終章 道は彼方へ
第42話 伝言
一週間が過ぎてなお、矢部邸は物々しい空気に包まれていた。
門のシャッターは開けられているが、前には関係者以外立入禁止のロープが張り渡され、両脇には制服の警官が佇立していた。敷地の中には警察車両が複数駐まっているのも見える。
現場がどうなっているのかちょっと確かめてみたい気もしたが、
けれど別にそれで構わない。
晴日と陽虎の兄妹に櫻子を加えた三人は、足を緩めることなく矢部邸の前を通り過ぎた。
軽く汗ばむほどの陽気だが、全員が長袖長ズボンの服を着用し、足には動きやすいスニーカーを履いて、背中にリュックをしょっている。まるで軽い登山かハイキングにでも行くような格好である。
「ねえ陽虎、本当に行くつもりなわけ?」
さしも長く続いた塀も途切れ、周りに樹木ばかりが目立つようになると、櫻子は我慢が切れたように問いかけた。陽虎は振り返らないままに答える。
「ここまで来といて何を今さら。だいたい、お前らに付いて来いなんて頼んでない。嫌なら帰ればいいだろ」
「嫌だけど……放っておけるわけないじゃない」
櫻子の口が尖る。晴日はうんうんと頷いた。
「全くです。おにぃを一人で行かせたら、またどんな間抜けな破目に陥らないとも限りませんし。厳重な監視が必要です」
陽虎は喉を
反論できるはずがない。せっかく平穏な日常が戻ったというのに、災厄の元兇に自ら再び会いにいくなど、物好きを通り越してもはや自傷行為だろう。
とはいえ晴日だって兄ばかりを一方的には責められない。本当に駄目だと思うなら、シャルロッテの頼みなど無視してしまえばよかったのだから。
――あの夜、動かない櫻子の体に寄り添って独り時間をやり過ごしていた晴日のもとへ、シャルロッテはふいに姿を現した。櫻子の魂を無事本人の肉体へと入れ戻すと、その様子を一心に見守っていた晴日に告げた。
「一週間後だ。あたしは天に還るための門を開く。もし気が向いたらあの家の裏山に来いって、陽虎に伝えてくれ」
陽虎の「殺人事件」はなかったことになった。警察内部での辻褄合わせの詳細は不明だが、結論として陽虎は矢部邸に拘束されていたのだということにされ、二日ほどの入院ののちにひっそりと退院した。
なにしろ、矢部邸では二十名近くの少女が意識不明かそれに近い衰弱した状態で発見されており、さらに建物があり得ない仕方で損壊したのだ。関係各所は当然大混乱であり、その陰に紛れる形でうやむやにされたのだろう。
シャルロッテからの伝言を、陽虎に教えるべきか否か。晴日が迷ったのは確かである。
「……まさか本当にその気になるとは思いませんでした。そんなにシャルロッテさんとの体験が良かったんですか? 十二歳の女の子と繋がった時の快感が、どうにも忘れられないわけですね」
「うぉいっ、おかしな言い方すんな。全然逆だっての。早く忘れるために、あいつがいなくなるのをちゃんと見届けたいんだよ。そうじゃないと安心できないからな」
「おにぃ、目が泳いでます。でもこの際そういうことにしておきますね。淫行の事実が世間に広まっても面倒ですし」
「濡れ衣にも程がある」
額に浮いた汗を拭おうとする陽虎の腕を、櫻子が苛立たしそうに引っ張った。
「ねえ、本当にこの山に入るわけ? 道とか全然ないじゃない。騙されたんじゃないの?」
詰め寄られて陽虎は首を竦めたが、行き先については確信があるらしい。
「大丈夫だ。あともう少し行けばきっと……ああ、ここだ」
陽虎は足を止めた。特に周囲と変わりないような場所である。手入れのされていない雑木が茂り、下生えも伸び放題で、進むのも困難な密林というわけではないにしろ、迷う危険性は十分にありそうだ。
しかし陽虎はためらいなく踏み込んだ。晴日は思わず櫻子と顔を見合わせ、スマホの地図アプリでGPSの電波が届いていることを確認すると、慎重に兄の背を追い始めた。
不慣れな山登りに励むこと暫し、櫻子が首を傾げた。
「何これ……道?」
草が千切れ土の抉れた跡が、真っ直ぐ上へ向かって伸びている。さらに先の方まで視線を飛ばせば、樹木が両断されているような箇所さえあった。まるですさまじく長い剣でも叩き付けたといった風情である。
「道というより、大雑把過ぎる目印ですね。つい最近付けられたっぽいです」
こんな真似が普通の人間にできるとも思えない。
「これはもはや立派な環境破壊です。おにぃ、やっぱりあんな危険生物とはもう金輪際関わり合いにならない方が……あ、こら!」
陽虎は晴日を無視した。むしろ逆に急かされたように足を早める。まるで大好きなご主人様の匂いを嗅ぎつけた仔犬だ。
「晴日ちゃん、わたし達も行くよ!」
櫻子も負けじと気合を入れた。争うべき敵はきっとこの上にいる。
山というには低く、せいぜい丘程度だったのは幸いだった。息を切らせ額に汗を浮かべながらも、晴日はなんとか高校生二人についていくことができた。最後の一歩を登りきり、兄の隣に並ぶ。
「来たぞ、シャルロッテ」
頂上は開けた草原になっていた。陽虎の声が届き、手を頭の下に敷いて寝転んでいた女の人が振り返る。
「待ってたぜ」
シャルロッテは小さく笑みを浮かべると、跳ねるように立ち上がった。体重を感じさせないな軽やかな動きなのに、近付く歩みには力がある。一週間前にはかなりの激闘を演じたはずだが、負傷の名残りはまるでない。晴れ渡る空から降りそそぐ日射しを受けて、黒褐色の肌が艶やかに輝いている。
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