第12話 戦争の時代


 伊香立村に戻ったのは翌日の昼になった。


 千佳が育てたスイカは残念ながら食べごろを少し過ぎてしまっていたが、隆はうまいと言っていくつも食べ、父の新次郎を呆れ返らせた。世の中は不景気だったが、隆のおかげで秋川家の収入はある程度安定している。こうしてスイカやトウモロコシなどを呑気に育てていられるのも、隆が給料を家に入れてくれているからだった。


 千佳は隆の給料を自分の家の収入不足に充てている現状を申し訳なく思ったが、当の隆はあっけらかんとした物で、「軍艦に乗っている間は、給料を使うヒマもないですから」と言って笑うだけだった。


「それにしても、満州は大変なことになりましたな」


 夕食の時、父の新次郎が出し抜けにそう言った。もっとも、事は隆にも無関係ではない。

 満州を支配下に置いていた張作霖は親日家として知られていたが、その政治姿勢は必ずしも日本に都合の良い物では無かった。そして、四年前にはその張作霖が蒋介石に敗れ、敗走中に列車ごと爆殺されるという事件が起こっていた。この事件は後に関東軍の仕業と判明し、張作霖の後を継いだ張学良は反日政策へと大きく舵を切り、父を破った蒋介石の国民政府と結び、またアメリカなどとも協力して満州鉄道の利権を日本から奪い取ろうと活動していた。


 満州鉄道は、日露戦争やシベリア出兵を通じて日本が守り育てて来た重要な権益であり、血と鉄で獲得した枢要の地と言える。その満州鉄道周辺地の開発は恐慌に喘ぐ日本の最後の希望であり、日本政府や軍にとっても、張学良やアメリカに易々と渡せる代物ではなかった。


 そして、その父祖の血と引き換えに勝ち取った権益を守り抜くことこそが軍に課された至上命題だ。陸軍と海軍という違いはあれど、身内からそうした話題を振られるのも軍人の宿命と言える。


「関東軍のお偉方はカンカンに怒っているようですね。国内から満州に移住している人も大勢居ますし、軍としても向こうの良いようにさせるわけにかいかんという所でしょう」


 ビールを飲みながら父と隆がそうした話をしているが、千佳には難しすぎてほとんど理解できない。唯一分かるのは、満州が不穏になってきているということだけだ。海軍に所属している隆の身にも何事も無ければ良いが、と思わずにはいられなかった。



 半舷上陸が終わり、呉へ戻った隆は、再び上海へと向かう途中に佐世保に寄港した。艦隊の中に佐世保の海軍工廠で修理中の船があり、その船と合流するためだ。


 佐世保に降り立った隆は、突然「佐々木!」と声を掛けられた。

 声のした方を向くと、見知った顔が隆の目に入った。


「お久しぶりです!藤井中尉!」


 隆が敬礼で応じる。声の主は、隆の三期上の先輩である藤井斉ふじいひとし中尉だった。


「聞いたぞ。貴様、その若さでさっさと所帯を持ったそうだな」

「恐れ入ります! 良縁に恵まれ、身を固めました。今は秋川と姓を改めております」

「そうか。奥方は、農家の出だと聞いたが?」

「はい。義父は滋賀で先祖伝来の農地を守っておられる、立派な方です」

「そうかそうか。貴様はてっきり豪商の御令嬢でも娶るのかと思っておったから、正直意外だな」


 藤井の言葉にも悪気は無い。隆の実家である佐々木家は京都でもそこそこ名の知れた商家であり、海軍での出世を目指さないのであれば、実業家の娘と結婚して将来は自身も実業家になるというのが分かりやすい道だ。隆と実家の事情を知らない者ならば、そう思うのも無理はない。


