第22話 解き放たれた絶望

 声にならない叫びが迸る。掌にずぐんと鈍い感触が返ってきた。


「あ?」


 事態の把握が遅れ、幹雄が不思議そうに口を開く。それから己の脇腹に突き立つ割れたガラス瓶を目にすると、先程のまりあのような声を発した。――悲鳴とも怒号ともつかない、痛切な叫び。


「ぁああぁあぁああっ!! 痛え!! 痛え!!」


 慌てて自らガラス瓶を引き抜くが、それが悪手となった。途端に患部からどうと鮮血が溢れ出し、たちまち服を紅く染め上げていく。強烈な鉄の臭いがアルコールのそれと混ざり合い、更には染み付いた煙草の化学物質とも絡まって、せ返るような酷い悪臭が辺りに充満した。

 床に落ちたガラス瓶の尖頭が、血のコーティングでぬらぬらと妖しく煌めく。そこに放り出されたシフォンの白い毛皮が、じわじわと紅を吸い上げて彩られていった。


「血が……っ血が!! ちくしょう!!」


 おびただしいまでの出血を止めようとして、幹雄は患部を手で押さえた。しかし効果は得られず、ぼたぼたと指の隙間から命の雫が零れ落ちていく。

 落ちていく。落ちていく。止められない。

 その悪夢の光景を、まりあは茫然自失のていでただ眺めていた。

 立ち尽くす。自分が何をしたのか、してしまったのか、理解が追い付かなかった。頭の中は空っぽで、けれど本能からか掌が小刻みに震えている。


「わ、たし……わたし」

 

 目の焦点は合わない。おののく唇。凝った喉から硬い声が漏れた。

 幹雄の表情が、恐怖から憤怒に切り替わる。


「――てめえッ!!」


 飛びかかる。激情のまま、幹雄はまりあの身体をその場に押し倒した。鮮やかな紅の液体が宙を舞い、まりあの頬にぴしゃりと降り掛かる。不快な生温かさ。鉄臭。

 背中をしとどに打ち付けて息を詰まらせる彼女の細首を、幹雄の無骨な両掌が包み込んだ。

 強烈な圧迫感。骨の軋む音。どくどくと血管が収縮する音が、やたら大きく耳元に響いた。その他の音は急激に遠くなる。


(苦しい)


 息が出来ない。

 酸素を求めて、喉がひくつく。押し潰された気道からは何も取り込まれず、まりあは苦悶に喘ぐ声すらも出せない。

 首に巻き付く幹雄の手を外そうと、必死に爪を立てて抗った。けれど皮膚を引っ掻く感覚も、次第に失われていく。

 霞み始めた視界の中、見上げた幹雄の般若の形相が脳裏に焼き付いた。


(シフォン……)


 シフォンは無事だろうか? 最後に気掛かりが浮かぶも、視線を転じてそちらを確認することは叶わず、まりあの意識はそのまま闇に溶かされて消えた。



   ◆◇◆



「はっ、はぁ、はぁ……っ」


 荒い呼吸音で目が覚めた。それが自身のものだと気付くより先に、仰向けになった視界の中、覗き込む白い存在に意識が向く。焦点を合わせて、ぼやけた象を克明に結び合わせると、まりあは息を呑んだ。


「まりあ、しっかり!」


 白い毛色のチワワ、シフォンが血相を変えてこちらに呼びかけていた。

 喉の奥が、熱くなる。鼻の奥が、ツンとした。堪らなくなり、まりあは飛び起きると同時に愛犬の小さな身体を抱き寄せた。


「シフォン!」


 しっかりと重量のある温かな感触が、腕に返ってくる。指先に脈動が伝わった。


(生きてる)


 シフォンが生きている――!

