第18話 ウィステリア視点(下)


 孤独になろうと決めても、年を重ねるにつれ、それが非現実的な願望であると嫌でも学んでいった。

 グレード公爵家で生を受けた以上、いずれ父から爵位を継ぐ必要がある。社交界に参加する回数も、他人と接する機会も増える。

 そして、今は後回しにしている、妻と、跡継ぎのことも。

 私も、もう二十になる。いつまでも子供のような我儘を言ってはいられない。

 だから、この体質を改善しようと試みた。

 ラヴァンダ嬢と出会ったのは、良くも悪くも時機が良かった。

 王女の求婚より前に出会っていれば、私は彼女に興味を示さず、治療法が確立したあとだったら、ラヴァンダ嬢に協力を申し込んだすら怪しい。

 私が独身で、かつ治療法を探し始めた頃だったから、ラヴァンダ嬢に求婚した。

 提案をすぐ受け入れてくれたのはありがたかった。彼女の両親は少々厄介な性格のようだったが、まあ、許容範囲内だ。あれくらい図太い方が世の中長生きするというものだ。


 対して、ラヴァンダ嬢はロシェル侯爵夫妻とは違って、どこか抜けているところがあった。ああいうのを、天然、と呼ぶのだろう。

 だが、まれに現実主義者な乾いた側面もあって、ちぐはぐさを覚える。不思議な女性だと、私は暢気に彼女を評していた。


 だから、ラヴァンダ嬢の元職場でドレスを作りに訪れた時。

 己の盲目さと、無意識な同情を自覚し、私は激しい自己嫌悪に襲われた。

 他人から同情され、憐れまれるのがどれほど苦痛か、私が散々知っているのに。

 罪悪感を払拭するため、彼女を物で釣ろうとし、挙句の果てに尊厳を傷つけた。

 動揺していたとはいえ、どうかしている。今まで孤独でいようとしたツケが、まわりまわって巡ってきた。

 他人との関わりを避けてきた私が、いきなり良好な人間関係を築けるわけなかったのだ。


「私は今の生活に満足しています」


 だが、そんな私に彼女は、


「やめましょう、相手の話を聞かないで、こうだと決めつけるのは」


 目を、合わせてきた。


「色眼鏡は外して、お互いを見ましょう。私も、ウィステリア様をきちんと見ます。たとえ契約関係の婚約者だとしても、私達はその前に、意思のある個人なのですから」


 ――心を覗かれたのかと。

 真面目に、あり得ないことを考えた。

 普段は優しく細められている彼女の目が、強い意思を持って私を捉えている。彼女の瞳に映る私は、わかりやすく動揺していた。

 ここまで他人に真っ直ぐ見られるのは初めてで、私もまた、他人をこれほど見つめるのは初めてだった。


 ……ああ、そうか。

 人が私を見なかったように、私もまた、人を見ていた気になった。

 母や王女のことも責められまい。私はきちんと、彼女らを、色眼鏡をかけずに見れていただろうか。

 意思のある個人として、尊重できていただろうか。

 答えは出せないが、私がすべきことは明白だ。


「私も、あなたを見るよ。ラヴァンダ嬢。互いに、知っていこう」


 私は彼女に手を差し出した。一拍置いて、握り返される。

 相変わらず他人の体温は熱い。だが不思議と、彼女のそれは不快ではなかった。



*****



 ラヴァンダ嬢との生活は穏やかだった。

 彼女は意外と多趣味であるらしい。本人は気づいていなそうだったが、かなり好奇心旺盛で、ガーデニングや乗馬、さらには私の趣味の彫刻まで挑戦してみせた。

 私はどちらかというと新しいことには億劫になる性格なので、彼女の腰の軽さは羨ましいものがある。この調子だといずれ事業にも手を出しそうだな、と彼女が作った木彫りの熊を見て、考えた。

 そんなラヴァンダ嬢との生活は、穏やかながらも退屈ではなく、驚かされることがしばしばあった。

 まさか暇つぶしに釣りで亀を連れて帰ってくるとは想像できまい。「名前はカメちゃんにしますね」と、屈託のない笑顔で言うものだから、私は何も言えず頷いてしまった。

 どうやら犬同様、亀も散歩をさせた方が喜ぶらしい。ラヴァンダ嬢はたまにカメちゃんを中庭に連れていく。亀って散歩するのか、と私の疑問に、ラヴァンダ嬢は実際に様子を見せてくれた。