 顔見知りではあるが、藤井とそこまで親しくも無い隆は、挨拶だけで会話を切り上げようとした。だが、藤井は周囲を軽く見回すと、突然隆に顔を近付けて声を潜ませた。

 あたりに人影はまばらだが、どうやら人目を憚る話があるようだ。


「時に、貴様の奥方の家では、近頃どうだ?」

「どうだ……と仰いますと?」

「近頃の不況だ。百姓は思うように米が売れず、売れても安値で買い叩かれ、泣く泣く娘を身売りに出して食いつないでいると聞く。政府は金持ちばかりを優遇し、そうした庶民の苦しみを分かろうともしない。

 実に嘆かわしいとは思わんか?」


 突然の話に驚いたが、隆は務めて冷静に返した。


「確かに暮らしは楽だとは言えません。ですが、私の知る限りでは義父も義母もつつましく、穏やかに日々を過ごされております」

「貴様は、今の世を変えねばならんとは思わんのか?」


 そこまで言葉を交わしたことで、隆は藤井の言わんとすることを察した。

 軍内部では、陸軍の青年将校を中心に政府首脳を打倒して天皇親政を樹立し、大地主や財閥中心の政治から脱却するべきだという思想が広まっている。海軍内部にもその思想に共鳴する者は少なくない。

 隆の同期や先輩らがそうした考えを持ち、過激な実力行使に及ぶべく密かに同志を募っているという話も耳にしていた。おおかた、藤井もそうした国家改造主義者の一人なのだろう。


「今の不況は、何とかせねばならんとは思います。ですが、実力を行使してまでも、とは自分には思えません。政府だって無策なわけではないはずですし、何より日本国をそうした物騒な話に巻き込むことには到底同意できません」


 隆の脳裏にあるのは秋川家での日々だ。

 決して楽な生活ではないだろう。だが、千佳たちはそれにも不平を言わず、日々つつましやかに、穏やかに過ごしている。懸命に土を耕し、米やスイカ、トウモロコシなどを植え、足りない分は自分達で賄おうと努力している。

 そうした人々の穏やかな暮らしを守ることこそ、軍人たる自分の使命であろう。


 仮に革命騒ぎが起これば、そうした人々はどう思うだろうか。彼らが血生臭い事件を本心から望んでいるとは、到底思えなかった。

 だが、隆の返答に対して藤井は憎々しげに顔を歪めた。


「栄達を望まずに農家に婿入りしたというから、あるいは我らの同志になれる人物かと思ったが、とんだ腰抜けだったようだな」

「ご期待に沿えず、申し訳ありません」


 丁寧に腰を折った隆を睨みつけ、藤井は去って行った。

 長引く恐慌は世間に暗い影を落とし、ややもすれば日本国そのものが物騒な空気に包まれていくように錯覚してしまう。だが、隆の見る限り、当の庶民はそんなことは望んではいない。ただ、日々穏やかで、出来れば少しだけ余裕のある暮らしがしたいだけだ。その為に人を殺すことを果たして彼らが望むだろうかと疑問だった。


 だが、佐世保を離れて上海に着任した隆は、その地で驚くべき報せを聞いた。

 満州の中国人の間で日に日に反日思想が高まり、日本人と中国人の間で度々喧嘩沙汰などが起きているという。ピクニック中の女学生数十人が強姦されるという事件や青島の日本人居留民に対して大規模な暴行が加えられる事件も起きている。


 それらの事実は日本の民衆の怒りを誘発し、新聞を中心に『支那人の横暴許すまじ』という世論が優勢になっているという。


 確かにそれらの事件を聞いて腹を立てる気持ちは分かる。仮に千佳たちがそんな目に遭えば、隆も自分を抑えられる自信は無い。

 だが、そうやって怒る民衆と自分の知っている農村の人達の姿が隆の中で上手く重ならなかった。それらの世論は日本国内のほんの一部の世論であり、新聞などがそれらを大きく取り上げているだけではないのかという疑念が残る。


 そんな中、ついに日本全土を揺るがす事件が起きた。


 昭和六年九月十八日、奉天郊外の柳条湖付近を走る南満州鉄道の線路が何者かに爆破された。これを契機とし、関東軍は満州の直接支配を行うべく満州諸都市の占領を開始する。

 いわゆる、『満州事変』の始まりだった。

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