第23話 底に残っていたのは
(時が……)
不意に、まりあの脳裏を過るものがあった。それは、病棟で見つけた不可解な記憶。ベッドに横たわるまりあに、母親が不思議なことを言っていた。
『まさか、こんなことになるなんて』
『あの男とは、別れるから。もう、まりあに近付かせはしないから』
あの男――それが、和哉のことではなく、幹雄のことなのだとしたら。
(生きている)
幹雄が、生きている。
「わたし……誰も死なせてなかったんだ」
ふっと、心が軽くなった。泣き出しそうな程の安堵感が、まりあの全身を満たす。
思えば、あれだけ他の記憶と上手く繋がらなかった。時系列が違ったのだ。
(でも……それならどうして、わたしはここに飛ばされたの?)
まりあは意識を取り戻していた。あの事件で死にかけたことが原因ではない。ならば、何故……。
視界の端に、何かが引っ掛かった。見上げる己の指先に、一際輝くものがある。指輪だ。ダイヤモンドのような小さな石が象嵌された、細みの銀環。左手の薬指。それは、初めからそこにあった。
(ああ……そうだ)
これは――。
見つめる内に、強い光が指輪から放たれ、まりあの身体も意識も、全てを包み込んで追憶へと連れ去った。
◆◇◆
春風が一陣、まりあの長い髪を踊らせる。
「あっ」
擦れ違いざま、一房相手のシャツのボタンに絡まってしまった。
「ごめんなさいっ」
慌てて外そうと手を伸ばすと、相手も同じことを考えたようで、手と手が触れる。互いにびくりと手を引っ込めて、ペコペコ頭を下げ合った。
「ご、ごめんっ」
「い、いえ、こちらこそっ」
改めて、相手がまりあの髪をボタンから解く。優しく丁寧な手付きに、まりあは何だかこそばゆくなった。ちらと目線を上げて、相手の様子を窺う。メガネを掛けた真面目そうな青年だった。まりあと同じく、伴は無く一人。目が合うと、はにかむように微笑んだ。
「外れたよ」
「あ、ありがとう」
ここで、青年はふと心配げに眉を寄せた。
「顔色が悪いみたいだけど、大丈夫? もしかして、邪魔しちゃったかな」
他に人気の無い中庭。青年が来たから、まりあが場所を移動しようとしたのだと察したらしい。そんな風に訊ねてくる。まりあは申し訳なくなって、ぶんぶんと首を左右に振った。
「いえ、そんなっ! ……ただ、わたし、男の人が苦手で……中高まではずっと女子校だったから、まだ慣れなくて」
すると、青年が笑みを零した。
「そっか。僕も、人の多い場所がどうも苦手で……サークル勧誘の嵐から逃げ出してきたんだ。凄い熱気だよね、先輩方。あ、同じ新入生……で合ってる?」
「うん、そう」
今度はまりあがクスリと微笑する。青年が照れたように頬を掻き、提案した。
「良ければ、もう少し休んでいって下さい。その……お邪魔じゃなければ、一緒に話しませんか?」
青年は、名を
小学生の頃の記憶が無い彼女には分からなかったが、今思えば彼が少し和哉に似ていたからかもしれない。
彼の方もまりあを気に入ったようで、親しくなるのに差程時間は掛からなかった。
幸せだった。二人の間には静かで穏やかな時間が流れ、このまま将来を共に出来ればいいと誓い合うまでになっていた。
けれど、あの――ハロウィンの日に、事は起きた。
「まりあ、どうしたの? 顔が真っ青だ」
この年、まりあは正人と初めて都会のハロウィン行列に行くことになった。二人とも人混みが苦手でこれまでそうした行事に関わったことがなかったのだが、苦手を克服する意味でも一度くらいは挑戦してみようという運びになったのだ。
しかし、待ち合わせ場所で正人を見つけた途端に、まりあが顔色を変えた。
正人の仮装はゾンビだった。別段傷メイクが上手い訳でもない、よくある血糊をぶちまけただけの簡単なものだ。それでもまりあは、紅に染まる恋人の姿を見て、急に気分が悪くなったのだ。
「わ、わたし……分からない」
何故だろう。血を見ると、いつも不穏な心持ちになった。しかし、正人のそれが尋常の量ではなかった為か、この日はいつもの非ではなかった。
まりあは全身を激しく揺さぶられるような衝撃を受けていた。凄まじい吐き気。悪寒。頭をキリで突かれるような鋭い痛みが襲う。
(何これ……わたし、どうしちゃったの?)
どうして、こんなに怖いのか。恋人の今の姿を直視することが出来ない。
俯いて震えるまりあを、正人は心配そうに見つめていた。天使の仮装をした彼女の細い身体が、突如ぐらりと傾ぐ。
「まりあ!」
慌てて正人が支えた、その時。まりあは目を見開いた。
「あ、ああぁあ……ッ」
覗き込む正人の血まみれの顔が、見知らぬ誰かのそれと重なった。浅黒い肌。無精髭。鬼のような憤怒の形相。
脳裏に映像が閃く。吊り下げられたシフォン。割れたガラス瓶。重く鈍い衝撃。掌に残る感触。赤く、紅く、赫く染まりゆく視界。
――それは、消し去った筈の、過去のフラッシュバックだった。
「いやぁああっ!!」
まりあは喉が裂けるような悲鳴を上げて、正人の胸を突き飛ばした。彼は、突然の彼女の行動に驚き、硬直していた。それを確認する余裕もなく、駆ける。
逃げ出した。まりあはその場から。彼から。自分の過去から。
「そう……思い出した」
追憶から現実に立ち戻ったまりあが、静かに口を開く。辺りはいつの間にかまた様相を変えていた。崩れたアパートはもう影もなく、元の通りの学校の校庭に座り込んでいた。傍らには、白い犬とピエロの青年が、彼女を囲むようにして立つ。
「わたしは、あの時のショックで子供の頃の記憶を失くしていたんだ」
人を殺したと思っていた。自分は人殺しなのだと。その事実に耐えかねて、自らの心を守る為、無意識に記憶を封じ込めていた。
「それが……ハロウィンの日に、血まみれの仮装をした正人さんを見て、蘇った」
恐怖した。絶望した。こんな自分が、正人の傍にはもう居られないと思った。
「わたしは人殺し。彼に愛される資格も、幸せになる資格もない。……もう、生きてちゃいけないと思った」
だから、手首を切った。
ハロウィンの夜、一人暮らしのマンションに戻った後、浴室で――。
左の手首が、熱を帯びて紅く光り出す。流した血の色。刻んだ傷の証。それを指先でそっと撫でて、まりあは顔を上げた。
「それで、わたし……ここに来たんだね」
そこには、白い
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