もどろきさん
藤瀬 慶久
第1話 あなたはわたしのお婿さん
琵琶湖西部の山間部には太古からいくつかの集落が形成されていた。古くは
建材、炭焼き、村垣など、生活の全てが山と共にあった。
山林資源と同じくらいに大切にされたのが水だ。村では山間の狭い土地を切り開き、水田を耕し、また畑を作ってきた。特に集落の中心を流れる川は貴重な水資源であり、村の人はことのほか大切にしてきた。
川と言っても子供が一足飛びに飛び越えられるほどの小さな物だが、比良山系から発したこのちっぽけな流れは、どんな日照りでも枯れることが無く、流れるにつれて少しずつ他の水流を束ねてゆき、やがて真野川となって琵琶湖へと注ぎ込む。
だが、土質のせいか市中を流れる間に汚れをため込むのか、下流の真野地区に至る頃には川の水は濁りを多く含んだ。そうした比較から言えば、伊香立は清流に恵まれた場所と言って良かった。
伊香立の人々はこの小川の水を様々に利用している。田んぼに引き込むのはもちろん、朝に顔を洗ったり汲み上げて菜園に注いだり、果ては炊事や洗濯、掃除などにも活用する。元号が昭和と改められて六年経ったこの頃では、大津の膳所や石山に水道という物を引く計画が持ち上がっているそうだが、こと水に関してはこの小川で充分だと伊香立の人々は思っていた。
今年十六歳になった千佳もそれは同様で、この日も朝からたらい一杯の汚れ物を持って川べりに座り、小川の水をたらいに汲んでは洗濯に精を出していた。五月の空には入道雲が浮かび、田植えを終えたばかりの水田にまで抜けるような青空が広がっている。千佳の頭上にも夏を思わせる陽光が降り注ぎ、額にはたちまち玉のような汗が浮かんだ。
「こんなものかなぁ」
最後の洗濯物を軽く絞ってたらいに押し込むと、千佳は腰に差した手拭いを小川につけて絞り、その手拭いを頬に押し付けた。清流の冷気が火照った頬にひんやりと心地よく、思わずため息が漏れた。
軽く汗を拭った千佳は、洗濯物の入ったたらいを担いで立ち上がった。
「お先に」
「ご苦労さん」
周囲で同じように洗濯に精を出すおかみさん達に一言断りを入れると、千佳は家に向かって歩き出した。日がもうすぐ中天にかかる時刻になり、先ほどから随分と腹も空いてきている。お昼は昨日炊いたタケノコを出そうかなどとと考えながら勝手口をくぐり、
「さて、お父ちゃんとお母ちゃんを呼びにいかな」
そう呟くと、台所を抜けて玄関に回った。
千佳の両親は山間の畑に行っているはずだ。今の時期はスイカやトウモロコシの苗を植えたばかりで、生育状況にも気を使う上にこまめに水やりもせねばならない。大層手間はかかるが、その分夏になれば甘く瑞々しい実を味わえるのが楽しみでもあった。
丸々と実った真っ赤なスイカを口に入れる瞬間を想像してニンマリとしつつ玄関の戸を開けると、突然千佳の目に大きな黒い影が飛び込んで来た。
「ひゃっ!」
千佳は思わず変な声を出してしまった。影についた二つの目がギョロリと千佳を見下ろして来る。驚く千佳を尻目に、黒い影は目の下にある口を開いて言葉を発した。
「失礼、こちらは秋川新次郎さんのお宅で間違いありませんか?」
「は……え……はい」
千佳がコクコクと頷く。最初は黒い影だと思っていた物体は、制服を着た男性だった。しかもかなり身長が高い。180cmはあるだろうか。
獣のたぐいで無かったことに千佳はほっと胸をなでおろしたが、次の瞬間には別の不安が襲って来た。
――駐在さんじゃない
千佳も近所の駐在さんは見知っていたが、目の前に居る男は駐在さんとは着ている制服が違う。都会の警察署から来た人だろうか。だとすれば、一体何の用があって父を訪ねてきたのか。もしかすると父が警察に逮捕されるような何かを仕出かしたのだろうか。
様々な不安が頭を駆け巡る。千佳は知らなかったが、男の着ている制服は警察官のものではなく帝国海軍のそれだった。襟元には『少尉』を示す階級章が付いている。腰に差した短剣は警察官が所持するサーベルとは違い、黒く短く、そして優美だった。
「あの……父に何か……?」
「ええと……自分は
「は……えと、
相手が名乗ったことで、千佳も思わず自分の名前を告げて頭を下げた。だが、『千佳』と聞いて隆は意外そうな顔をした。
「では、貴女が……」
その瞬間、隆の後ろから父の新次郎が現れた。
「おおい、千佳。誰ぞお客さんか?」
「お父ちゃん。佐々木隆さんっていう警官さんがいらして」
「ああ、いや、自分は警官ではなく……」
「佐々木? ほ? もう来なすったのか?」
佐々木隆と聞いて父には何か心当たりがありそうだったが、会話が錯綜して千佳には何が何やらさっぱりわからない。だが、次の父の一言で千佳は今度こそ飛び上がった。
「千佳。一月早いが、お前のお婿さんが来なすったぞ」
――へ?
千佳は父の言葉を理解するのに数秒の時間を要した。だが、言葉の意味が頭に染みて来るにつれてだんだんと体の動きが堅くなっていった。無意識に腰から手拭いを抜いて両手で握りしめる。婿と言うことは、自分の夫となる人ということだ。
ぎこちない動作で再び隆に顔を向けると、隆は被っていた帽子を外して脇に挟み、改めて敬礼した。
「改めまして、帝国海軍第一艦隊所属の佐々木隆です」
千佳は言葉もなく隆の敬礼を見守っていた。手に握っていた手拭いが冷たいなと場違いなことが頭に浮かんでは、消えた。
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