第17話 昇進

 

 汽車の振動を腰に感じながら、隆は窓の外に広がる湖水を眺めていた。


 滋賀県湖の西岸を走る江若鉄道は、京阪神からの行楽客を呼び込むために他の鉄道会社に先駆けてガソリン燃焼による汽車を導入している。琵琶湖の景観を一つの名物とする為の経営戦略だ。

 従来の石炭型と違い、ガソリン型は排煙が少なく、窓の外の景色が良く見えた。


 水面には光が反射し、キラキラと複雑な模様を作り出している。

 いくつもの船が水面に網を投げる様子が見て取れ、その先の対岸では田んぼの稲穂が黄金色に色づき始めている。なんとも風光明媚な景色だった。


 今回の休暇の後、隆は中尉へ昇進し、合わせて舞鶴要港部付き海防鑑の分隊航海士として配属されることが決まっていた。休暇が明ければ、次は呉ではなく舞鶴へ行くことになる。


 呉では陸戦隊の小隊長として勤務していたため、航海士の仕事をするのは兵学校の卒業航海以来だ。

 年上の准士官らに笑われないよう、昔の教本をもう一度おさらいしておかねばならないなと思った。


 本堅田駅に着くと、独りでバスに乗って自宅へと向かった。いつもは千佳が迎えに来てくれるが、今回は迎えは要らないとあらかじめ手紙を送っておいた。


 ――喜んでくれるだろうか


 隆は鞄にチラリと目線を落とした。

 蒲生喜八郎は、千佳が妊娠したと聞いて牡蠣のしぐれ煮を土産に持たせてくれた。蒲生曰く、「牡蠣を食えば丈夫な子が生まれる」とのことだ。

 嘘か本当かは分からないが、蒲生の厚意が純粋に嬉しかった。


「ただいま」


 玄関を開けると、仏間に居た千佳が顔を出した。


「お帰りなさい」

「千佳さん。出迎えはいいから座っていてください」


 隆は慌てて千佳を座らせた。だが、当の千佳はあっけらかんとした物だ。


「大丈夫です。つわりもそんなにひどくないですし、座っているだけだと落ち着かなくて」


 そう言って笑う千佳の顔は、確かに血色も悪くなく、やつれた様子も見えない。こちらに妊婦だという頭があるせいか、お腹は少し大きくなった気がした。

 隆は靴を脱いで仏間に上がると、千佳を伴って居間へと移動した。自分がそちらへ行かなければ、千佳も居間でゆっくりしようとしないだろうという配慮だ。


 千佳を居間に座らせた後、夫婦の寝室へ行って軍服を脱ぎ、着流しに着替えて居間に戻る。そこへ、ちょうど野良仕事に出ていた義父と義母も帰って来た。


「おお、隆君。戻ってたんか」

「今さっき帰りました。留守中、色々とありがとうございました」


 妊娠発覚後から、義父と義母には様々に迷惑を掛けている。まずもって千佳を働かせずに休ませている分の負担は、義父と義母にかかっているはずだ。

 この時代では、女性は農村の働き手の一人でもある。三人で回している仕事で一人抜ければ、残った二人の負担が増えるのは自明のことだ。

 だが、当の義両親はほくほく顔だった。


「いやいや。なんもかまいやしません。目出度いことや。

 男の子やと有難いけんど」


 そう言って新次郎が素朴に笑う。

 新次郎は男子に恵まれず、その為に色々と苦労もあった。初孫は是非とも男の子をと願う気持ちは分からなくもない。

 だが、隆自身は子供が男でも女でもどちらでも良いと思った。母子ともに健康であってくれれば、それで充分だ。


「そう言えば、隆君も今度昇進したと聞いたで。それも目出度いことやな」

「いえ。同期も皆一緒ですし、自分だけが特別というわけでは……」

「それでも、目出度いこっちゃ。ああ、目出度い目出度い」


 ビールを飲みながら上機嫌な新次郎を見ていると、隆もそれでいいかという気になった。


 本音を言えば、大尉より上に昇進することは出来ないだろうと諦めている。

 現在海軍内部では『艦隊派』と呼ばれる軍拡強硬論者と『条約派』と呼ばれる軍縮条約遵守論者に分かれて争っているが、満州事変後の欧米からの干渉に腹を立てる国内世論は、艦隊派の強い追い風となっている。


