第80話
音が耳に入っているけれど、入っていない。
まわりの空氣が振動して、それが鼓膜に伝わっているはずなのに聞こえていない。
無音だけども、頭の中のイメージの音声は聞こえてる。
物語を見ていた。文字を目で追う。
文字が、音に変わり、声に変わり、生き物に変わった、建物に変わり、街に変わり、景色に変わって、人に変わって物語に変わった。
周りに人がいるはずなのに、いなかった。
人がいるのを感じるけれど、存在しない。
文字を追うという行為があるだけだ。
イメージをするということだけだ。
没入感があるだけだ。
人の感情が、生活が、交流が、本の中に存在した。
それは生きてる。
ガタンガタン、ガタンガタン。
アナウンスが耳に届く。
(もう着くな……)
すぅと、頭の中の虚構の世界から、現実の世界へと引き戻される。今まで見てたものが頭の隅の方へ追いやられて、他の存在を色濃く認識しだす。ドッと押し寄せてくる情報。人の体臭、かおる香水、他人の視線、意識、顔。
男は読んでいた本を閉じ鞄に入れた。ガヤガヤ話し声がする。席を立ち上がって、人の流れに沿って、電車を降りる。灰色の階段を上りそのまま改札を出た。駅をでて長い下りの坂道を歩いてく。男は十字路の信号の前で止まった。赤信号だ。今日はとんかつでも買って帰ろう。夕暮れ時の帰り道、自転車に跨がって停まって空を見上げてる人がいた。「なんだろう」自転車が行き、男は同じ場所で首を上に向ける。「あ、虹だ」オレンジ色に染まりきらない、蒼い夕空。そこには、夕陽で描いたような七色の虹の橋が架かっていた。男はかばんからカメラを出し一葉切り取った。「お、結構良く撮れた」そういえば一時間前まで雨が降っていたと歩きながら思い出す。あの日みたいな雨だった。いつも行くスーパーで安売りされたお惣菜の会計を済ませる。ご飯は帰ってから炊く、それが男のルーティーン。スーパーを出るともう、町の光が灯ってた。夜の帳がおりている。かすかに薄く見える星々。すれ違う対向車のヘッドライトがまぶしい。ベルの音。後ろから自転車が追い越していく。
ボロアパートの階段の手前で男はネクタイを緩めた。カン、カン、カン、と二階へ続くさびれた赤い階段をあがっていった。鍵をポケットから出して、鍵を開け、ドアを開いた。
「ただいま」
習慣として男は帰ったら、ただいまを言っている。
「お帰り」
玄関のたたきに鞄が落ちて音を響かせた。
たまに思い出してくれるだけでいいんだ 宮上 想史 @miyauesouzi
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