Like a(ライカ)

檜木 海月

第1話 天体望遠鏡、星のお姫様 

あぁ、あまりにも綺麗だったんだ……回遊しながら私は静かに呟いた。あの星に手が届けばいいのに、なんて子供じみたことを思いながら私は今日も逃げるように窓の外から視線を外す。

この憧憬が、この感情が恋でないというのならば一体私の胸を巣喰うこの感情は何といえばいいのだろうか。



・・・



星を見た……

星を視た……

星が魅た……


流れ星に三回願えば願いが叶うなんていうけれど、だとするのなら三回も流れ星を見た私の身には一体何があるのだろうか。

『三回見るのなんて簡単だ』なんていう人もいるかもしれない、を三回見たのだ。

矛盾しているようにも聞こえるが、事実なのだ。その流れ星は私が見れば動き出して、見るのをやめるとその場に留まる。


間抜けな私は気が付かなかった、いや私が間抜けでなくても気がつけないだろう。だって人間は常に世界が規則正しく動いていると思っている、高いところからものを落とせば下に落ちるし何も食わなければ餓死する。

だから流れ星は瞬く間に過ぎ去るし、その場に留まるわけがない、ましてやこちら側に向かってくるはずがないのだ。

地球にまっすぐ降ってくる星は隕石だ、だが全てを読み終えた私はあえてこう記す、誰が何と言おうとアレは……彼女は流れ星だった。


肉眼で確認できる位置にあるのだ、もうすでに手遅れである。

そう考えた私はどうせ死ぬのならその正体を確認してやろうと広げていた天体望遠鏡にピントを合わせて降ってくる流れ星を見ようと目を開いた。


「は?」


いない。

流れ星など初めからなかったと言わんばかりに満天の星空にはこちらに向かってくる危なげなものなど一つもない。本当に一つだってないのだ。

仕事明けで疲れていたのか、それとも新しく買ったコーヒー豆が実は大麻やら何やらの幻覚剤だったのか……そんなことを嘯きながら天体望遠鏡から目を剥がせば先ほどより近い位置に流れ星がある。


「……はぁ!?」


天体望遠鏡に再び目を落とせばそこには何もない、繰り返しのように視界を天体望遠鏡から肉眼にシフトすればそこには確かに流星がある。

繰り返すこと三回、まるで訳のわからない状況に直面した私はただ笑うことしかできなかった。

あの流れ星がこちらに目掛けて落下していることは確実だから、今更下山したところで遅い。安いキャンプチェアが安楽椅子のような心地よさだ、背もたれがあるものを買って良かったと心の底からそう思った。すっかり冷めてしまったコーヒーは酸味が強くて好きじゃない、次の生では最後の晩餐には絶対選ばないと心に固く誓った。


静かな夜だ……諦め混じりに呟いて、そこで現状の異常性に気がついた、あそこまで近づいた流星ならば音がするはずなのにまるで機内モードにしているみたいに静かなのだ、全くの無音なのがおかしいのだ。

大なり小なりというか特大の轟音でなければ絶対におかしい状況なのに音がしない、肉眼で確認した時にしか目の前に現れない流星……これはもしかして俗に言うUFOなのでは?

解答を叩き台して顔を上げると、頭上にソレがいた。


「かぇッ?」


間抜けな声とともに、私は椅子を蹴飛ばしてアクションゲームのような横っ飛び。夜露に濡れる雑草のカーペットを転がって顔を上げればそこには宇宙船があった。


小学生が書き殴ったような鋼色の寸胴鍋みたいな胴体、おもちゃみたいな両翼が二枚ずつついている、真ん中には真丸の魚眼レンズみたいな窓。呆気に取られる私を流れる時間と現実は待ってくれない。


静かに機体に亀裂が入ってハッチが開く。


「……! ……? ……!?」


絵本の中のずんぐりむっくりした宇宙飛行士みたいな物体がノイズにしか聞こえない何かを身振り手振りで喚き散らしている。

私はゆっくりと立ち上がる、宇宙飛行士はゆっくりとその金魚鉢みたいな頭を外す。


優しい声がした、風鈴みたいにも金木犀みたいにも聞こえる柔らかな女の声だ。

金魚鉢みたいな頭を脇に抱えて、亜麻色のふわふわした毛布のような長髪を左右にたなびかせ、王子様みたいに優しくて甘い微笑みを浮かべる。


「こんばんは」

「こ……こんばんは」


星の王子さまならぬ星のお姫様だ、それ以外に彼女を形容する上手い言い回しが見当たらない。カラカラに乾き切った喉が、釘付けにされる瞳が正常な判断を遅らせる。


私はその夜、星と出会った。

墜ちてきた流れ星に恋をしたのだ。


・・・

少しばかり、昔話をしようと思う。

閑話休題とまでは言わないが箸休め程度の私の話を。


まだ私がスネの毛も生え揃ってないような子供の頃の話だ、毎年大量の荷物を両手に抱えて蝉の鳴き声を聞きながら帰る時期になると、父方の祖父母の家を訪ねて鹿児島の奥の方へと帰省するのが我が家の決まりだった。


