わが友への復讐のためのオペレッタ

藤原くう

第1幕

 夢を見た。


 舞台で演技する夢だった。


 演技をしているのは一人だけ。茨木ランただ一人。ランは、事前に準備された脚本に沿って演技を続ける。他にも登場人物がいるかのように、ランは手を振り、脚を動かす。長いことスポットライトに照らされたランの体はほんのりと赤く上気していた。吐き出される息は熱を帯びており、舞台の床には汗がほとばしった。ランがターンするたび、観客さえもいない舞台にキュッと音が響く。


 いつまでそうしていただろう。


 一人演じる物語は、何度目かの終わりを迎えようとしていた。決闘には勝ったものの、相手の策略にはまって毒に侵され、死ぬ。そして、友に真相を伝えるのだ。


 毒刃に倒れ、友へと最期の言葉を伝える場面。クライマックス。ランの演技にも熱が入る。――それとは裏腹に、ランの心は冷え切っている。


 ランが演じる騎士は、友に対して並々ならぬ感情を抱いている。それは相手も変わらない。そこには篤い友情がある。脚本が茶色に変色するほど読み込んだランには、それを読み取った。


 だが、理解できなかった。どうして、他人のことが信じられよう?


 自分にはできない。したくもない。だって、いつ裏切られるかわからないのだから。


 ――あの時のように。


 鳴り響いた拍手に、ランはハッと顔を上げる。


 誰もいなかったはずの観客席に、人がいた。スタンディングオベーションをしているのは、男の子だ。演劇学校に通っているランよりも年下だろう。その小麦色をした肌と、快活そうな顔を見ると演劇など興味がないように思われたが、その目は好奇心で瞬いていた。


「さっきの演技、すごかったです」


「……全然よ」


 倒れ伏していたランは、立ち上がる。どこか気恥ずかしさが、浮かんでくる。


「ううん。そんなことないよ。気合がすごかったもん。剣が見えるみたいだった」


 少年は、先ほどのランを真似るように、見えない剣をえいやっと突き出す。演技中のランほどの迫力はなかったが、抱きしめたくなるような愛くるしさが漂っていた。そんな彼の姿に、ランは目をすがめる。


「おねえちゃんって、俳優さんなの?」


「『舞台』俳優ね。といっても、まだ学生の身だけれど」


「すごいすごいっ! 僕のために演技してほしいなあ」


「あなたのために?」


「あ……。ホントはご主人様のためなんだけど、そこら辺の人の演技じゃ満足しないんだ。だから、ぼくが探してあげてるの」


 ご主人様。その単語にランは違和感を覚える。日本における主従関係はほとんどが廃れてしまっている。大衆文化に根付いていたメイドカフェもコンセプトカフェという単語に押し込められ、その他大勢の中に埋没しようとしている。もしかしたら、目の前で笑う少年は外国に住んでいたのかもしれない。ご主人様が、古典文学の中ではなく現実のものとして存在していた場所に。


「えらいわね」


 褒められた少年は照れたように頭をかく。


「すごくうれしいです。ご主人様は全然褒めてくれないから……。文句ばっかり言うんですよ。フルートの音色が乱れてるーとか、鳥の鳴き声がうるさいーって」


 少年が、その『ご主人様』とやらの愚痴をこぼす。ご主人様は、少年に対して無理難題を投げかけているようで、興味のなかったランも同情してしまうほど。大変なのね、と言えば、大変なんですよ、心の声が返ってくる。


「それで、です。おねえさんほどの演技力の持ち主であれば、ご主人様もきっと、いや絶対、満足してくれると思うんです」


「そのご主人さまとやらの前で演技をしろってことかしら?」


「ですです」


「あのねえ。一人で演劇しろっていったって面白くもなんともないわよ? 一人芝居というのもあるけれど、私は詳しくないし」


「いえ、劇団員ならたくさんいます。でも、主演に見合うほどの――ご主人様を満足させられるだけの才能を持った人がいないんです」


「私ならその資格があると」


「うん。ぴったりだと思うな」


 素直な返答に、ランの目が爛々と輝く。黒々とした瞳には欲望が渦巻いている。


 主演。センター。観客の注目を一身に受けるポジション。演劇をやっている人間ならば、誰だって主役を演じたいと願い降り注ぐ光と鳴りやまぬ拍手に恋焦がれるものだ。それは、ランだって同じだ。


