第5話

 金曜日。

 今日は早く帰って来たのでお風呂も少し早く入っていた。時間がある分、と私は読みかけの文庫本を持ち込んでいた。好きなだけ籠城をしてみせよう、というのだ。本はずいぶん前に買ったもので海外の翻訳本だった。余命がないことを知った二人の男が、それぞれの夢を果たすため一緒に旅をする、というあらすじのものだった。銃撃戦やカーチェイスなどがありつつも、比較的淡々と話が進んでいく。最後は二人で海を眺めながら死んでいく、という話だった。

 読み終わり、湿気でふやけた本を閉じる。

 息を吹きかけてアロマキャンドルの火を消した。

 時計はちょうどよい時間を指していた。

 部屋ではなぜかハハがうろうろと歩いていた。理由はわからないけど、猫なりの理由があるのだと思う。ハハは部屋を二周ほどして、小さくうなり声を上げてベッドに飛び乗った。

 髪を乾かして服を着込んだ。

 帰りの様子だと昨日よりは寒いだろう。

 今日は手ぶらで出かけることにした。

 父が何か言いたそうにしていたけど、口を開く前に私は玄関を出ていた。今日も相変わらず後ろめたさはない。部屋でハハが鳴いた気がした。

 桜の匂いのする公園に入る。

 全身の力を抜いてベンチにもたれかかっているヨルがいた。そこまでゆっくりと歩いて行く。ヨルは目を瞑っているようで、私が近づいてもぴくりともしなかった。眠ってしまっているのかもしれない。こくりこくりと舟を漕いでいるようにも見える。

 そっとベンチの背後に立つ。

 それでもヨルは動かなかった。

 悪戯心で腰を屈め、耳元でささやいてみる。

「こんばんは」

「気が付いているよ」

 目を瞑ったままヨルが返す。

 驚くわけでもなく、意外な反応だった。

「このままいたらどうするかなって思っただけ」

「無視して帰ったらどうしたんですか?」

「どうもしないよ」

「少しは残念がってください」

「そうだな、ハルがいないとさみしいよ。特にここ数日は誰とも話していなかったから。コンビニでも声が出なかった」

 ヨルがストレッチのように首を回す。

「もしかして、酔ってます?」

 ベンチの横には缶チューハイが横倒しになっていた。もう空なのだろう。

「どうかな、こっちにおいでよ」

 ひらひらと手招きをする。

 ベンチの裏からぐるりと回って、缶があったところに座った。缶はヨルによって拾い上げられている。ヨルが急に立ち上がって、スキップをし出した。軽やかなリズムでゴミ箱に空き缶を落とした。

