「グレゴール・ザムザ」という現象
夢美瑠瑠
「グレゴール・ザムザ」という現象
グレゴール・ザムザが、ある朝、何か気がかりな夢から目覚めたときに、彼は自分がまがまがしいグロテスクな毒虫にメタモルフォーゼしてしまっていることに気が付いた。
…が、この物語の主人公は平凡なサラリーマンではなかった。
彼は強靭な思索力を持ち、徒手空拳で理論的な思惟のみを演繹帰納して物事の実相やその意味を解析することを得意とする「科学哲学者」だった。
一見ただの「不条理」でしかないこの現象には、何か深い「意味」があるに違いない…普段からあらゆる現象について的確で鋭い卓見、分析を披歴することで有名な碩学は、早速この「変身」に隠された深い「意味」を探求し始めた。
「人間が虫になる…つまりそれは一種の退行だ。進化の法則への背馳だ。ありうべからざること…つまり人間存在が侮蔑され、貶められている。グレゴール・ザムザという存在が根本的に否定されている。「グレゴール・ザムザは虫だ」。最も優れているはずの存在が、虫という、もっとも下等な生き物であるという”象徴表現”が現実に起きている。
私は昆虫が無意味な存在とは思わない。生物の多様性は重要だ。しかし人間は万物の霊長で、知性を持っている。やはり知性は森羅万象の中の精華であり、唯一無二のものだ 。人間=虫。その等式の意味は、価値の無政府状態だ。マザ-グースの日常化だ。狂った祝祭空間。その序曲だ。何もかもが破壊され、破滅する。そういう狂った時代がやってくるという、坑内カナリヤの敏感な魂が察知した未来の、その怯えのパラフレーズだ。
虫にメタモルフォーゼするという現実には全く希望がない。時間からも空間からも、愛や友情や日常の娯楽や、あらゆるものから疎外されて絶望のみが息づいている。生々しいただの生き物がむき出しの生を生きるべく、放り出されている。
いわばそれが「現代」に独特の不気味な生々しさだ。
ありうべからざることが、狂気のような不条理が、現実に生じている…
「虫」になるというのはつまり全ての希望からの疎外だ。が、なぜ不条理なメタモルフォーゼが生じたかということを理解すれば、その生きるということの陰画化、地獄の図式から逃れることも可能かもしれない。
虫になってしまったという現実は受け入れざるを得ない。人間という存在。明敏な知性を持ち、形而上的な、神々を彷彿する高邁な容姿を持ち、歴史やロマンや叙事詩やその他の人間精神からのみ由来しうる万物の中の精髄をレゾンデトルとしている唯一無二のもの。
虫になってしまったのは、もしかしたらそうした「人間という存在への畏れ」、畏敬の念の亡失、傲慢な下等な日常的なエゴイズム、頽落、そうした、この世界の夾雑物、限りなくくだらない要素に絡め取られていたことへの懲罰かもしれない…
グレゴール・ザムザは「変身」の意味をはっきりと悟った。
そうして一切の「英雄的でないもの」、くだらない日常の断片や、無意味な想念、パソロジカルな雑念、雑音、そうしたものを意識的に捨象し去った。
強靭な思索力をもってすればそれはたやすい作業であった。
彼は華麗にメタモルフォーゼした。ホモサピエンスに帰還した。更に美しく、至高の存在に生まれ戻った。
彼は「さなぎ」のプロセスを経て、永遠不滅の「神」になったのだった。
<了>
「グレゴール・ザムザ」という現象 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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