第29話 大艦巨砲の象徴

 

 伊香立村の八所神社では、出征する男達を囲んで『万歳』が巻き起こっていた。千佳も子供らと共にその輪の中に加わっている。

 本当は万歳などと喜べる心境では無かったが、今や出征する兵隊さんを万歳で見送るのは日本中の慣例となっている。秋川家だけがそれを拒否するわけにはいかなかった。


 見送られる兵隊さんの真ん中で、ひと際輝く階級章を付けた隆が敬礼の姿勢を取っていた。その姿を見ると、千佳の胸は一層苦しくなった。



 真知子が泣いて帰って来た日から二か月後、隆の言った通り召集の赤紙が自宅に届いた。

 再び隆が出征することを覚悟はしていた千佳だが、いざ現実に見送るとなれば不安が心を埋める。今度は帰って来てくれるのかと心配でならない。

 だが、そんな千佳の心を置き去りにしたように周囲は万歳を繰り返している。


 ――つくづく、嫌になる


 千佳が腹を立てていたのは、誰よりも自分自身に対してだ。

 隆にはああ言ったが、現実に隆が出征するとなって、心のどこかでほっとしている自分が居る。これで子供らが虐められなくなる。そのことにある種の安堵感を覚えている。

 なによりもその事実が、たまらなく嫌だった。


 ――私は、なんて身勝手な女なのだろう


 心から隆の身を案じている。その気持ちに嘘はない。

 だが、結局は自分もある意味喜んで夫を戦争に送り出しているのだ。


 喜代のことを怒る資格など自分には無い。喜代は全てを千佳に押し付けて逃げたが、その報いは自らが受けた。千佳は全てを隆に押し付けながら、報いを受けることも無くのうのうと暮らしている。

 むしろ、喜代よりも自分の方が悪質だと思った。



 神社での見送りが終わった後、近親者のみがバスに乗り、堅田の港まで見送りに出た。

 国家総動員法によって日本国内は戦時経済へと移行し、重要な資源は軍需に回された。特に石油は貴重な資源であり、民需向けの割り当てはかなり制限されている。

 若江鉄道もそれは同様で、導入したばかりのガソリン型汽車は走れなくなり、従来の石炭型も東洋紡の工場から軍に供出される品物の運搬専用に使われている。

 その為、民間では堅田港から大津港まで船で行くのが通例となっていた。


 良く晴れた春の空の下、桟橋に降りた隆が最後の別れの為に振り返った。隆はいつもの厳めしい顔ではなく、どこか晴れやかな顔をしているように感じた。


 千佳の胸にかつての不安が蘇ってくる。隆がもう二度と帰って来ないのではないかという不安だ。

 そう思った時、千佳は人の列を飛び出し、隆の目の前まで走っていた。


 急に千佳が走り寄って来たことで隆は驚いた顔になったが、千佳はそれに構わず隆の軍服の裾を掴んだ。


「必ず……必ず、帰って来て下さい。ここへ、帰って来て下さい」


 必死に懇願する千佳に対し、隆は微笑んで手を伸ばした。暖かな手が千佳の頬を包み込み、急にストンと心が落ち着く。

 千佳は突然のことに驚いたが、頬に添えられた手に自分の手を重ねて目を閉じた。


 あの時もこんないい天気だった。

 真知子が産まれ、隆が隣に居た。千佳の人生で最も幸せだった時間。

 こんな日がずっと続くと、あの時は純粋に思っていた。何故、こんなことになってしまったのだろう……。


 追憶から戻った千佳は、ゆっくりと隆の手を離した。

 これ以上、隆を引き留めてはいけない。自分にそう言い聞かせる。


「必ず、戻ります。留守の間、子供らを頼みます」

「はい」

「千佳も風邪などひかぬように」

「……はい」


 戻って来ると約束してくれた。聞きたかった言葉を言ってくれた。

 ただそれだけで、千佳は少しだけ安心できた。


「では、行ってきます」


 見送り人に笑顔で手を振ると、隆は船に乗り込んだ。

 汽車と違って船の甲板は見晴らしがよく、沖合に姿が消えるまでずっと乗客の顔が見える。千佳は船の姿が見えなくなるまで、ずっと桟橋に佇んで見送っていた。




 呉に出仕した隆は、港湾に停泊する巨大な戦艦を目にした。海軍史上最大の艦にして、世界で唯一四十六センチ砲を搭載した超弩級戦艦。

 艦名は『大和』と名付けられた。


 隆が内地帰還命令を受けて呉に戻った時はまだ起工したばかりだった大和だが、今では細かな艤装を残すのみとなっており、出撃の命令を今か今かと待ち構えているように見える。