 カメちゃんはとことこと整備された土の上を歩く。確かに、心なしか嬉しそうな顔だった。


「やっぱり、生き物ですから。水槽の中より、外の方が好きなんですよ」


 薄切りしたリンゴを餌付けしながら、彼女はカメちゃんに向かって笑った。


「可愛いですよね、ウィステリア様」


 振り返って、その優しい眼差しを私にも向ける。相変わらず、彼女の瞳に映る私は、わかりやすく狼狽えていた。

 あの日以降、私はラヴァンダ嬢と目を合わせるとどうも頭が回らなくなる。心拍数が上がり、仄かに緊張が走る。今回も私は、ろくに考えもしないまま、反射的に返答した。


「ああ。可愛いな」


 愛しさを感じているのは、本当だ。

 だが、この気持ちを向いているのは、一体どちらにだろうか。



*****



 ジェフリーとの仕事が思ったより長引き、片付いたときには夜も更けていた。既に使用人すら寝ている時間帯であったため、私は仕事場に泊まり込むことにした。

 私は仮眠室に行く前に、部署に寄った。夕食を取り損ねたので、軽く胃に何か入れておきたかったのだ。ラヴァンダ嬢の差し入れを取りに部署の扉を開けたら、トアイトン代表がまだ仕事をしていた。


「あらぁ。こんな夜遅くまで仕事? お肌に悪いわよ~」


「代表こそ、まだいたのですか。あなたが休んでいるところを見たことがありませんよ、私は」


「いやねえ、人を仕事人間みたいに言って。今日だけよ、残業なんて。私は優しいから尻拭いをしてあげているの。文官どもの。あいつらのせいで予定狂うのも腹が立つからぁ~」


 口調こそ軽いが目は笑っていない。嘘偽りなく言葉通り文官達の尻拭いをしているのだろう。明日は重要度の高い会議が詰まっている。何をやらかしたか聞いたらそのまま手伝わされて徹夜になりそうなので、私はそそくさと撤退しようとした。


「うふふ、ラヴァンダちゃん可愛かったわねー。うふふふふ」


 トアイトン代表が揶揄ってくるのを、その日だけは無視できなかった。

 いつものじゃれあいだ。大抵はろくに相手しないが、今日の醜態を弄られるのは私にとっては耐え難かった。


「あのような行為は、もう止してください」


 じとりと代表を睨めば、彼はきゃあ、と歓喜の声を上げた。


「べた惚れじゃない~。色々と馴れ初めを聞かせなさいよぉ~」


「なぜそんなに嬉しそうなのですか。私はもう休みますよ」


 話にかこつけて仕事を手伝わせる気でしょう、と私が警戒すれば、トアイトン代表は大口を開けて笑った。


「何言ってんの、違うわよ! 面白いからに決まっているじゃない!」


 面白い? 何が?


「アンタが恋していることがよ!」


 ……。

 …………。

 ………………恋?


 私が、恋している?

 誰に?


「ラヴァンダちゃんにべた惚れじゃないの、ウィステリア!」


 ――。

 ――――。

 ――――――えっ。



*****



 恋。恋愛。男女の情事。想い慕う。思い焦がれる。

 わからん。さっぱりわからん。なんだそれは。抽象的すぎる。もっと具体例を出せ。困るだろう、私が。

 一通り辞書に文句を付けたが、わだかまりは解消されず、そのまま週末が来てしまった。ラヴァンダ嬢と約束した日だ。


「本当に釣りでいいのですか? 日影があるとはいえ、今日は暑いですよ?」


 ラヴァンダ嬢は緑のワンピースを揺らし、日除け用の大きなつばがある帽子を被った。薄く化粧をしているのか、彼女の瞼には控えめに色が添えられている。その大きな瞳でじっと見つめられると、やはり私は緊張するのだ。

 構わないと、ぶっきらぼうに返事してしまうも、ラヴァンダ嬢は気を悪くした様子もなく、「そうですか、楽しみましょうね」と言って、馬車へ乗り込んだ。

 そうだ。折角の休日なのだ。楽しまなくては損だろう。私も、彼女も。

 トアイトン代表の戯言など忘れて、彼女との時間を大切にした方が良い。今回の釣りだって、ラヴァンダ嬢と一緒に楽しみを分かち合いたくて、私から頼んだのだから。余計なことを考えるのは止めよう。

