第13話 お姉ちゃんと私
年が明けて昭和七年も一か月半が過ぎた。昨年の夏に帰って来た隆は、半年以上が経った今も上海から戻ってきていない。手紙は何度か貰ったが、いつ帰れるとは書かれていなかった。もしかすると、隆自身にもいつ帰れるか分からないのかもしれない。
寂しくないと言えば嘘になるが、それよりも千佳は日一日と物々しさを増す世間の空気に不安を感じていた。
昨年の夏までは「なかなか景気が良くならんな」とボヤきながらビールを飲んでいた父だが、近頃では新聞を熱心に読みふけり、なにやら難しい顔で考え事をしている。
千佳の方はといえば、年末に収穫した大根やカブ、白菜などを漬物にするのに忙しく、そうした父の変化を気にしつつも日々の忙しさに追われていた。
そろそろ母と一緒に味噌の仕込みも始めなければならない。のんびり考えごとをしているヒマなど無い。
そうは思っても、『戦争』という言葉が聞こえる度に隆の身を案じて不安になってしまう。そして、その不安はとうとう現実の物になった。
ある日、千佳が川で洗い物をしていると、父の新次郎が新聞片手に川まで駆けて来た。
「千佳! 大変や!」
「お父ちゃん。随分慌てて、どうしたの?」
「ついに上海で戦争が起こったそうや!」
聞いた瞬間、千佳は父の手から新聞を奪い取っていた。
一面にはデカデカと『上海で日支遂に衝突』の文字が躍る。その文字を見た瞬間、千佳の胸はぎゅっと締め付けられた。
「隆さんは、隆さんは――」
千佳は思わず父に縋った。隆は無事なのか、それだけが千佳の心を埋めた。
「落ち着け。今のところ『秋川』という名の戦死者は出とらん。隆さんが今もまだ上海に居るかもわからん。今は落ち着いて、無事の報せを待つんや」
聞こえてはいるが、父の言葉は半分も頭に入って来なかった。
昨年の秋以降、満州で戦争が起こっていることは千佳も承知していたが、それがまさか隆の居る上海に飛び火するなんて思っていなかった。いや、考えたくなかったという方が正確かもしれない。
しかし、いくら千佳が考えることを拒否したとしても、戦争はそんなことにはお構いなしに始まってしまう。千佳もそうした現実を分かったつもりではいたが、いま改めてその事態に直面してしまうと恐怖で足がすくんでしまった。千佳にできることと言えば、ただただ隆の無事の帰還を祈るのみだ。
翌日からは、還来神社へお詣りすることが千佳の日課となった。毎日朝早くから出かけ、一心不乱に手を合わせる。神様でも仏様での何でもいい。夫を無事に帰らせてくれるのならば、どんな神様にも手を合わせるつもりでいた。
三月になると、千佳の祈りは意外な成果をもたらした。
坂本の志保叔母が秋川家を訪ねて来たのだが、叔母一人ではなく意外な人物を伴っていた。
不意に玄関に立った人影を見て、千佳は思わず目を見開いた。
「お姉ちゃん……」
「……ただいま」
叔母と一緒に居たのは、五年前に駆け落ちして家を出た姉の
秋川家の仏間には重苦しい空気が満ちていた。
座卓の一方に叔母と姉が座り、反対側には父と母が座っている。千佳は両親の後ろに控えて座っていた。
「……で? 家を出たきり五年も音沙汰無しで、今更どの面下げて帰ってきたんや」
父が厳しい声で姉をなじる。元々は父が姉に重圧を与えすぎたのがいけないのだという思いはあるが、父の怒りは千佳にも理解できた。
今更、何の用で、という気持ちは千佳の胸にもあった。
「どの面って……家を継がないといけないから、戻って来たんじゃない」
姉の口から聞きなれない東京弁を聞き、千佳は少々戸惑った。
村に居た時の姉は千佳と大差ないほど垢ぬけない女性だったが、二十一歳になった姉はすっかり大人びた女性へと変貌し、言葉遣いまで一変していた。
服装はもんぺ袴からスカートに変わり、ブラウスの上には暖かそうなモスリンのジャケットを羽織っている。
長かった髪もショートボブに整えられており、まるで銀幕の女優のような出で立ちだ。
「お前が婿を取って家を継げって言ってたのはお父さんでしょ」
姉は不機嫌な顔で言い返した。
確かにその通りではあるが、千佳が隆を婿に迎えた今、姉が出る幕はもう無いと言える。
「お前が突然居らんようになって、ワシらがどれだけ心配したと思ってる!」
父がいきなり姉を怒鳴りつけた。思わず姉がビクリと体を震わせる。
そのまま黙ってしまった姉に代わり、隣の志保叔母が口を開いた。
「兄さんがそういう性格やから、喜代は私を頼って来たんよ。
……何があったのかは、兄さんにも想像つくでしょう」
「それがどうした! 今更調子ええこと抜かしやがって。甘えるのも大概にせいと言うてるんや」
「そんなに怒鳴らないで。これじゃあ喜代が話したくても話せないわ」
叔母がそう言って姉を庇う。だが、千佳は知っていた。
父がこうして怒鳴る時は、相手を許す前兆なのだ。本当に怒っている時の父は、声を一切荒げない。
建前上は怒っているように見せているが、本心では姉が帰って来たことを喜んでいるのだ。姉もそれを分かっているからこそ、不機嫌に振舞って見せる余裕があるのだろう。
千佳は改めて姉の姿をしっかりと見た。
華やかな服装に身を包んではいるが、モスリンのジャケットにはほつれが目立ち、スカートも所々色落ちしている箇所がある。
艶やかだった髪は毛先が荒れ、見た目ほど華やかな暮らしをしているわけではなさそうに見えた。
「言い分なんざ聞かんでも分かる。大方、一緒に逃げた男に捨てられて、行く当ても無くなったからのこのこ戻って来たんやろう。
だからあれほど、ワシの見込んだ相手と一緒になれと言うたんやないか」
「……だって、息苦しかったんだもん」
「そんなもんが言い訳になると思うんか!」
姉が言い返したことで、父に再び火がついた。
だが、今度は姉も黙ってなかった。
「だって、あんな男だと思わなかった! 私の稼いだお金で遊び回って、よそにオンナ作って、それを私が問い詰めると逆上して殴るんだよ!?
