第18話 出産

 

 年が明け、昭和八年となった。


 千佳は随分と大きくなったお腹を抱え、洗濯に精を出していた。両親はゆっくりしていた方がいいと心配したが、千佳自身がじっとしているより何かしていた方が落ち着くからと言って聞かなかった。

 つわりの時期を抜けたら、多少は体を動かした方がいいという産婆からの助言もあり、あくまでも無理のない範囲でということで千佳も家事を手伝っている。


 冷たかった川の水も近頃では少しづつ暖かさを増し、もうすぐ梅の花も終わりを迎える。梅の花の次は、桜の花が咲く季節だ。


「よし。こんなものかなぁ」


 軽く絞った洗濯物をたらいに押し込むと、千佳は土に両手をついて腰を上げた。

 転んでしまっては大変なので、慎重に立ち上がる。


「お先に」

「ご苦労さん。もうすぐやねぇ」


 近所のおかみさんがそう言って笑った。近頃はお腹の張りを感じることが多くなってきた。


「元気に生まれてくれるとうれしいんですけど」

「大丈夫よ。そんだけ動けるなら間違いなく元気に生まれるわ」


 おかみさんの言葉に少し勇気づけられる。

 なんだんだと言っても、やはり初産の怖さはあった。


 近頃はもどろきさんへもあまり行けていない。お腹に子供を抱えて山道を歩くことに不安があったというのが最大の理由だが、それに加えて隆が舞鶴に異動になったことで、帰宅できる時間が増えていることもあった。

 以前は短くても三か月に一度だったのが、今は少なくとも二か月に一度は帰って来てくれている。年末には一緒に近江神宮に出かけ、安産祈願のお守りも買ってもらった。


 大阪に行った喜代の方もだいぶ落ち着いてきているようで、今では月に一度は父宛ての手紙が届いている。

 父の言葉ではないが、隆と結婚してからの秋川家は全てが上手く回り出したように思えた。


 千佳は裏庭のニワトリ小屋の横を抜けて勝手口から家の中に入り、三和土たたきに洗濯物のたらいを置いた。

 上体を起こして腰をトントンと叩く。仕方のないこととは言え、お腹が重いと体勢が前かがみになりがちで、時々こうして腰を伸ばさなければ腰が痛くなってしまう。

 洗濯物を干すのは昼食を済ませてからにしようかと考えていると、突然お腹の張りが強くなった。


「うっ……」


 千佳は我慢できずにその場に座り込んだ。

 お腹全体をギュッと締め付けられるような痛みを感じる。今まで感じた張りの比ではなかった。


「痛たたたた」


 そのまま土間にうずくまっていると、午前中の野良仕事を終えた母が台所に入って来た。


「千佳!」


 母が慌てて千佳に駆け寄ると、肩を担いで居間の上に連れていかれた。

 ちょうどそこに父も戻って来た。


「アンタ! 産婆さん!」

「お、おお! よっしゃ!」


 父が肩にクワを担いだまま外へ駆け出す。産婆を呼びに行ったのだ。

 もう間もなくだと両親も分かっており、こうした時の行動も既に打ち合わせてあった。


 ――とうとう産まれる


 ずっとお腹の中に居た赤子と対面できるという考えは瞬時に吹っ飛び、刻々と増すお腹の痛みへの恐怖だけが募った。もしかすると、自分は痛みに耐えられずに死んでしまうかもしれない。


