Chapter.10 岐路


そして3年生になりいよいよ周りも受験を本格的に意識しだす時期になる。私は進学などせず就職して家を出ようと考えていた。何の仕事でもいい、とにかく母からもう逃げたかった。だが父は猛反対した。『高校は出て欲しい。死んだ親父とお袋に顔向けが出来ない』と。それでも私は考えを曲げる事ができず進路希望書には『就職』と勝手に書いて出した。


でもこの時になっても父に『何故家を出たいのか』という問いに答える事が出来なかった。その質問の意味が分からなかったのだ。明らかに母親の酒癖が異常だったのは明確だしその理由以外に思い当たる節もないだろうに父に疑問を抱いた。今となっては父とも色々な言葉を酌み交わしこの問いが何だったのかも分かってこそいるが当時は普通じゃないと思っている私こそがおかしいのだろうかと思い悩んだのだった。


当然幻聴が聞こえる事も自傷行為を重ねている事も私も私で話せなかった。それを打ち明けどんな顔をされるのか怖かったのだ。恐怖政治の中で父は私にとって希望だったのだ、まだそんな生活の中でも父親が家にいてくれると言うことは安心できる救いだったのだ。そして病気で倒れた父に話す事でもない。私が耐えて我慢できたら問題ないのだ。


私の他に就職希望の人間などおらず当時の私の担任であった富田先生は何度も私と個人面談をした。何故進学せず就職したいのか。ただ私もやはり本当の事など話す事が出来なかった。その度に私は『何となく。』と曖昧な答えをした。


富田先生は親戚のおじさんのような距離感を生徒と掴む教師だった。今でこそ問題になってしまいそうだが私の時代でも珍しく男子生徒にではあったが悪い事をすると頭を引っ叩く様な先生だった。でも誰もそれを咎めたり問題視しなかった。彼にそうされた時は本当に自分が間違っていて反省せねばならぬ時なんだ、その本人がそう感じていた様だった。私のクラスは不登校や素行の悪い者も少なくなかった。それでも1年生、2年生の時の担任とは違って一人一人にじっくりしっかり向き合うような先生だった。だからこそ私にもたくさん時間を割いて面談なんてしてくれたのだろう。


でも誰も私を助けてなどくれなくていい。そしてそうだとしても手を差し伸べてもらうも怖い。私に関われば不幸になる。分かって欲しいなんてもう思ってない。そんな希望はとうに捨て諦めたのだ。だからもうほっといて欲しかった。こんな私が何になれるというのだ。教科書も開かない、授業中ずっと突っ伏している。当然成績もどんどん堕ちてゆく。そんな私にいつしかどの教科担当も何も言わなくすらなっていた。


だが事態が大きく揺れる事件が起きてしまう。それは体育の授業でバレーボールをしている時だった。私の左腕は人に見せられるものではなかった為寒いからなどと言って真夏でもジャージを着ていた。周りの友達にも極度の寒がりなんだと嘘をついていた。念のためガーゼをあて包帯もしていた。


だが、ボールを受けたタイミングで昨日黄色い脂肪が見えるほど切り刻んだ傷口が裂けてしまい血が大きく滲んでしまったのだ。友人が騒いで保健係が保健室に連れていくと言い出した。いや、大丈夫だ、怪我した所が少しまた切れちゃっただけだから自分で行ける、と言ったが騒ぎを聞きつけて富田先生に見られてしまう。


『なぁに。ちょっと傷が裂けたくらいでお前らは騒いで!俺が保健室に連れて行ってくるから皆は練習を続けてチャイムが鳴ったら教室に戻るように。次は移動教室だからな!遅れんなよ!彩花、行くぞ。』


そう言い私の方をポンと叩いた。血の気が引いた。まずい。バレる、バレてしまう。『いや、私は大丈夫だから』と言いかけた時に富田先生が被せるように『大丈夫。大丈夫だから。彩花。』と小さく私に言った。行こうと背中を押される。

あんなに頑なに動かなかった脚がスッと歩み出せた。


でも怖かった。

もしかしたら気づかれてないかも知れない。


まだ、そんな事を考えていた。




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