あんな男だと知ってたら、一緒になんてならなかった!」
言っていることは自業自得でしかないが、姉の迫力に押されて一瞬父が黙った。
千佳にとっては信じられない世界だ。千佳の知る男は隆だけだったから、そんなひどい男が居るなど考えたことも無い。
「だから……今度はお父さんの決めた男と結婚しようと思って、帰ってきた」
「……勝手を抜かす。出戻りの娘にそんな良縁がほいほい出てくるわけないやろう」
それでも、父は姉の為に良い男を探すつもりになっているのだろう。何故かは分からないが、父の背中を見た千佳はそう直観した。父の新次郎は、本質的には娘に甘い人だ。
だが、続く姉の言葉には千佳も黙っていられなかった。
「じゃあ、千佳の代わりに私がお婿さんと夫婦になればいいじゃない。海軍の少尉さんだっけ?
年も私の方が近いし、どうせ海に出たらそうそう戻って来やしないんだから、それでいいでしょ」
「か、勝手なことを言わないでよ!」
千佳は父を押しのけて姉を睨みつけた。姉の境遇には同情する部分もあるが、今の言葉は聞き捨てならない。
千佳が前に出て来たことで、姉の機嫌が再び悪くなった。昔からそうだ。姉の喜代は、千佳が言うことを聞かないと不機嫌になる所があった。
「なによ。アンタだって村を出たいって言ってたじゃない。
今のままじゃ、一生この村で暮らすことになるよ? お婿さんと別れて自由に生きていけるなら、アンタも願ったりでしょ。
むしろ感謝してほしいくらいだわ」
「そんなこと、お姉ちゃんに頼んでない!
今更帰って来て勝手な事ばかり言わないで! もうここはお姉ちゃんの家じゃない! 隆さんと私の家だ! ここは隆さんの帰って来る場所だ!
お姉ちゃんは出て行ってよ!」
「はぁ? 初めての男でのぼせ上がってんのか知らないけど、そんなの今だけよ。アンタもそのうち私の言ってることが分かるわ。
少尉さんがここに帰って来たいって言うなら、アンタの代わりに私が待っててあげるって言ってんの。いいからアンタは黙ってなさい」
「『少尉さん』じゃない! あの人の名前は『隆さん』だ!
何も知らないくせに、何も知らないくせに……お姉ちゃんなんか、大嫌いだ!」
悔しかった。今更帰って来て無茶苦茶なことを言うことにも腹も立ったが、それよりも何よりも隆を物のように言われたことが、ただ悔しかった。
「あのねぇ。その少尉さんも優しいのは今だけだよ。しばらくすれば、どこかの港にオンナでも作ってるわよ。
男なんて、皆そんなもん――」
姉の言葉を遮って乾いた音が響いた。姉の隣に座る叔母が、喜代の頬に平手打ちをした音だ。
「いくら姉妹でも、言っていいことと悪いことがある! ちょっとアタマ冷やしなさい!」
姉は一瞬呆然としたが、すぐに立ち上がると赤くなった頬を押さえて玄関に向かった。チラリと見えた横顔は、泣きそうな顔に見えた。
父が慌てて姉の後を追おうとしたが、その父を叔母が制した。
「喜代はしばらくウチで預かるわ。兄さんも、少し落ち着いて頂戴」
オロオロする父にそう言った叔母は、次に千佳に顔を向けた。
「ごめんね。喜代も本心で言ってるんやないと思う。
……多分、悔しかったんよ」
「悔しい……?」
「多分、この家も隆さんも『本当は自分が貰うはずの物だったのに』って思ってしもたんやないかな。お父さんの言いつけを守らずに家を飛び出したこと、今になって後悔してるんやと思う。
けど、さっきのは言い過ぎ。私からも叱っておく。だから、許してあげてね」
叔母にそう言われても千佳は納得など出来なかった。
ムスッとした千佳の顔を見てため息を吐いた後、叔母は姉を追って玄関へ向かった。
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