第21話 バスに乗る
二人の乗ったバスはそこそこ混み合っていた。空席は一つあるだけだ。
「櫻子ちゃん、座ってください」
「え、晴日ちゃんが座ってよ」
手を引いて促す晴日に櫻子が遠慮するのと同時、バスが動き出した。案の定、櫻子は他愛なく倒れかかって晴日にぶつかる。
「きゃっ」
「わぷっ」
「あ、ごめっ……」
晴日は握った手すりに力を込めて踏ん張ると、櫻子をゆるく睨んだ。
「まったくもう、櫻子ちゃんは考えが甘いです」
「ほんとごめん。ちゃんと立つからさ」
「えい、えい、いいから座るんです。櫻子ちゃん一人の体じゃないんですよ。中に大切な命が宿ってることを忘れたら駄目です。もっと自分をいたわってください」
「晴日ちゃん、声大きい! そんな言い方したらまるでわたしが、ああ、もうっ」
晴日は櫻子をぐいぐいと空席の方に押しやった。車内の乗客の視線が集まる中、櫻子はリスが巣穴に引っ込むように身を縮めて、椅子に腰を落とした。
乱れた後ろ髪の間から覗くうなじが真っ赤に染まっている。だから自分の方にすればよかったのに、と櫻子を見下ろしながら晴日は思った。なにしろ実の兄妹なのだ。互いのことは知り尽くしているし、遺伝子が近いのだから肉体の相性だっていいはずだ。陽虎の霊を宿らせても、もっと普通に行動できるに決まっている。
──櫻子ちゃんはまだまだ修業が足りません。こんな有様ではとてもおにぃを任せられ、じゃなくて押し付けられませんね。やっぱりおにぃにの手綱は私が握っておくべきなのがはっきりしました。ふふん。
「……えっと、何?」
「はい? 何がですか」
「晴日ちゃん、今わたしのこと鼻で笑ったでしょ」
「気のせいです」
「そうかなあ」
「そうです。わたしは櫻子ちゃんのことを尊敬してますから」
「またまたぁ。そんなお世辞言っても何も出ないよ?」
「本当のことです。おにぃよりは立派だと思ってます」
「それってちっとも褒められてる感じがしないんだけど」
櫻子は口先を尖らせた。その裏側で陽虎も不本意そうにしているのが見えるかのようだ。
だけどそんなの本当はおかしい。だって櫻子は櫻子だ。陽虎じゃない。
現実の世界に陽虎はもういない。首を斬られて死んでしまった。
でもそれなら自分は何のためにここにいるんだろう。何をしている。何をすればいい?
「……ちゃん、晴日ちゃん」
櫻子が心配そうに呼びかけているのに気付き、晴日は頭の外側へ意識を戻した。
「すいません、ちょっと考え事をしてました。どうしたんですか。車酔いでも?」
「心配いらないって。きっと上手く行くからさ!」
櫻子は脈絡なくガッツポーズを繰り出した。肩にかかっていた髪が勢いのままに跳ねる。
晴日は瞬きをした。正直意味が分らない。
一体どこに楽観できる根拠があるのか。前途は未だ多難、というより混沌の闇に沈んでいる。これから向かう先にいるのは、常識も法律も通用しない謎の敵だ。対するこちらはただの小学生&高校生、もちろん特殊能力の持ち合わせなどもない。
だから結局今できることは一つだけだった。
晴日は小さく息を吐き出すと、力を緩めて微笑した。
「案ずるより産むが易し、というやつですね」
「だからその言い方だとまるでわたしが……」
晴日が下腹の辺りに温かい視線を向けてやると、櫻子は居心地悪そうに身をよじらせた。
バスは市の中心部付近を走っていた。一つ手前の停留所で、買い物目当ての客がどっと降りていたため、空席もちらほらとできている。だが晴日は元のまま櫻子の座る脇に立っていた。少し前から年上の友人の様子がおかしい。
痛みを堪えるようにじっと息を凝らしているかと思えば、一転して落ち着きなくそわそわと体を揺する。単に〈偵察任務〉に当たって緊張しているためばかりではなさそうだ。
「櫻子ちゃん、どこか具合が悪いんですか?」
つわりですか、と軽口をきくのはさすがにやめる。こめかみに汗を浮かべた櫻子は、弱々しく笑うと首を振った。
「あはは、気にしないで。別になんでもない駄目だもう限界だろ次で降りるぞ!」
「おに、櫻子ちゃん?」
おにぃ、と呼びそうになったが周りを気にして途中で修正をはかる。しかし今のは途中から明らかに陽虎が喋っていた。乗車してからはずっといない者のように沈黙していたのだから、相当切迫した事態になっているらしい。
晴日は即座に降車ボタンを押した。やがて次の停留所に辿り着くと、顔色の悪い櫻子を半ば無理やり立たせてバスを降りる。
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