 大丈夫だ。今日もきっと良い一日となる。



*****



 最悪だ。よりによって、雨が降るなんて。

 肌に張り付く髪の不快感に耐えながら、私は空を見上げた。

 先ほどの青空はどこに行ったやら。雲は分厚く、太陽を覆っていた。流れは早いので、ラヴァンダ嬢の言う通り雨かもしれないが、一度水を差された気分は中々もとに戻らない。私は無意識に彼女に謝っていた。

 私のせいで、と。私が誘わなければ、彼女は嫌な目にあわなかったのに、と。


「誰のせいでもありませんわ。ただ運がなかっただけです」


 ……ああ。

 またやってしまった。

 人が自罰的になるときは、こういう状況なのか。死んだ母のことを責められない。私は再び、謝罪の言葉を口に出そうとして、止めた。

 彼女の言う通り、誰のせいでもないのだ。自罰的になって慰めれても、私の気が軽くなるだけ。だがそうしたくなってしまう気持ちは、わかってしまった。今少しだけ、母の気持ちを理解した。

 だって、誰のせいでもなくても。


「運がなかったと言っても、私はあなたに楽しい時間を過ごしてもらいたかった」


 母も同じ気持ちだったのだろうか。そしたら、私も母も強欲だ。

 愛おしい人には、私が考える限りの幸せを享受してほしい。痛い思いも、辛い思いもしてほしくない。溢れんばかりの愛と幸福に囲まれて。悲しみを知らずにいてほしい。

 だが、彼女の隣に私がいていいのだろうか。

 神に見捨てられ、母の悲しみを払えず、好きになってくれた人をいたずらに傷つけた私が。

 関わった人を不幸にしてしまう私が、彼女の隣など――


「ウィステリア様と一緒なら楽しいですよ」


 雨が止んだ。

 湖には虹が架かっていた。


「運に振り回されるのも、悪いことばかりではありませんよ!」


 彼女が木陰から飛び出す。

 その細い手は、私に向かって差し出された。



!」



 ラヴァンダ嬢は、いつも通りの、笑顔を浮かべていた。



 ――見ていますか、母上。


 きっと、私の人生は、他人から見れば欠けていて、可哀想で、不幸なのでしょう。

 でも、私は満足していました。幸せでした。他人から見たら不幸かもしれませんが、この身体でも悪いことばかりではなかったんです。


 夏は子供たちに占領されている泉でも、冬の泉は私だけのものでした。泉に張った氷でスケートを楽しんでいる子供たちを横目に、私はこっそり中で泳いで魚を観察していました。実は川や海でも度々水遊びをしていました。私一人しかいない冬の水場は、私のお気に入りだったのです。


 初めて雪が降った日の朝は、誰よりも早く起きて、一人で雪遊びを存分に楽しんでから、何食わぬ顔で朝食の時間に戻りました。そしてまた昼頃に遊びに行ったのです。これは今でも私の武勇伝なのですが、大雪の中迷子になった子供を夜通し捜して助けたこともあります。そのおかげで子供たちの間では英雄として敬われていた時期もありました。きっと、あの頃の母上が知っていたら卒倒していたでしょう。もう大人になったので、笑い話として許してくださいね。


 だって、のです。

 私は楽しかったのです、母上。

 普通ならば必要ない苦労を背負うことになっても、同じくらいの恩恵がこの身にはあったのです。


 そして何より、私はあなた達に愛されていました。


 神に見捨てられた人生だったとしても、私は胸を張って言えます。

 私には、両親からの愛と、生きる喜びに恵まれていたと。

 私の人生は幸せに満ちていたと。


 この雨上がりの空の下で、ようやく私は、私を肯定できたのです。


 同時に、覚悟が決まりました。

 人を傷つけるのは怖いです。私のせいで大切な人が不幸になったら、と怖気づいてしまいます。本心を伝えるのも、断られたことを考えると、保身に走りたくなります。

 私は人を傷つけたくもないし、己も傷つきたくない臆病者です。


 ですが、私は日影から出ました。

 差し伸ばされた手を握り返すには、大きな一歩を踏み出さなくてはならなかったからです。


 後悔はありません。それよりも、私は、胸の底から沸きあがる想いを、彼女に伝えたかったのです。



「好きだ」



 ほら、母上。今日また一つ、幸せが増えました。

 私は、恋を知ったのですから。

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