第4話

 木曜日。

 今日は通販で新しいアロマキャンドルが届いたので、浴室を暗くして浴槽の縁に乗せて火をつける。ヨルの匂いが気になっていたのでフレーバーは桃にしてみた。浴室全体に桃の香りが広がる。ヨルの匂いとは少し違っていたけどそれでも満足することができた。長居はしないよう時計を見ながら適度に身体を沈めて、それから上がった。

 今日はハハは部屋に来なかった。匂いに敏感なので、今回の匂いを気に入らなかったかもしれない。

 そろそろかな、と思って家を出る準備をする。今日はあらかじめ学校帰りに買っておいたコーラを冷蔵庫から取り出して玄関を開ける。

 そのまま真っ直ぐ公園に向かう。

 昨日と同じように公園のベンチにヨルはいなかった。周囲を探してみるも見当たらなかったので、一呼吸を置いて、私はいつものコンビニまで歩いていくことにした。

「あ、ヨル、さん」

「やあハル」

 ヨルはコンビニに向かう橋の中央付近に欄干を背にして道路を見ながら立っていた。手には昨日と違う缶チューハイを持っていた。

「もう少ししたら公園に行こうと思っていたんだ」

「そうなんですか」

「でも、まあ、いいかここでも」

「そうですね」

 私がヨルの横に並ぶ。

「それじゃあ、乾杯しようか」

 手に持つコーラを見てヨルが言った。

「はい」

「今日もお疲れ」

 向かい合ってコーラと缶チューハイを合わせる。こっちはペットボトルなのでグラスを合わせるような音はしなかった。

 お互い欄干に背を預ける。目の前を車が何度も行き交っていて、そのたびにライトが二人を照らしていた。

「まあ、私は何もしていないんだけどね」

 ヨルが自嘲気味に言った。

 風が吹いて、ヨルの長い髪が揺れた。

「本当に何もしていないんですか?」

「驚くことに、本当に何もしていないんだ」

「いいですね」

「何もしないってのも案外疲れるもんだよ」

「本当ですか?」

「いや嘘、疲れることがなくて疲れるくらい」

「そう、ですか」

 喉にコーラを通す。

「なにかあった?」

「いや、進路相談的な」

「ああ、そういうやつね」

 高校に入って早々、今後の進路についての話があった。理系に行くとか文系にするとか、そもそも大学に行くのかとか、そういったものだ。正直、何も考えていることはない。

「ヨルさんは」

「ヨル、でいいよ。ため口でもいいし」

 十も離れた人を呼び捨てにするのは多少気が引けたが、そもそもヨルというのも本名ではなさそうだった。

「ヨルは」

「大学には行ったよ、一応ね。卒業もしたし、一応ね」

「でも働いていないんですよね」

「そう、働く必要がなかったし」

「いいなあ」

「そうかな」

「そうですよ、働かなくていいなんて」

「何者にもなれないのも辛いもんだよ。今さらどうこうできるわけでもないし」

 これが本心かどうかはわからなかった。

「私の場合は、働かなくていいんじゃなくて、働くことができなかったんだ」

「違いがあるんですか?」

「大ありだよ、ほら」

 ヨルが右手で遠くを指さす。

「鳥が飛んでいる」

「そうですね」

 橋の明かりを遮るように鳥が低空飛行をしていた。黒いシルエットが見えただけなので、鳩なのかカラスなのかもわからなかった。もしかしたら、別な鳥かもしれない。

「あれと同じだよ」

「あれ?」

「鳥は自由だと思う?」

 私に質問を投げかける。

「人間よりは自由なんじゃないですか? 三次元ですし」

「そうかな、そうかもしれない。空を飛べることができる。でもきっと違うよ」

「どうしてですか?」

「飛べるという機能があるだけだよ。別に何か考えているわけじゃない。考えていないなら、それはもう何もないのと同じだ」

「でも飛べる鳥は飛べない鳥よりはマシだと思います」

「そっか、そうだな、ハルは映画の台詞みたいなこと言うね」

 確かにヨルの言う通りだった。

 ヨルが続ける。

「だとしたら、私は籠に入った鳥だったんだな。永遠に出られない籠から鳴き続けていたんだ」

 まるで過去形であるかのように言う。

「ハルはさ、何になりたい?」

「それって現実的な話ですか? 非現実的な話ですか?」

 うーんとヨルが頭を傾ける。

「どっちでもいいけど、非現実的な方かな」

「そうですね、猫になりたいです」

「猫ね」

「それも飼い猫がいいです」

 私のベッドでくつろいでいるハハのことを思い出す。家から出なくても不自由なく暮らすことができる存在だ。

「それなら私は野良猫の方がいいな」

「野良猫の寿命って三年くらいらしいですよ」

 ハハを保護したときに調べたことだ。

 ヨルはまた頭を傾ける。

「それでも、家にずっといるよりはいいよ。ほら、今は私は飼い猫みたいなものだし」

「外に出てるじゃないですか」

「概念的な問題だよ、でも、そうだな、ハルに飼われるなら悪くないかな」

 ヨルが人差し指を顎に当てる。

「どういう意味ですか」

「人生は、首輪を誰がつけているかが大事だってこと。もしかしたら自分自身が首輪をつけているかもしれないし」

「よくわかりません」

「わからなくていいよ、世の中気が付かない方がいいことだってある。これは、年の功かな」

「そうですか」

「それで、現実的な方は?」

「それなんですよね。まだ何も決めていなくて、それで理系とか文系とか言われてもって感じです」

「そうだなあ、ハルはまだ若いからなあ。いろんな道があるだろうし」

「ヨルさんは何になりたかったんですか? 今からなりたいものでもいいですけど」

 私の問いに、ヨルはきょとんとした顔をした。

 それから、少し困ったような顔をした。

「さあなんだったっけな、もう忘れてしまった。何かあったかもしれないけどね、今となってはかな。ハルが言う通り、飼い猫になってしまったからね、他のことは何も考えられなくなった」

 とぼけているのか夜空を見上げてヨルが返す。

「さて、今日はもうお開きにしようかな。なんだか冷えてきた」

 ヨルが太ももを払うような仕草をした。

 気温は昨日とさほど変わりないから、それがヨルの言い訳であることはわかっていた。たぶん、隠してもいないだろう。

「そうですね」

 私もちらりとスマホを見る。

「今日も一日に感謝を」

「感謝を」

 ヨルに続けて私が言う。

「もう遅いから帰りな」

「明日は」

「いるかもしれないし、いないかもしれない」

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