 その姿は長い雌伏の時を経て戦場に戻って来た自分とどこか重なるように感じた。


「秋川さん!」


 呼び止められて振り向くと、そこには軍服に身を包んだ横井俊明が居た。

 もはや少年の頃の面影は無く、頼もしい青年へと成長していた。


「横井! 横井か!」


 隆も思わず横井に近付き、両手で横井の肩を抱こうとした。だが、ふと気づいて手を離す。

 軍人ならば、まずは敬礼から始めなければならない。

 隆は横井に先んじて敬礼を送った。実態はともかく、隆は艦に乗るまでは召集された予備役士官であり、現役下士官の横井に対して指揮権や命令権などは無い。


 そのことは横井も承知しており、横井の方も隆に対して答礼を送る。


「失礼した。横井一飛曹(一等飛行兵曹)」

「恐縮です。秋川予備大尉殿」


 短い言葉を交わしてお互いに楽な姿勢に戻る。

 途端に横井は相好を崩した。


「必ず戻って来られると信じておりました」

「横井も立派になった」


 横井の軍服には善行章が二本増えて四本になっている。

 勤続年数だけでなく、大陸で軍功を挙げて特別善行章を授与されたのだろう。一飛曹は下士官の最上位であり、次に昇進すれば准士官である飛曹長(飛行兵曹長)として小隊を指揮する立場になる。

 今の横井は、ベテランの戦闘機乗りと言えた。


「いつぞやの約束がまだだったな。どうだ? 今夜あたり一杯」

「是非、と言いたいところなのですが、すみません。自分は一航戦(第一航空戦隊)に転属の辞令が来ておりまして、今から横須賀へ向かわねばなりません」

「そうか。残念だなぁ」

「呉を離れる前に一目お会いできて幸いでした。また内地に帰還した折には、是非とも」

「ああ。楽しみにしている」


 再度敬礼を交わし、隆は横井と別れた。



 呉で巡洋艦『多景』に乗艦した隆は、その場で蒲生から現役復帰と少佐昇任の辞令を受け取り、合わせて多景の副長を拝命した。

 だが、隆には一つ心配があった。


「蒲生大佐。自分を呼び戻して頂いたことは大変有難いのですが、自分が副長でよろしいのでしょうか?」

「ん? 階級を気にしておるのか?」

「ええ、まあ……」


 巡洋艦クラスとなれば艦長は大佐、副長は中佐が務めるのが通例だ。

 蒲生自身は少将昇進も視野に入るベテラン大佐であり、巡洋艦の艦長を任されることは妥当と言える。

 だが、少佐――それも新任少佐である隆が副長では、いかにも収まりが悪い。軍医少佐は隆よりも先任だし、機関大尉は階級は大尉であっても隆よりベテランだ。

 だが、蒲生はあっけらかんとしていた。


「何、貴様は兵科少佐だ。気にするな」


 軍艦には様々な科があるが、その中で海兵出身の『兵科将校』は他の科よりも一段高く扱われる。海軍兵学校を卒業して様々な航海実務を経験した隆は、この兵科将校に当たる。

 その意味では、隆が副長を務めるのは妥当と言えば妥当だ。


「そんなことより、忙しくなるぞ」


 隆は、蒲生の言葉の先を察した。


「ついにアメリカと戦うのですか」

「その通りだ。貴様の心配はわかるが、手立ては考えてある」


 しばらく現役を離れていた隆には、現在の海軍の状況を今一つ把握しきれていない。

 だが、蒲生は信頼に足る男だ。その蒲生が勝算アリと見込んでいるからには、勝つ算段が付いているのだと理解した。


「当面は、艦隊に合流して訓練の日々だ。しっかりと実戦の勘を取り戻しておけ」


 隆は再びかかとを揃え、敬礼の姿勢を取った。


「ハッ!」


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