 千佳が居間でうずくまっていると、奥の部屋に布団を敷いた母が戻って来てくれた。再び母の肩につかまって半ば這うように布団へ行き、身を横たえる。

 お腹の張りは益々強くなっていた。



前駆陣痛ぜんくじんつうやね。まだ産道は充分開いてないわ」


 千佳の股下を確認した産婆は、そう言って手を拭った。千佳自身、さっきまで強烈に感じていたお腹の痛みは急速に消え、今はじんわりとした張り感に変わっている。


「そやけど、あと三日のうちやと思います。ここから先は、もう手洗い以外は立って歩くことは控えた方がよろしい」


 産婆にそう言われ、両親が頷く。今日から産婆も泊まり込みで見てくれるとのことだ。


 家の中が一挙に慌ただしくなった。

 両親は産婆に言われた通りに布団を折り曲げ、千佳が寝ながら背中を預けられるようにしてくれた。

 食事も簡単に食べられて精の付く物をということで、握り飯と漬物、卵焼き、串焼きにした鳥肉などを寝床に用意してくれた。


 親戚にも連絡が行き、翌日には志保叔母が駆け付けてくれた。

 もちろん、志保も泊まり込む予定だ。


 夜から翌昼にかけて、何度も不規則な痛みが襲って来た。その都度千佳は両親や叔母に励まされて耐えていたが、二日目の夜に入ると痛みの質が変わって来たことを感じた。

 今度は今までよりも痛みが強い。そして、痛みが引いたと思ったらまたすぐにぶり返してくる。


「陣痛、来たよ」


 産婆の一言で再び家中が騒然となった。

 父は風呂を沸かし、母は千佳の後ろに回って腰を抱いてくれた。


 天井から吊り下げた紐を握り、口に布を咥えて必死の形相で痛みに耐える。とにかくこの痛みが早く去ってほしいとそれだけを願った。


 騒ぎを聞きつけ、眠っていた志保も産床に駆け付けてくれた。とはいえ、この痛みだけは誰が周囲に居てもどうにもならない。


「うぎぃーー」


 千佳の口から獣のような悲鳴が上がる。天井から吊り下げられた電灯が涙で滲んだ。


 ――もう嫌ぁー!


 何度も繰り返す痛みの中で、千佳は繰り返し思った。


「がんばり! がんばりや! あともうちょっとやで!」


 産婆がそう言って千佳を励ます。産婆の応援が聞こえる度、まだ出産は終わっていないのだという絶望感が心を満たした。


 ――もう二度と、子供なんか産むもんかぁぁ!!


 それほどに出産の痛みは耐えがたかった。


「うぎっ うぎっ うぎっ」

「落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり、息をしなさい」

「すひー すひー すひー」


 産婆に教えられた通りに息を整えようとするが、とてもではないが冷静な呼吸など出来ない。

 ぼーっとする意識の中で、痛みだけが絶え間なく襲い続けて来る。

 志保に握らせてもらったお守りは、既に手の中でくしゃくしゃになっていた。


 ――このまま死ぬのかなぁ


 顔中に涙と汗を垂らしながら、心の中でそう思った。


 産婆の声がぼやけて聞こえる。痛みと自分の呼吸音で周囲の声が聞き取れない。

 だが、少しづつ痛みの質がさらに変化してきていた。圧迫されるような痛みでは無く、どこか便意を我慢しているような鋭い痛みに変わっている。

 産婆の「いきんで!」という声に合わせてお腹に力を入れると、突然スルンと何かが出てくる感覚がした。


 一拍遅れて、赤子の鳴き声が聞こえた。


 お腹の奥の痛みがだんだんとマシになり、代わりに先ほどハサミで切られた会陰に鋭い痛みが走る。だが、今の千佳には会陰の痛みに苦情を言う元気すらも無かった。

 ぐったりとした体を布団に横たえていると、やがて産婆がサラシに包まれた赤子を胸元に連れて来てくれた。


「ようがんばったな。元気な女の子さんや」


 初めて胸に抱いた我が子は、今は少し落ち着いており、指を近付けると咄嗟に握り返して来た。


「かわいい」


 千佳は初めての我が子を見てそう呟いた。

 出産は宵の口から始まったはずだが、気付けば空がうっすらと白み始めている。間もなく夜が明ける時間だ。

 ジクジクとした痛みはまだ残っていたが、千佳は疲労に耐え切れずそのまま眠りに落ちた。



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