第二章 復活の時はいつ

第10話 夜の訪問者

 部屋の中からは物音がしなかった。ドアと壁の隙間から灯りも洩れていない。

 誰もいないか、または寝ている。普通ならそうなるだろう。

 だが高水たかみず晴日はるひは息を落ち着けると、小さな拳を握って扉を叩いた。


 静かに二回。返事はない。

 強めに二回。返事はない。


櫻子さくらこちゃん、わたし。晴日です」

 できるだけ普通に聞こえるように呼びかける。返事はない。

 晴日は部屋に入れてもらうことをあきらめた。

 だけど引き返しはしない。


「入ります」

 短く告げて、躊躇なくドアを開ける。

 櫻子は暗がりにうずもれるように膝を抱えていた。晴日は電灯のスイッチを点けたが、伏せた顔が上がる気配はない。

 部屋の空気が重く湿っている。まさか涙のせいということもないだろうが。


「少し、窓開けますね」

 外の空気を入れてから、櫻子の真向かいにぺたんと腰を落とす。


「まったく、本当にうちのおにぃは駄目駄目です。櫻子ちゃんをこんなに悲しませるなんて、全然なってないです。今度きつく叱ってやります」


 ぐすっと嗚咽の声が洩れ、櫻子の肩と背中が震え出す。晴日は自分より四つ上の少女を抱き寄せる。


「櫻子ちゃんも駄目駄目です。おにぃがいなくなったぐらいで泣いてたら乙女がすたりますよ。馬鹿な奴だって笑うんです。おにぃにはそれくらいがちょうどいいんです」

「うん……そうだよね」


 泣き虫の髪をゆっくりと撫でてやると、晴日の平らな胸の中で櫻子は頷いた。涙にくぐもった声に、花のつぼみのような強さが宿っている。だが晴日はなおも気を緩めない。


 ここに来る前に自分の瞳はちゃんと乾かしてきた。櫻子が自然に笑えるようになるまでは、平気な振りを貫くと決めている。

 晴日は目許に力を入れ直し、櫻子は変わらずしゃくりあげながら、晴日の背中に腕を回した。


「ごめんね。わたしがいつまでも泣きやまなかったら、晴日ちゃんが自分を後回しにしちゃうもんね。わたし、しっかりするから。晴日ちゃんこそ、いっぱい泣いていいんだからね」


「……的外れな心配です。わたしがおにぃなんかのために泣くわけないです」

「うん、分ってる」

 全然分ってくれてなさそうだった。


 もう好きにしてモードの晴日を櫻子はぎゅっと抱き締める。怒涛の頬擦り攻勢が始まるのを覚悟したが、櫻子はなぜか恐ろしい怪物でも目撃したみたいにびくりと身を竦めた。


「櫻子ちゃん? どうしました」

「邪魔するぞ」

 ぞわり、と。晴日の首筋のうぶ毛が逆立った。


 ここは二階である。窓から普通に声が掛かるのがまずおかしい。だがそれ以上に何か得体の知れない力が背後から吹き付ける。


 晴日は濁流に抗うような気合で振り返った。まだ寒い春の夜にそぐわない露出過多の女が身軽く窓枠を乗り越える。

 晴日の初めて見る顔だった。だけど知っている。


「あ、あんたが、どうして……」

 櫻子のあえぐような問いが晴日の推測を裏打ちする。水着みたいな黒い短い上下の服に、黒褐色の肌。話に聞いていた通りだ。晴日から兄を奪ったキ○ガイに違いない。

 櫻子を後ろに庇うようにして、晴日は相手を睨みつけた。


「何のご用でしょうか。もし謝罪に来たというなら一応聞くだけ聞いてあげますが、とりあえず警察を呼ぶので神妙にするようお願いします。それとこの国の民家は普通土足禁止です。靴は脱いでください」


 見たところ剣や他の武器を持ってはいない。だが素手でも晴日よりは強いだろう。襲ってこられたら反撃手段は噛みつくぐらいしか思いつかない。

 晴日の態度は百パーセント強がりだったが、女は感心したふうに瞳を細めた。


「へえ、陽虎ようこの妹か。いいな。陽虎よりいっそお前の方を下僕にしたいぐらいだよ」

「そうですか。お褒めは受け取りますが、お誘いはまっぴらごめんです」

 晴日の警戒心はうなぎのぼりに高まった。


 これまでのところ、陽虎の事件は通り魔か人違いによる犯行の可能性が高いと考えられていた。しかし犯人が陽虎の名を口にし、櫻子の家に侵入し、ついでに晴日を陽虎の妹と知っているとなれば、最初から対象として付け狙っていたとしか思えない。


 今すぐに大声で助けを求めるべきか。それとも相手を刺激しないよう大人しく出方を窺う方がいいのか。さすがの晴日も咄嗟に判断がつかない。


「ふざけんな、晴日をお前の好きにさせてたまるかよ! もし変なちょっかい出してみろ、ただじゃおかねえからな!」


 いきなり目の前に人が降って湧いた。晴日は軽くちびった。まるで魔法か幽霊だ。あり得ない。

 しかし女は相手がさっきからそこにいたみたいに話を続けた。


「あん? お前があたしをどうするってのよ。けどほんとにる気があるなら少しぐらい遊んでやるぜ。ほら、かかって来な」

「いや今のは勢いっていうかノリで……余り本気にされても困るんだが」


「……よ、陽虎っ!」

 櫻子が叫んだ。晴日の後ろから弾かれたように飛び出し、見慣れた後ろ姿に向けて突進する。そして何かの冗談のように擦り抜けた。その先に待ち受けるのは神出鬼没の首斬りだ。


「櫻子ちゃんっ!」

 晴日はぞっとして腰を浮かせたが、女はどうということもなく櫻子を受け止めた。櫻子は唖然とした顔つきで、明らかに何が起こったのか理解できていない。もちろん晴日だってわけが分らなかった。


 こういう時はまず落ち着いて深呼吸だ。そして簡単にできることから手を付ける。

「おにぃ、そこに正座」

 晴日は躾の悪い犬にするように兄に命じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る