百合色に染まるテーブルクイーン
よなが
前編
かぼちゃの煮付けって苦手なんだよね。
そう話した翌日、下の階に住む後輩がパンプキンパイを持ってやってきた。
ハロウィンの一週間前、土曜日のきっかり午後三時。彼女が玄関のドアを後ろ手で閉めると、甘い匂いがふわりとした。
「私がどこかに出かけていたら、どうするつもりだったのよ」
「ふふん。自惚れないでください。そのときはミナ一人で食べますから。これぐらいぺろりですからね」
そう言って、彼女がわざわざ箱を開いて見せつけてくるのは、カットされていない綺麗な円形。その半径で私の手のひらサイズだった。
私が知る
「あのさぁ。自分の名前を一人称にするなって、前にも言ったよね。そういう女の子、苦手だって」
「男の子だったらいいんですか?」
「よくない」
「わがままですね。ミナがミナのこと、ミナって言って何が悪いんですか。相手の信条を歪めようとする
「わかった、名前の件はもういい」
「わかればいいんです。さぁ、そこをどいてください。靴が脱げないじゃないですか。このままだとミナたち、玄関で立ってパンプキンパイ食べないといけなくなりますよ?」
美菜が箱を閉じ、パイの見せびらかしをやめる。ニヤニヤしている。まるで、このまま帰っちゃっていいんですかと煽っているみたいだった。
「かぼちゃ自体が苦手とも言ったよね。つい昨日、あんたにさ」
私の冷ややかな返答に、美菜はきょとんとした。しやがった。それから、だからなんですかと言わんばかりの表情になった。ひそめた眉に、尖らせた唇。
かと思えば、いきなり真剣な眼差し、それに合った顔に変わる。ころころと。
先週、雑貨屋に行った時にエジプト神話の神様を象った置物を買うかどうか迷った時にもそんな顔していた。ちょっとした鈍器にもなる大きさと硬さで「買いたいなら買ったらいいじゃない。それで、後悔しなさいよ」と言ったら、買った。どうかしている。
「いいですか、秋穂先輩。ミナが思うに、先輩は本当に美味しいかぼちゃを食べた経験がないんです。それでかぼちゃを苦手に感じているんですよ!」
「本当に美味しいかぼちゃって?」
「たとえば、このパイに使われているのがそうです」
「ふうん。なんて品種?」
「はい?」
「かぼちゃにも種類って、きっといろいろあるでしょ。パイに向いているのがあれば、煮付けに向いているもの、あるいはポタージュ向きとか。ちがう?」
「へぇー、そうなんですねぇ」
「アホ面してんじゃないわよ。知らないわよ、そんなの。私さ、その場しのぎのテキトーなこと言うやつも苦手なの」
「で、でも! 先輩と一緒にパンプキンパイを食べたかったのは嘘じゃないです!」
「……。それさぁ、箱から察するに、駅前のあそこのやつでしょ?」
ロゴと共に筆記体のアルファベットで箱に印字されている店名を私が読み、口にする。「よく読めますねぇ!」と感心してくる。なんで嬉しそうなんだ。
「そこさ、アップルパイが評判の店じゃん。買ってくるならアップルパイでしょ」
「売り切れていました!」
「ん? ああ、そうなの。じゃあ、それでしかたなしにパンプキンパイってことなんだ。いや、それもおかしいけどね。昨日、苦手だって話したし」
「ちがいますよ? はじめからパンプキンパイ狙いです。てへ」
いい笑顔だった。惚れ惚れしてしまうほどに。
美菜とは大学で知り合ってまだ半年程度の付き合いで、彼女の中高生時代というのを私は全然聞いていないが、きっと周囲に愛されていたのだと思う。こうも眩い笑顔を向けられたら、並の男の子はそれだけでズドンと恋に落とされる。