正直に言えば、私は毎年この時期が憂鬱で仕方がなかった。周りの子達と遊びたいし、他の子達は両親に遊園地とか大型プールに連れていってもらうのに、私といえば虫と山しかないような流刑地に飛ばされる。私は虫が嫌いだった……同じくらい祖父母が、いや祖父が嫌いだった。

彼はいつも静かに眉間に皺を寄せて、ただ年季の入った椅子に座って本を読むか野球を見ているだけ。日に何回も何回も煙草を吸って夜になると匂いのきつい焼酎を煽る人だった。


「こんにちは、おじいちゃん」


私がそう挨拶しても、静かに私の顔をじろりと見て「よくきたな」と言うだけ、夏の間の会話なんてほとんどそれしかない。何を考えているかわからない、常に祖父は怒っている気がする。夕飯の時になれば父を時たま叱りつけそれを宥める祖母を怒鳴っている。

嫌なやつだと思った、彼は私達のことが嫌いなのだろうとそう思っていた。


小学五年の時だったと思う、親戚が集まって行われるどんちゃん騒ぎに疲れ果て、私はいつもよりも早く眠った。

ここには娯楽がない、だからと言って宿題をやるのも面倒臭い。目が覚めたのは大人達のどんちゃん騒ぎが終わって彼らが疲れ果てて眠る夜中の三時頃、嫌に乾く喉を潤したくて居間に降りる私の視界を祖父が横切った。「よく眠れたのか」とも「まだ三時だぞ、寝ろ」とも言わずに私の顔をジロリと睨んで横切ると玄関で靴を取り出していた。


「何処にいくの?」


問い掛けた私を見らずに祖父は地鳴りみたいな低い声で。


「星を見にいく」


と、そう言った。

そして少しだけ顔を傾けて、私を見ると。


「眠れないんだろ、着替えてこい」


幼い頃の私は何となく怒られるのだと思ったが、今にして思えば口下手な祖父なりの誘い文句だったのだろう。

私はビクビク震えながら、着替えたあとで街灯のない道を祖父の背中に縋り付くようにして歩いた。祖父は怖い、だが夜の闇はもっと怖いのだ、影も形もない『夜』は足元を照らす微弱な星の灯りすらも役に立たない、全部を飲み込んでしまうような深い夜闇。それは何かのテレビで見たそれはそれは大きなクジラが口をあんぐり開けている光景みたいで、気を抜けば舗装されてないこの道の端と端から大きな口が開いて私を飲み込んでしまうのではないかと想像する。

チラリと前を行く祖父が振り返り、私の震える手を掴んだ。


「大丈夫だ」


そう言う祖父の周りからは煙草の煙の匂いがして、いつもは鬱陶しく思うそれをあの日の私は安堵したのだ。


子供だけでは近づくなと言われていた山の入り口に着くと、祖父は私の手をそっと離してから聞いたこともないような声音で「少しでも歩くがキツくなったら直ぐに言え」と呟くと『ついてこい』と言わんばかりに歩き出した。


申し訳程度に整えられた獣道みたいな斜面を小さな足で登った。祖父は一度も振り返らなかった、祖父は一度も私に声をかけなかった。だが不思議といつもよりも怖くはなかった。

彼はこちらを見ていないはずなのに、私が息を整えてはぁはぁ言って立ち止まると何も言わずに少し先で立ち止まった。そして煙草の先に火を付ける。

煙草の独特なあの葉っぱの焼ける香りが鼻先を掠めて、彼の口から漏れる煙が私が歩く道標のようにも見えた。私がまた歩き出すと、静かに煙草を消火して彼もまた私の少し先を歩く。