 だが――。


「嬉しいオファーだけれど、やるべきことがあるし、遠慮しておくわ」


「やりたいこと?」


「そう。やりたいこと」


 絶対にやらなくてはいけないこと。


 呟いたランの表情に、サッと暗いものが差す。それは一瞬のことで、まじまじと見ていないと気が付かないほどの変化だった。それに、少年が気が付いたかどうかはわからない。そもそも、ラン本人すら気が付いていないかもしれないのだ。純粋無垢の権化たる子どもが察せただろうか。


 とにかく。ランの返答に、少年は残念そうに眉を下げる。


「そっかあ、それは残念」


「ごめんなさいね。もうちょっと前だったら、よかったのだけれども」


「ううん。こっちこそ、無理を言ってごめんなさい」


 そこまで言ったところで、少年がランの前まで駆けてくる。がらんどうの舞台に、音は何も響かない。まるで少年がそこにはいないかのような。


 気が付けば、ランの目の前に少年がいる。屈託のない太陽のような笑みを、ランへと注いでいる。


 その手にはいつの間にか本が握られていた。


「これどうぞ」


「なによこれ」


 差し出された本を、ランは受け取る。薄さ的には本というより冊子に近いが、冊子にしては装丁がしっかりとしている。学校で用意されるホチキス留めの台本よりも手が込んでいる。ためすがめつしてみると、冊子にはバーコードがなかった。全体的にセピア色をしたそれは、バーコードが生み出されるよりも前に製作されたもののように感じられる。


 パラパラとめくって見ると、いくつかの絵と文章が記されている。


「これは?」


「とある戯曲です」


「戯曲」


 戯曲と聞いてよくよく見てみれば、文章はト書きだった。だが、見たこともないような戯曲で、興味が出てきたランは表紙に戻る。だが、表紙は年数が経過したためなのか、インクがかすれてしまっていて題名はわからない。辛うじて残っているのは、中央の絵だ。だが、それもインクが滲んだような虫の模様が描かれているばかりで、ロールシャッハテストを受けているような気になるばかりであった。戯曲の内容を、その絵から汲み取ることはできなかった。


「なんていう戯曲なの」


「ぼくにもさっぱり。でも、ご主人様が大切にしてるものなんです」


「大切にしていると言われたものを貰えるわけないじゃない」


「いえ、それは和訳したものなので。複製品なんです」


 少年は背中に手を回し前へと戻せば、その手には無数の本が握られていた。どれも、似たような装丁のもの。ということは虫に食われてしまったかのようなボロボロの装丁は、あくまでデザインということなのだろう。


「凝ってるのね」


「どうせやるなら本気でやりたいじゃないですか」


「確かに」


「それは、先ほどの演技に対するお礼です」


「お礼なんていらないわよ」


「じゃあプレゼントってことでいいですから」


 返却しようとしたランに、ニコニコと笑いながら少年が言う。弾けんばかりの笑顔を見ると、断るのが申し訳なくなって、ランは突き出した腕を下げるのだった。


 ランの口からため息が漏れた。調子が狂う。いつもだったら、他者からのプレゼントなんてもらわない。――そんなことをすれば、相手に貸しを作ってしまう。弱みを握られてしまうかもしれないではないか。


 まったく、とランは呟く。私もこのぐらい純真だったらよかったのに。相手の悪意になんて気が付かなかったかもしれない。もしくは、あの子が天真爛漫だったらよかったのに。


 そうだったら、恨むこともなかったのに。


 顔を俯かせたランを、少年は笑顔を絶やさずに見つめ続けている。


「何か困ったことでもあるんじゃないですか?」


 不意の問いかけに、ランは頷きそうになった。


「…………別に」


「そうですか。でも、心当たりがあるんでしたら、その本が力になってくれるかも」


「え……?」


「ご主人様のことが書いてありますから。力になってくれるかもしれません」


 言われて、手にした本に目を落とす。今にも壊れてバラバラになってしまいそうなその本からは、澱みねじれるようなフルートの調べが聞こえてくるような気がした。あくまで気がしただけだ。実際には、鳴っていない。それだけの妖しさをその本は湛えていた。


「これが」


「ただし」言いながら、少年は背を向ける。「大いなる力には代償がつきものです。それをゆめゆめお忘れなきよう」


 ――舞台に立っているおねえさんならよくご存じでしょうけど。


 不気味に響くその言葉を最後に、覚醒の世界へとランは舞い戻る。


 だがしかし、目を覚ましたランの手には少年から手渡された本があった。


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