 半回転をしてこちらを向いて、ウォーキングしている人みたいに大きく手を上下に振りながら戻ってきた。

「やっぱり酔っているじゃないですか」

 ベンチに座っている私の前に立ち、自分の腰に手を当てた。仁王立ちというやつだろうか。

「酔ってないけど、酔ってたら何か問題ある?」

「その言い方がもう酔った人の言う台詞なんですよね」

「あ、そ」

 ヨルがどすんと音を立てるかのように勢いをつけて私の横に座る。

「今日はいい日だなあ。このままここで何もかもが腐っていくよ」

 意味不明な言葉を言って、夜空を見上げる。釣られて私も見上げる。月よりも明るい電灯が私たちを照らしていた。

 ヨルが白い吐息をついた気がした。もちろんそんなに寒いわけではないから、これは私が勝手に見た幻だ。

 カチリカチリと電灯が鳴って、数秒明かりが消えた。

「おお、閉店か?」

 ヨルが電灯に向かって言った。

「キレイな顔ですね」

 月に横顔が反射して、輪郭がはっきりと見える。アルコールのせいか頬が上気しているように見えた。

「え、なに急に」

「率直な感想です」

 ヨルは照れたり恥ずかしがったりするでもなく、静かな声で、

「顔は母さんに似ているからな」

 と言った。

 その声に嬉しさはこもっていないようだった。

「本当ですよ」

 私が右手でヨルの左頬を包む。

「ありがとう、そう言われると悪いことではないかな。だから怪我もしない」

「怪我?」

「ああ、いや」

 ヨルが右手を振る。

「母親の顔、本当は良く覚えていないんだ。ずっと前に死んだから」

 ぽつりとヨルがこぼす。

「だから写真でしか知らない。たぶん似ているんだと思う。みんなそう言うから、生き写しだって」

「私のお母さんも亡くなりました。もう二年も前ですけど」

「そうなの?」

「はい、家で倒れて」

「もしかして、それで猫の名前がハハなの?」

「そうです、母が亡くなったあとに来たので」

 ヨルが苦笑いをする。

「ハル、それはどうかしてるよ」

「お父さんにもそう言われました」

「そりゃそうだ、誰だってそう言う」

 ヨルが軽く笑った。

「ハルは、お母さんが死んだとき悲しかった?」

「え?」

「いや、言いたくないならいいんだけど」

 ヨルに言われて記憶を辿る。たった二年前なのに、もうすごく昔のことのように思えて、輪郭がぼやけている。

「たぶん、悲しかったと思います」

 記憶の遠くで、泣いている私がいた。

 確かに私はあのとき泣いていた。

「私はもっと小さかったから、全然実感がなかったな。どうやら大変なことになったということだけがわかってた」

「私も似たようなものです。悲しかったけど、明日のこととか、来週のこととか、そんなことばかり心配していました」

「でも死ぬんだよな、人間って」

「それはそうですね」

「ハルは死ぬのが怖い?」

「それは、怖いですよ」

 ヨルの質問に返す。

「どうして?」

「どうして? 痛いとか苦しいとか。ヨルさんは」

「ヨル、ね」

 ヨルがさん付けを訂正する。

「ヨルは、怖くないんですか?」

「いや、怖い。私も怖いよ」

 ヨルが首を振る。

「同じじゃないですか」

「違うよ。痛いとか苦しいとかは、死ぬ前の過程であってさ、死ぬこととイコールじゃない。眠るように死ぬことだってあるじゃないか」

「そういうときは怖くないかもしれないですね」

「そうだろ、でも、私が思うのは、さ」

 人差し指を立てて、指先をくるくると二回回した。

「死んだあとの話」

「あと?」

「死んだあと、今よりもっと苦しいかもしれない。今より痛いかもしれない。私が怖いのはそれだけなんだ。だからずっと踏ん切りがつかずにいる」

「ものすごいいいところの可能性もありますよ」

 最後の、踏ん切り、という言葉に不安を感じてしまうが、触れないでおいた。その方がヨルにとってもよさそうだった。

「死んだ人間からのクレームはありませんってことかな」

「なんですか?」

「そういうジョーク。死後の世界、いいところです、苦痛も苦労もなく、穏やかに暮らせます。星五つです」

「ますます酔っていますね。天国と地獄とかの話ですか?」

「ああ、そうかも。昔の人も同じようなこと考えていたんだなあ」

 うんうん、と何度もヨルは頷いた。

「そうですね」

「それなら、私はきっと地獄に行くんだろう」

「そんなこと、まだ決まっていないんじゃないですか?」

「だって私は悪い子だから」

「そんなこと、ないですよ。それに決まっていたとしても、もっと先の話じゃないですか?」

「ハルは私のこと何も知らないから」

「何も知らなくても、それくらいわかります。いや、こんな時間に出歩いている私が言うことじゃないですけど」

「あはは、そうだね。そう言ってくれると嬉しいよ。私は友達とかいないからさ」

「私は友達ですか?」

「え、ああ、どうだろう」

「年の差を持ち出すのはナシですよ」

「先回りされた」

 ヨルが笑った。

「それじゃ、友達になろうかな」

「はい」

 ヨルの両手を自分の両手で包み込む。

「思ってたより温かいですね」

「私をなんだと思っていたんだ」

「ニート?」

「それは酷いけど、事実だからなあ」

 ヨルが掴んだ両手を上下に揺らした。

「あれ、なんだろう」

 ヨルが何度か瞬きをする。

 私の両手を離す。

 そのあと、目元を拭った。

「どうして」

 自分自身の状態が信じられないようだ。

「大丈夫?」

 苦しそうには見えない。どこかが痛いというわけでもなさそうだ。悲しいというより困ったような顔をしている。

「だい、だいじょうぶ」

 ヨルが言う。

「もう帰った方がいい」

 突然ヨルが私に向かって言った。涙は流したままだった。

「でも」

「帰って」

「……うん」

「大丈夫だから、大丈夫、まだ大丈夫。ごめんね、ありがとう」

 ヨルは自分に言い聞かせているようだった。

「今日も一日に感謝を」

 お決まりのフレーズを言ってヨルが手を振る。

 笑った顔で涙を流している。

 伝う涙を手で拭おうともしていなかった。

 私は一歩、後ずさりする。

「じゃあ」

 それの返答はなかった。

 胸がざわついたまま、私は足早に公園を後にした。

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