 隆が恩人と感謝する蒲生喜八郎は百武源吾と仲が良く、百武源吾は軍縮条約を遵守しようという条約派で、それがために軍令部次長を更迭されてもいる。

 つまり、隆が蒲生について行く限り今後の出世は望めそうにない。


 だが、隆はそれでもいいと思った。

 大尉で予備役編入ならば、少ないながらも恩給がもらえる。もちろん、佐官や将官経験者に比べれば雀の涙だが、秋川家の家計の足しにはなるだろう。

 あとは新次郎の跡を継いで田畑を耕し、こうしてビールを飲む。そうした人生も決して悪い物ではない。


「喜代も大阪で落ち着く先が決まったし、隆君に婿入りしてもらってから我が家はええこと続きやな」

「お父ちゃん。あんまりはしゃぎ過ぎたら隆さんが困るよ」


 千佳が少し気まずそうな顔をした。義姉の喜代のことは、千佳からの手紙で隆も知っていた。

 千佳は手紙の中で以前帰宅した時に話さなかったことを詫びていたが、何か話しづらい事情があったのだろうと思い、隆も深くは詮索していない。

 新次郎の様子を見ると、それもうまい具合に話が進んだのだろうし、それならそれでいいと思った。


「さあ、夕食が出来ましたよ」


 義母がそう言って料理を盛った皿を運んできた。隆が土産に貰った牡蠣のしぐれ煮も小鉢に入っている。

 濃いしぐれ煮の味は酒の肴にぴったりだったが、肝心の千佳はおっかなびっくり食べている。もしかしたら口に合わなかったのかもしれない。


「ちょっと味が濃いですか?」

「いいえ、そんなことは……」


 そう言ってもう一口食べるが、やはり苦手なようだ。

 蒲生には酒の肴にぴったでしたと伝えようか、あるいは単純にありがとうございましたとだけ伝えるべきか。少しだけ迷った。




 舞鶴に着任した隆は、海防鑑『月進』に配属された。

 月進は日露戦争に従軍した船であり、既に廃艦間近の老朽艦だ。要港部に格下げされたとはいっても舞鶴の地理的重要性は変わっておらず、所属している船もそれなりの戦力を揃えてある。

 そうした中でこうした老朽艦に配属されるのは、偶然ではあるにしろ自身の置かれた状況を思わずにはいられなかった。


 艦長は蒲生喜八郎が務める予定となっている。十月に入ると、その蒲生も舞鶴に着任してきた。新任艦長への挨拶を行う為、隆も艦長室へと向かった。


「先日は妻への土産を頂き、ありがとうございました」

「おお。奥方はお元気だったか?」

「はい。おかげさまで血色も良く、健康そうにしておりました」

「土産はお口に合ったかな?」


 隆は少し返答に迷ったが、正直に答えた。


「実は、あまり口には合わなかったようで、ほとんど自分が頂きました」

「わっはっは。そうかそうか。まあ、健康ならばなによりだ」


 豪快に笑う蒲生は、何故か楽しそうに見えた。

 元々万人受けするものではないと承知していたのかもしれない。


「それにしても、ちと不味いことになったな」


 急に笑いを引っ込めた蒲生が、机の上の新聞に目を落とした。紙面には『国民の怒りの声』が様々に書き散らされている。


 満州事変のきっかけとなった柳条湖事件に対して、国際連盟からイギリスのリットン卿を委員長とした調査団が派遣されていたが、そのリットン調査団の調査報告書がこの十月に世界に公表されていた。


 リットンの報告書では、これまで不毛の大地だった満州を開発してきた日本の貢献を認め、『柳条湖事件以前の状態に戻す』という中華民国側の言い分を排除しつつも、その後に日本が満州諸都市を占領したことは『自衛権の範囲とは認められない』とし、満州事変後の満州国の独立も『自発的な物とは言えない』とした。

 そして、解決策として『中華民国の主権下で満州自治政権を新たに樹立し、新たな満州国において日本が特殊な権益を持つことを承認する』という提言を行った。


 このリットンの提言は日本にとっても『名を捨てて実を取る』というべき内容で、決して日本を一方的に非難する内容ではなかった為、連盟各国はこれによって満州事変が解決に向かうと期待した。

 だが、日本政府はこのリットン報告書に先立つ九月十五日には既に『満州国』を承認しており、『現在の満州国が国際的な承認を得る』という一点にこだわった。


 日本の世論もこの政府の姿勢を支持し、欧米各国の満州に対する干渉に怒りを露わにしている。


「怒る気持ちは分からなくもないです。満州は父や友の血と引き換えに勝ち取ったものですから」


 隆の言葉に同意を示すよかのように、蒲生が深く息を吐く。


 明治日本において最大の激戦となった日露戦争は、この時からまだほんの三十年ほど前の話だ。今の若者の中には父親が従軍経験者という者も少なくない。従軍した年寄りの中には友の屍を乗り越えて戻って来たという者も居る。

 上海事変で実戦を経験した隆にとっても、その気持ちは理解できた。


 だが、蒲生の考えは少々違っていた。


「それだけではあるまい。満州を支那に奪われれば、日本はまた不景気に逆戻りだ」


 蒲生の言葉に隆もはっとした。

 確かに、国民の中にはそうした損得勘定が働いている面もあるだろう。


「ですが、このまま支那と戦争を続ければ、アメリカやイギリスが支那の味方に回ります」

「そうだろうなぁ。果たして勝てるケンカかどうか。問題はそこだ」


 蒲生も隆も、戦争そのものは忌避していない。軍人ならば当然だ。

 だが、軍人であるからこそ、勝てないケンカはするべきでないとも考えている。戦争は、勝ってナンボだ。


 もっとも、隆にしてみればこうした『国民の怒りの声』そのものに違和感がある。

 新聞紙上の声は随分と勇ましいが、家族や村の人たちからはそのような声は聞こえない。相も変わらず『世の中の声』と『自分の身の回りの声』の違いに、戸惑いを感じざるを得なかった。

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