いつもの祖父なら二十分程度で登り切るであろうその道を私のペースで歩いたせいで倍の時間を費やしてようやく頂上に辿り着く。

そこは苦労してたどり着いた割には何もなくて、ポツンと木を切ってくっ付けただけのようなベンチとも呼べない代物が転がっているだけ。


「よく頑張ったな」


祖父は汗だくの私の頭をゴツい手で撫でると、何処から取り出したのかわからない水筒に入っていた水を飲ませた。いくら思い出しての彼に撫でられたのはこの一回きりだった。

私は呆然と眼下に広がる家や田畑を見下ろして、なんだか残念な気持ちになった。苦労して登って得たものはこれか……と。

そんな私を見透かしたように、静かに彼は呟いた。


「見上げてみろ」


言われた通りに見上げると、そこには星が掛かっている。

まるで子供が無尽蔵にばら撒いたラメの入ったビーズのような星が頭の上で馬鹿みたいに煌めいている。言葉が出なかった、何の比喩表現でもなく私はあの日みた光景よりも美しいものを知らない。


見上げすぎて首が痛くなるぐらいに空をじっと眺めた、眺め続けた。チラリと祖父を見ると彼は不恰好なベンチに座って煙草を吸いながら私と同じように夜空に煌めく星を静かに眺めていた。彼に倣って私もそのベンチに腰掛けて星を見る。


「綺麗だろう」


彼が言った。


「うん、綺麗」


私は頷いた。


「宇宙に行った犬の話を知っているか?」

「知らない、犬も宇宙に行けるの?」

「あぁ、犬も宇宙に行ける」

「すごいね」

「その犬は、宇宙に行って星を見たんだ。今お前が見ているような遠い星じゃない、近い場所で星を見た」


今にして思えば、その犬の話の大筋は祖父が幼い私を気遣って変更したものだと大人になってから知ったが、犬でも宇宙に行けるというのはなんとロマンのある話なのだろうと私は胸を躍らせた。

ニコニコと笑う私を突然祖父は抱き上げて、静かに語る。


「ここにはな、何もないんだ」


静かに呟く祖父の声が恐ろしいほどに脳味噌を駆け抜ける。


「キツくなったら、星を見に山を登るといい。ここじゃなくてもいい、今生きている場所よりも少しだけ高いところから星を見ろ」

「……?」

「楽になる。今日から逃げるためじゃない、明日もまた立てるように」

「うん」

「約束だぞ、わかったか?」

「分かった」


祖父はそれ以降、何も言わなかった。

しばらくして私は祖父の隣で眠ったらしく、気がつくと家の中で眠っていた。数時間前のことは夢だったのではないかと思ったが、服についた煙草の残り香があれは現実だったのだと教えてくれた。


それから数年経って、祖父母の家に訪れる回数も年々減った。そうして私が社会人になる頃に病気で祖母が息を引き取り、後を追うように祖父はひっそりと天寿を全うした。

葬式の時に祖父の面倒を見ていた叔父からピカピカでゴツい天体望遠鏡を渡された。


「これは?」

「親父が君にって言ってさ。死ぬ少し前に買ったんだよ、慣れないネットを使って」


祖父が死んで、悲しくなかったといえば嘘になるが、不思議なことに涙は流れずに正体不明の感情が二日酔いの日の朝みたいに胸の奥でしばらくの間鎮座していた。


「『俺が死んだら、これを渡しといてくれ』って」

「ありがとうございます」


次の日も仕事があったので私は親戚たちよりも早く新幹線に乗って一足先に一人暮らしの家に帰った。本当に大きな天体望遠鏡を子供みたいに抱きかかえて、うつらうつらと船を漕ぎ、新幹線の座席でほんの少しだけ涙を流した。


祖父のことが嫌いだったわけじゃない、苦手だったのだ。そしてまた彼も、私たちが嫌いだったわけじゃない、ただ感情表現が……他人に愛を伝えるのが苦手だった。

私が祖父にもらったものは数少ない、彼は「子供に金なぞ」と言ってお年玉をくれないような頑固な人だったから。

私が彼からもらったものはこの大きな天体望遠鏡と星を美しいと思うそんな感情だけだ。


長々と昔話を続けてしまった。

思い出話と自分語りというのはいつまで経っても永久に続くものなのだ。だからここら辺で一度止めておこうと思う。

あれからまた数年の時が経って、私は趣味の覧に大手を振って書けるほど天体観測にのめり込んだ。

いつも通り煙草と財布、挽きたてのコーヒー豆とパーコレーター、もう随分とボロくなった望遠鏡と小さなキャンプチェアをバックパックに詰め込んで、星を眺めに山を登った。人が全然来ないような山に登って星を見ながら優雅にコーヒーを楽しむつもりだったのだ。


そうして話は冒頭に戻る、ようやく話は彼女に全て帰結する。

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