第16話

 それから三日後、私はウィステリア様のご希望通り彼と出掛けることになりました。

 ただし、普通の方が想像するような場所ではなく、まさかの湖で釣り。しかも真昼間。よりによって快晴。私にとっては良いお天気程度でも、ウィステリア様には猛暑ですわ。

 案の定、少々ぐったりとしています。彼の額には玉のような汗がいくつも浮かんでおり、見ているだけでこちらも暑くなってきます。


「ウィステリア様、本当に釣りでよろしかったのですか? 前日もお忙しかったのに、眠くありませんか?」


「問題ない。徹夜は慣れている」


 それとなく治療をするかと申し上げても、ウィステリア様は気にするなと言いたげでした。それは、傍から見ればやせ我慢のようにも思えます。

 今日訪れたのは、カメちゃんを釣り上げた森の湖です。私が住んでいたボロ屋からも近く、ウィステリア様と出会った森の中でもあります。

 運が良いのか悪いのか、私達の他に人はいません。昼だと魚も目が利きますので、大抵の釣り人は朝に釣りをし、昼前には切り上げるからです。

 つまり、私達は二人きりということです。まあ、だからといって特に何があるわけでもございませんけれど。強いて言えば、ウィステリア様に治療を施すのに人の目を気にしなくていいぐらいでしょうか。


 それにしても……うーん……これは……どうなんでしょう……。


「ウィステリア様、お手伝いしましょうか……?」


「いや、大丈夫だ。これくらい一人でできる」


 私の目の前でウィステリア様が釣った魚を針から外しています。もちろん、素手ではなく手袋越しですが……いえ、そこではなく……なんというか……すごく、やりづらそうです。

 魚の扱い方を指南するべきか悩んでいますと、ウィステリア様が「あっ」と声を上げました。

 見れば、魚の尾びれが彼の手を叩いていました。驚いたウィステリア様が思わず手を引くと、魚はぽちゃりと音を立てて湖へ戻って行きました。


「………」


 無言で再び餌をつけ直す彼に、私は慌てて励まします。


「き、気を取り直してください!! ウィステリア様!! ほら、今日は天気がいいので、まだ時間はたくさんありますし――」


 私が空を指差せば、先ほどまでらんらんと輝いていた太陽がどんどん灰色の雲に覆われていきます。

 ポツリポツリと降り始めた雨粒はすぐに大粒になり、あっという間に土砂降りになりました。木々の葉を叩く音が激しくなります。

 私とウィステリア様はお互いずぶ濡れになって、顔を合わせました。気まずいです。


 とにかく、私達は釣りを切り上げて木陰へと移動しました。

 おそらく通り雨でしょうから、長くは降らないでしょう。私は濡れた髪を絞り、ハンカチで拭きました。


「……すまない、ラヴァンダ嬢」


 ウィステリア様は髪から雨粒を滴らせながら、ぽつりと言いました。彼は自分が着ている上着を脱いで私に被せてくださりました。雨の匂いに混じって仄かにウィステリア様の匂いがします。


「誰のせいでもありませんわ。ただ運がなかっただけです」


 私はドキドキしながらそう答えました。雨に濡れないよう身を寄せ合っていると、おのずと肩が触れ合うほどの距離になっていました。

 二人の間に沈黙が落ちます。ざあざあと雨音が止まない中、先に口を開いたのはウィステリア様でした。


「運がなかったと言っても、私はあなたに楽しい時間を過ごしてもらいたかった」


「へ……?」


 突然の甘い言葉に変な声を出してしまいました。私は咳払いし、ウィステリア様の台詞を翻訳します。


「えっと、もしかして、私に気を使ってくださったのですか? まだ負い目を感じているとか……」


「いや、今回は純粋にラヴァンダ嬢に喜んでほしかっただけで……そして、私も、あなたと一緒に過ごしたかったんだ」


 翻訳に失敗しました。まさかのそのままの意味でした。

 流石の私もしどろもどろになって、俯いてしまいました。顔が熱いですわ。もしかしたら、耳まで真っ赤になっているかもしれません。

 え、気があるってことなのでしょうか。これは。いやでもウィステリア様だし……。言葉通り真に受けるのも……ううん、でも……。

 そんな私の気持ちを露も知らず、ウィステリア様は雨を見ながら話を続けました。


「ラヴァンダ嬢は運が無かったと言っていたが、私はいつもそうだ。神が私を見捨てたと、母が嘆くほど」


「お母様が、ですが?」


 思わず聞き返した私に、ウィステリア様は頷きました。


「母はとても優しい人だった。私のことをよく心配してくださった。私も、そんな優しい母の期待に応えようと努力したこともあるのだが――結局ダメだった」


 ウィステリア様は、己の手を掲げます。


「私はきっと……世間から、ずれているのだろうな。色々と。だから、空回りする」


 ウィステリア様の声はどこか落ち込んでいる様子でした。

 うーん、やはり先ほどのは恋愛的な意味ではないようです。彼なりに気を使ったのでしょう。せっかくの休日ですもの。どうせなら、相方には楽しんで欲しいですよね。

 私は、ウィステリア様を覗き込み、言いました。


「ウィステリア様。ウィステリア様は楽しくありませんか?」


「……? どういうことだ?」


「今のことです。私は雨が降っても、ウィステリア様と一緒なら楽しいですよ」


 ウィステリア様がわずかに動揺しましたが、私は構わず続けました。


「雨が降ろうと、運が悪かろうと関係ありませんよ。多少のトラブルは、旅の醍醐味と言うじゃありませんか」


 「旅ではないが」と困惑するウィステリア様に、「言葉の綾です」と笑って返します。


「いいではありませんか、ちょっとぐらい、運に振り回されても。それくらいの休日がちょうど良いものです」


 地面を叩く雨音が、だんだん弱くなっていきます。

 見上げれば、雨雲が薄くなり、隙間から青空が見えていました。


「それに――ほら」


 私が湖を指差せば、ウィステリア様もつられて視線を移しました。


 湖には、虹がかかっていました。

 雨が上がり、雲の隙間から差し込んだ陽が、きらきら光る水面に薄っすらと七色の橋を浮かばせています。

 驚いているウィステリア様を置いて、私は木陰から飛び出しました。


「運に振り回されるのも悪いことばかりではありませんよ! こういう風に!」


 楽しいですよ、と私はウィステリア様に手を伸ばしました。

 すると、ウィステリア様の青い瞳が見開かれ、一瞬、目に光が宿りました。


「――ラヴァンダ嬢」


 そして、彼は木陰から日差しの中へと大きく踏み出し、私の手を両手で握り返し、



「好きだ」



 と、真剣な顔をして告げました。


 ……ん?

 あれ、いや、今、なんて。


「ずっとわからなかった。だが、今、確信した」


 あ、きっと、あれですね。恋愛じゃなくて親愛的な好き


「私は、あなたに恋に落ちた」


 逃げ道は塞がれました。

 動揺しているのか照れているのか自分でもわからないまま、心臓の鼓動が大きくなります。今私の顔は赤いのでしょうか、それとも青いのでしょうか。

 ウィステリア様は吹っ切れた様子で、はにかんだ笑顔を浮かべました。


「あなたが好きだ。ラヴァンダ嬢。どうしようもなく、愛している」


 えっえっえっ。

 い、一体どうしてこうなったのですか……!?


 自問自答しても答えは見つからず、結局、私はしばらくの間、ろくに喋ることができませんでした。


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