グループのリーダー格で陰湿な女の子に目をつけられでもしない限り、誰もが彼女に優しかったのだと想像する。本人に確認しないと、いつまでも想像の域を出ない。でも、聞こうとしては躊躇う自分がいる。たとえば、過去に何人ぐらいと付き合っていたのか、その彼らとはどこまでしていたのか。そういうの気になっているくせして、聞けずじまい。今はフリーっぽいけれど。
「先輩? そろそろ、ほんとに通してくれませんか? 食べましょうよ、パンプキンパイ。これ食べたら、先輩のパイも大きくなるかもですよー、なんちゃって」
「うざ。セクハラ親父かよ」
何がなんちゃってだ。
今は部屋着で盛っていないだけだから。盛る時は盛って、あるように見せるから、見せることができるから。胸部の発育について悩んでなどいないのだ。余計なお世話だ。
私は観念して、彼女を部屋に上げる。
帰らせるつもりが少しでもあったのかと問われればノーであるが、すんなり上げるのは自分の中でいけないと線引きしている。
ほいほい上げてしまうふうになって、それを彼女が喜ぶようになったのなら、私はたぶん我慢できなくなる。彼女との関係に。
「で、なんでパンプキンパイを買ってきたのよ」
「言ったじゃないですか。かぼちゃの美味しさを知ってもらいたいって」
「そうは言っていなかったでしょ」
「あれ? 伝わっていませんでした? うーん……意外と鈍感ですよね、先輩」
神経質だと言われることは多いが、鈍感だとは言われ慣れていない。どちらも賛辞でないのはわかっている。
「はぁ。マジで南野は遠慮ないわね。ちょっ、待ちなさいよ。切り分けるし、皿ぐらい用意するって。なに手づかみでどうにかしようとしているのよ」
「いいかげん、ミナのことミナって呼んでくださいよ。もしくはミナミナでもいいですよ。お集まりの皆々様って。へへっ」
へへっじゃない。今はふたりきりでしょ。可愛いのがまた腹立つ。
私はキッチンに行き、ペティナイフと紙皿、それとプラスチックフォークを持って美菜の元へと戻る。
「あんたを苗字で呼ぶのが私の信条だから。それを歪めようとしないで」
「ええー。そんな、呼び方ひとつに信条だなんて大袈裟な」
数分前の自分を忘れているんじゃないわよ。
美菜は、何が楽しいのか髪を指先でくるくるいじっている。彼女の肩までかかる黒髪。地毛で染めていない。そういえば出会った頃に、それが信条だって言っていたっけ。あの時、思わず「綺麗ね」と褒めたら「先輩の髪もびゅーりーほーですよ!」なんて返されたっけ。私のは、大学進学に合わせて、なんとなくで染めただけの栗色だというのに。信条はないのに。
「どうせ恥ずかしいだけなんですよね。いいですよ、ミナは。最初はふたりきりのときだけミナって呼ぶ、みたいな感じで」
「その感じはなんか違う」
「どう違うんです?」
「どうって……」
ふたりきりのときだけの呼称。それって特別な関係っぽい。彼女の笑顔みたいに私にとっては眩しい。
「また難しい顔していますね。そんな難しく考えることじゃないと思いますよ」
「そうね、それには同意」
「どうですか、お味は。ミナとしては思っていたより、甘々です。煮付けが苦手だったら、この甘さもダメですか?」
「……まぁ、悪くないかな。一切れ、二切れなら。たぶんたくさん食べたら、気分が悪くなりそう。でも、ありがとね。買ってきてくれて」
「はぁ~。不満そうにしながらも、そこでちゃーんとお礼を言ってくれるのが秋穂先輩ですもんね~。後輩冥利に尽きますよ! ただ、もっと満面の笑みで言ってくれたのなら、もーっと癒されるんですが」
「私、そういうの似合わないでしょ」
「なーに、クールぶっているんですか。先週、猫カフェであれだけ頬ゆるゆる、よだれだらだらだったじゃないですか」
「よだれなんて垂らしていないわよ!」
百歩譲って、頬を緩ませていたのは認める。
