第28話 蒲生の筋書き


 昭和十六年三月


 海軍省庁舎の一室で、蒲生喜八郎は百武源吾の前に立っていた。

 応接椅子には先ほどまで山本五十六が掛けており、応接テーブルに置かれた灰皿には揉み消したばかりの煙草が薄い煙をたなびかせている。

 山本が退出した室内には、百武と蒲生の二人だけが残されていた。


 四年前から始まった日中戦争は、中華民国をあと一歩のところまで追い詰めながらもアメリカやイギリスの支援により何とか持ち直した蒋介石が粘りを見せ、またソ連との国境紛争もあって、今では泥仕合の様相を呈している。


 そんな中、二年前の昭和十四年九月には、アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツのポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦の火ぶたが切られていた。

 日本にとって目障りだったイギリスは、お膝元ヨーロッパでの戦乱に振り回され、アジア情勢にまで手が回らなくなってきている。

 これを好機と見た日本は、日独伊三国同盟を締結してアジアからイギリスを追い出そうと画策し始めた。


 一方のアメリカはヨーロッパの戦乱からは距離を取り、武器輸出は行いながらも積極的に参戦することは控えている。


 そんな状況の中、日本が今の大陸での苦境を脱するには、アメリカによる中国の支援を断つしかないというのが日本軍の共通認識となり始めていた。

 ドイツが暴れている今、イギリスはアジアから降りると見ていい。後はアメリカさえなんとかすれば、蒋介石は干上がる。その為に太平洋を挟んで米国と戦争し、これを撃滅する。

 それが陸軍の描いた絵であり、海軍の中にも同調する者が少なくない。


 そうした情勢の中で海軍次官であった山本五十六は連合艦隊司令長官として転出し、対米作戦の根回しを行っていた。

 今日百武を訪問したのも、その作戦について説明するためだ。


 百武は煙草を取り出し、マッチを擦って火をつけた。

 大きく煙を吸い込むと、勢いに任せて盛大に煙を吐く。その動作からは苛立ちと不機嫌さが濃厚に伝わって来た。


「ハワイを攻めるとは、正直意外でしたな」

「フン。山本らしい博打だな」


 山本五十六はギャンブルの名手としても知られている。あまりに強すぎる為、カジノ協会から出入り禁止にされたという逸話もあるほどだ。


「だが、やはりアメリカと戦争はできん。今の日本には油が無い。油が尽きれば、それで終わりだ」


 そもそも百武は、対米開戦そのものに反対している。

 海軍の中でも既に対米戦は既定路線となりつつある中、未だに避戦を主張しているのは百武一人と言ってもいい情勢だ。


 もっとも、百武の慎重さを臆病と笑うことは蒲生にも出来ない。

 事実として、アメリカから経済封鎖を受けた日本は、石油の輸入が極端に細っているのだ。今はオランダ領インドネシアから石油を輸入しているが、対米開戦となればそのオランダからの輸入も途絶える。


 石油が無ければ船も飛行機も動かせない。そして、今日本国内にある石油の備蓄は保って二年といったところだ。


 だが、蒲生の意見は少し違った。


「そうでしょうか? 少なくとも一年は戦える、とも言えます」


 百武が蒲生をギロリと睨む。だが、蒲生はひるまなかった。

 山本五十六が百武源吾に示した作戦とは、ハワイのアメリカ艦隊とマレー島のイギリス艦隊を積極的に攻撃し、痛撃を与えてから早期講和に持ちこむという案だ。


 これならば、少ない備蓄を使い潰すことなくアメリカの手を大陸から引かせることが出来るかもしれない。ここまで百武と一心同体で来た蒲生だが、山本の作戦案には一定の理解を示していた。


「それに、徳川の二の舞を演じては元も子もありません」


 蒲生の最大の懸念は、開戦強硬派が強引にアメリカと武力衝突を起こし、なし崩し的に本土決戦が始まってしまうことだ。それはいわば、徳川幕府の意向を無視して勝手に諸外国と戦い、そして敗れた薩摩藩や長州藩の愚を繰り返すことと等しい。

 そのせいで幕府が倒れて明治の世が始まったことを思えば、所詮はねっかえりの暴発と軽視することはできない。


 今強硬派が暴発すれば、幕末の内乱と同じことが起こると蒲生は懸念している。それよりは軍が一致して積極的に先制攻撃を加え、強硬派の面目も立てた上で早期講和に持ち込む方が現実的なのではないかと思えた。


 だが、百武はあくまでも懐疑的だ。


「一年で戦争が終わらなければどうする。アメリカが講和に応じねばどうする。

 太平洋を挟んで戦争をするとなれば、海軍の負けはそのまま日本の負けに繋がるのだぞ」

「その時は、素早く損切りせねばなりませんな」

「……フン。そう言えば貴様も博打が好きだったな」


 百武が呆れたように椅子に背を預ける。


 蒲生も自分の説得で百武が考えを翻すとは思っていない。だが、このままいけば対米開戦は避けられそうにない。となれば、負けた時には素早く損切りが出来る存在が必要だ。

 最後まで対米開戦に反対し、アメリカとの協調路線を主張する百武の存在は、そうした意味では頼もしかった。


 それに加え、百武源吾は次の軍令部総長に任じられる可能性が高い。


 今回の人事では、開戦強硬派の圧力で軍令部総長は永野修身の続投が決まったが、永野は病気を理由に辞職を考えているという噂は根強い。

 永野が辞任すれば、序列的に次の軍令部総長は百武の番だ。


 あるいは、それが永野の考えている筋書きかもしれない。

 自分自身が開戦の火ぶたを切り、その上で早期に辞任して百武に軍令部総長の席を譲る。『避戦強硬派』の百武ならば、万難を排してでも早期の戦争終結へと動くだろう。

 永野修身自身、大の親米家であり本来は避戦派の一人なのだ。そうした筋書きを考えていても不思議ではない。


 蒲生はその筋書きを想像し、ニヤリと笑った。

 これならば戦争に前のめりな国民も渋々ながら納得してくれるだろう。落としどころとしては悪くない。


「とりあえず、人事局へ行きます」

「秋川を呼び戻すか」

「はい。奴も軍人として、今の境遇は辛いでしょうから」


 山本の働きかけで、秋川隆は予備役招集では無く現役少佐として復帰させることになっていた。これは第二次上海事変で詰め腹を切らせたことに対する山本なりの詫びであり、蒲生の要望でもあった。


 四月になれば、蒲生は本省を離れて連合艦隊指揮下の第二艦隊に配属される。乗艦は巡洋艦『多景たけ』と決まっており、そこに復帰間もない隆を配属するよう要望していた。


 巡洋艦多景の艦長は蒲生喜八郎大佐、副長には秋川隆少佐という陣容だ。

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