第20話 二心同体

 矢部製薬会長なる人物の邸宅は、野見市の北の外れにあるということだった。同じ市内とはいえ気軽に歩いていける距離ではなく、近くまでバスを利用することにする。


 大通りに出た晴日は、櫻子と繋いだ手を握り直した。

 幼児のように櫻子の足元が覚束ない。ふわふわとあちこちに顔を向け、そのわりに目はまともに物を見ていない様子である。


 車道でダンプカーが唸りを上げる。傍を通り過ぎる間際になって初めて櫻子は動く鉄塊に気付いたらしく、風圧と轟音に悲鳴を上げてよろめいた。


「んんっ……櫻子ちゃん、けっこう重いです。夜食にシュークリームを食べるのは控えたほうがいいと思います。近いうちに相撲部屋からスカウトが来ちゃいます」


 頑張って年上の少女を支える。一瞬自分までよろけて転びそうになった晴日だが、ぎりぎりで持ちこたえる。


「嘘よ、そんなに太ってないんだから! ……そりゃあね、晴日ちゃんに比べたら少しは重いだろうけど、っていうかごめん、ありがと」


 櫻子は自分の身を立て直して息をついた。もし晴日の手出しがなければ、轢かれはしないまでも捻挫の一つぐらいしていたかもしれない。


「やっぱりついてきて正解でした。わたしは頼り甲斐のある少女です」

「う、うーん、どうだろ。晴日ちゃんはやっぱり家にいた方がよかったんじゃないかなーって気がしないでもなかったり」


 櫻子は曖昧に首を振った。晴日は裏切り者を見限って兄に質した。

「おにぃはもう納得してるはずですね。わたしが一緒の方が心強いに決まってます」

 答えたのは櫻子の声である。

「もしやばそうだったら即行帰らせるからな」


 すぐに続けて櫻子が文句を言った。

「ちょっと、勝手に喋らないでよ」

 再び櫻子の声が言い訳をする。

「しょうがないだろ。俺は今お前なんだから」


「だーめっ。用があるまでどっかに消えてて。盗み聞きも覗き見も絶対禁止よ」

「無理だな。何もしなくても勝手に見えるし聞こえる」

「だからそれをやめろって言ってるの!」


「櫻子ちゃん、一人芝居はその辺にしておきましょう。周りから痛い子だと思われてます」

 晴日は淡々と、かつ抉り込むように突っ込んだ。


 もちろん晴日はちゃんと理解している。今喋っていたのは櫻子と、櫻子に取り憑いた陽虎だ。だが通りすがりの善良な一般市民には、そんな事情が想像できようはずもない。


 ──二人のその時は見ていない。

「五分で戻ります。その間に済ませておいてください」


 陽虎が櫻子への憑霊を始める前、晴日は当事者の二人へ言い残すと、蜷川とシャルロッテを連れて部屋を出た。それからきっかり五分後、ノック抜きに戸を開けると、既に陽虎の姿は消えていて、顔を赤くした櫻子が身を持て余したように立っていた。


