから君を『修正』しよう。じきにあの娘にも『修正』を加える」

 警察官はそう言うと、車のドアを開けて私を外に連れ出した。村の風景とは似ても似つかないビル街に降り立った私は、眩しい光に目を細める。無表情な男たちに連れられて、得体の知れない巨大な建物へと入り込んでいった。

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