人に可愛がられるああいうプロの猫たちは、素人ならぬ素猫とは異なる趣があって、いいものなのだ。
「あの、先輩。一ついいですか」
急に改まって美菜が言う。切り分けたパイ、あと一口の大きさになったそれをフォークでつつきながら、彼女は私に目線を合わせずに問いかけてくる。
「石田くんの告白断ったってほんとですか」
「それ、本人から聞いたの?」
石田くんというのは美菜と同じ一年生。そして私たちと同じく、とある文化系サークルの一員だ。見た目は、野菜で喩えるならごぼうかな。
「はい。なんか昨日落ち込んでいたんで、つい。向こうもつい話しちゃったって」
「そう」
「あれですよね、これが中学や高校だったらすぐに広まっちゃうんでしょうね。ああ、でも石田くん、べつに大学で有名人ってわけじゃないし。狙っている子の話ってのもミナは聞いたことないです」
「何が言いたいのよ。もしかして怒っている? 南野は石田と仲良いんだっけ」
「ふつうです」
「へぇ。でも友達としては、不満なわけ? 私と彼が付き合わずに、多少なりともぎくしゃくしちゃうのが、さ」
「そうでもないです」
「じゃあ、どうしたのよ。こっち見なさいよ。ほら、パイをぼろぼろにしてんじゃないわよ」
粉々になったパイはフォークに乗らずに皿の上に落ちる。煮付けと違ってねっとりとしてはいない。ただ、それでも口に入れ、舌の上で味わう時、確かにかぼちゃだとわかるのだった。
「告白されて、どうフったのかなって」
顔を上げてこっちを見たミナは暗い顔をしていた。暗くなっちゃダメだって耐えている顔だ。猫カフェで、お目当ての子が「出勤」していなかったのを知らされたときと同じ。素直に「ええーっ!」とか「がーん!」とか、そういう彼女らしいリアクションするのかと思いきや、しおらしくなった彼女が印象的だったから覚えている。
「どうって、べつに普通よ。石田君に悪いから教えないけれどね」
「ケチ」
「なんでよ。石田君が何か言っていたわけ? 人生観が変わるような名台詞でフラれちゃったよって」
「なにも。少ししつこく聞いたら、先輩に直接聞けよ、ほっといてくれよって。多感な思春期の男の子みたいですよね」
「あんたと同じで18歳でしょ。だったら、まだまだ思春期なんじゃない」
「あっ! ひょっとしてそういう断り文句だったんですか。私とあなたじゃ釣り合わないわよ、もっと大人の人じゃないとね、って。ひゅー!」
「言っていない。角が立つことは何も口にしていないわ。相手も、わりとあっさり引き下がったし」
「ふーん。そうなんですね、なんだ、なんだ。じゃ、いっか」
得心した様子になって、パイ屑を器用に食べていく彼女。
対して、私は腑に落ちなかった。美菜自身がしつこいと自覚するほどに、相手に詰問するだなんて、これまで耳にしたことがなかった。
美菜の人柄はふわふわしていて、人懐っこい面もあれば逆に人と距離をとる面もある。その塩梅というのが上手で、人の嫌がる部分に踏み込んでしまう失敗はほとんどしたことがないそうだ。豪語とまではいかずとも「美菜って、最適な距離感、なんとなーく、わかっちゃうんですよねー」と言っていた。
今回のパンプキンパイの一件も、普通なら苦手だと話した食べ物を敢えて買って家まで来ない。小さなアパートで、部屋を行き来するのには五分もかからないが、とにかく、事前に連絡なしに買って押しかけるなんてありえない。
でも、それをしてきた。彼女は信じていたのだろう。
私が彼女を拒まないことが。
そこに思い至ると、私は気が滅入った。その信愛を裏切るようなことはしてはいけないと肝に銘じなけれならなかった。
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