 

 強い安堵が駆け抜けるも、すぐに違和感を覚えた。


「まりあ、気が付いたんだね!」


 シフォンが、人語で話している。

 視線を横にずらした。そこは、見慣れたアパートの一室。酒と煙草と血の臭いの充満した、狭いリビングだった。床には割れたガラス瓶の残骸と、零れたアルコール。それから夥しい血の痕がある。

 今しがた体験した惨劇を思い起こし、まりあの身体が震えた。


「ここは……」

「まりあチャンが黒い影と接触したら、急にこの建物が出現したんだヨォ」


 ハッとして振り返ると、背後に派手なピエロ服の男が立っていた。


「クラウン」

「まりあチャンを探しに入ってみたら、血まみれで倒れてるんだモン。一体何があったノ? 怪我は大丈夫ゥ?」

「これは……わたしの血じゃないから」


 シフォンを放し、自身の恰好を見下ろして、まりあが返答する。白いワンピースは所々血で汚れ、おまけに床の酒を吸って冷たくなっていた。――あの時のまま。けれど、まりあは悟る。


「わたし……現世に戻った訳じゃないんだね」


 シフォンが目顔で肯定を示した。


「ここは、まだ亡者の国だよ。このアパートは、まりあの心が生み出したんだと思う」


 それから躊躇うように一拍間を置いて、彼は訊ねた。


「まりあ……思い出したの?」


 何を、とは聞かなかった。それだけでシフォンの言わんとすることが分かった。まりあは重々しく頷き、そのまま俯いた。


「わたし……人を殺したんだね」


 実の父親を、この手にかけた。服と皮を突き破り、深々と肉を抉った感触が、両の掌に残っている。


「それで、自分も殺されて……ここに来たんだ」


 この世界は、天国の門を潜ることを許されなかった、罪人の流刑地。


(わたしは、罪人だ)


 シフォンが何か言いたげに口を開くも、突如突き上げるような振動が場を揺らし、発声を遮った。


「地震!?」

「っ……まりあ!」


 驚愕を表したのはクラウンとシフォンのみで、まりあは無反応で黙り込んでいる。彼女を包む生命の光が急速にかげり出し、代わりに細首に蛇の如く絡みつく掌の痕が、燃えるように赤光を帯びた。


「まりあ、駄目だ!」


 揺れが激しくなる。彼女の動揺に呼応するように、部屋が軋んで悲鳴を上げた。四方から亀裂が走り、それがあっと言う間に広がって、大きく裂けた壁面からは漆黒が覗いた。

 外の景色は窺えない。そこには何も無い。ガラガラと崩れた瓦礫は奈落の底に落ちていき、闇に呑まれて消えるのみ。

 壊れ始めたのは、建物ではなく、空間そのもの。――まりあの心だった。


「まりあ、気をしっかり持って! きみは生きてる! 死んでなんかいない!」

「だとしてもっ!」


 叫んで、まりあは一度言葉を詰まらせた。唇を震わせ、掠れた声で続ける。


「だとしても……もう、帰れないよ」


 もう、帰れない。帰る訳には、いかない。


「だって、わたし人殺しだもん」


 一際大きな揺れが襲った。まりあの足元の床がピンポイントに崩れ、大穴を開けて滑落する。


「まりあ!」「まりあチャン!」


 シフォンとクラウンの声が同時に上がり、クラウンが伸ばした手でまりあの手首を掴まえた。すんでのところで落下を免れたまりあの身体が、ぶらりと意思の無い人形のように力無く垂れ下がる。


「まりあチャン、そっちの手も!」


 クラウンがもう片方の手を差し出すも、まりあは応じない。彼女はただ、虚ろな瞳で暗闇を見下ろしていた。纏った白い光は、寿命の近い蛍光灯のように僅かな点滅を繰り返し、今にも消えてしまいそうだ。


「まりあ、違う!」


 自身も危うく落ちかけながらも、穴を覗き込みシフォンが必死に説く。


「違うんだ、まりあ! きみは、誰も殺してなんかいない!」


 途端、まりあの瞳に微かな光が宿った。ゆっくりと面を上げて、穴の上を見上げる。シフォンは真剣な表情かおをしていた。


「あの男は、死んでない。まりあの母親が丁度帰って来たんだ。まりあも、あの男もすぐに病院に運び込まれて、助かったんだ!」


 ――助かった?


「でも……」


 まりあに、そんな記憶は無い。惑う彼女を、シフォンが真っ直ぐに見つめ返した。


「思い出して、まりあ。きみはもう、知ってる筈だよ。後の記憶は、初めからきみの中にある。だけど、きみ自身が封じ込めてしまっていたんだ。……おかしいと思わないかい? きみがここに来たのは、ハロウィンの夜だ。なのに、どうしてきみはそんな薄着なんだい? あの事件が起きたのは、ハロウィンじゃない。夏だ。あれからもう、随分と時が経っているんだよ」

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