「どうやらちゃんと憑いたみたいだな」

 シャルロッテはしげしげと櫻子を観察した。

「具合はどうだ陽虎。櫻子の中は気持ちいいか?」


「変な言い方すんなよ」

 口を開いたのは櫻子で、声も櫻子のものだったが、晴日は間違えなかった。今喋ったのは陽虎だ。二人は本当に一つになってしまったらしい。

 その事実を呑み込むや、晴日は瞬間的に決断した。


「わたしも矢部氏の所に一緒に行きます」

 毅然と通告する。

「おにぃと櫻子ちゃんだけでは心配です。どんな間違いが起こるか分りません」


「駄目だ、よ」

 陽虎が「駄目だ」、櫻子が「駄目よ」。

 仲良く同じ台詞を発したのち、暫しの間を置いてから、改めて陽虎が止める。


「それこそどんな危険があるかも分らないんだ。お前は家に帰ってろ」

「櫻子ちゃんなら危ない目に遭わせてもいいんですか」

「や、そんなわけはないけど」

 晴日の反撃に陽虎は口ごもり、代わって櫻子が理屈をこねる。


「わたしはほら、晴日ちゃんと違って大人だし」

「櫻子ちゃんが大人ですか。へえ」


「そ、そうでしょ。だってもう高校生なんだから」

「だけど未成年で学生なのはわたしと一緒です。なのにどうしてもう大人だって言えるんです」

「……えっと、それは」


「もう生理が来てるからですか」「え」

「もう下の毛が生えてるからですか」「な」

「83のBだからですか」「なんで知ってるの!?」


「毎晩ひとりエッチを欠かさないからですか」「そ、そんなにしてないもん……」

「もう男の人とエッチしてるからですか」

「それはずぇっったい違うから! まだだから! 初めての相手は陽虎って決めてるんだから!」


「だそうです。よかったですね、おにぃ」

 晴日はしれっと櫻子を見つめた。櫻子はまともに声も出せない様子であわあわと悶える。己の中にいる幼馴染みのことをころっと忘れていたのだ。


 姿は見えないがどうせ陽虎もうつけて固まっていることだろう。

 二人を沈黙させた晴日は異界人へ問いかけた。


「シャルロッテさんはどうです。わたしが偵察についていったら困りますか」

「いや全然」

「ですよね」


「特に力もない地上人の小娘一人、あたしにはどうだっていいし、どんな奴か知らんけど向こうの術士だってそうだろ。それとだ」

「はい」


「陽虎と櫻子のためには、たぶん晴日が一緒の方がいい。二人だけだと中で魂がごっちゃになる可能性があるからな。短い間ならまず平気だろうけど、異常に相性がいいとか何か魂消たまげるような経験をするとかで、引っ付くこともないとはいえない。外にもう一人別の人間がいて話相手になれば、そういう危険も減るしな」


「なるほど」

 晴日は感心して頷いた。「どうでもいい」といったような回答は予想していたが、さらに意味のある理由まで付いてきたのはありがたい。


「シャルロッテさんのお墨付きです。わたしも同行することに決まりました。パチパチパチ」

「待てよ。仮に晴日が向こうの興味を引かないとしてもさ、巻き添えを喰うって可能性は残るだろ」


 陽虎はなおも反論を繰り出した。櫻子の嬉し恥ずかしい告白についてはひとまず放置することにしたらしい。


「はっは、お前が言うと説得力があるな」

「誰のせいだよ。けどそういうことだ。晴日は連れて行かない。留守番だ。分ったな」


「……はぁ、仕方ありませんね。だったらその間わたしはポチと遊んいることにします。いいですね、ポチ」

「わんっ」

 蜷川は嬉しそうに吠えた。


「もっと危険そうなんだが……」

 陽虎は目眩を覚えたように呻く。


「主と奴隷、水入らずで濃密な時を過ごしましょう。ハードなプレイも思いのままです」

「最高です、ご主人様」


「でもおイタはいけませんから。ちゃんといい子にしてるんです。さもないと」

「さ、さもないと……?」


「きつーく、お仕置きをしてあげます」

「晴日様っ、それでしたら今すぐにでも!」


「もう、いい加減にしてよ、キモい!」

「きゃんっ」

 陽虎ではなく本体の櫻子が、鞭を振るうような鋭い張り手で蜷川を殴り飛ばす。


「おにぃ、聞いてください」

 ガチで痛がっている蜷川を晴日は部屋の隅に押しやった。櫻子の間近に顔を寄せる。中の陽虎を説き伏せるついでに、外の櫻子も同時に攻略してしまえればおいしい。


 晴日は上目遣いの瞳を潤ませた。

「おにぃがわたしのことを心配してくれてるのは分ります。とってもとっても嬉しいです。だけどね、わたしだっておにぃのことが心配なの。だから一緒に連れてって。おにぃ、お願い」

 二人は魅入られたように頷いた。泣く子と妹には勝てない。

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