11――不穏な空気とイチのちょっかい


 仮入部が始まって1週間、辞めていく同学年の子達の背中を何人見送っただろうか。確かに受験で鈍った身体で厳しい基礎メニューをこなさないといけないから、かなり辛いしもう辞めてしまえって気持ちになってしまうのもわかる。


 あくまで個人的な意見なのだが、逃げるのは決して悪いことじゃない。ただ、逃げ慣れてしまうとこの後の人生もこれから何度か現れる分厚い障害を乗り越えようとせずに、まず逃げる選択を考えるのではないだろうか。


 逃げられるうちはいいのだが、逃げ道がなくなってどうしても立ち向かわなければいけない時に、そういう人達は一体どうするんだろうとおせっかいは十分に承知だけど心配になってしまう。


 辞めていく人達がいる一方で筋力も体力もつき辛い体質のオレは、ヒーヒー言いながらしごきメニューを頑張ってこなしていた。もはや多少辛い程度じゃ全然辞めたいとは思わないぐらい、重度のバスケ中毒になってるからな。


 何せ原因不明の性転換で身長も体格も弱体化されているのに、それでもまだ続けているのだから自分でもドMなのではないかと疑ってしまう。実際のところは困難だったりしんどい状況を必死で頑張って乗り越えた時の、なんとも言えない達成感が味わいたいからやってるのだが。


 残っている同級生達も、多分そんな達成感や快感を知っている人達なのだろう。


 中学でバスケをやっていた経験者が大半だが、それ以外にもバスケは未経験なのだけど他の運動部で頑張ってきた人も数人いた。ソフトボールやバドミントン、あとはバレーボールだったかな? バレーボール出身の人は背が173センチもあって、すごく羨ましい。男子でも女子でも、バスケットボールにおいて背が高いということはやっぱり有利だからね。


 女子の場合は150センチ後半から160センチ前半ぐらいの選手が高校バスケの場合は多いから、同じジャンプ力の選手が『いっせーのーで』の合図で同時にジャンプしたら、身長が高い方が相手より高く跳べる訳だし。


「河嶋ーっ、ちょっと来て!」


 オレ達1年生が走り込み中心のメニューを終えて体育館の隅でぐったりと座り込んでいると、監督が大きな声でオレを呼んで手招きしている。齋木彩花さいきあやか監督、32歳。


 高校の頃にこの学校に通っていて、大学で教員免許を取って戻ってきたらしい。この学校は私立だから、異動もそんなにないから新卒で働き始めてからずっと女子バスケ部顧問を勤めているんだとか。ちなみに副顧問は55歳のおじいちゃん先生で、バスケのことは全然門外漢なのだとこの間笑いながら言っていた。


 呼ばれたからには急いで行かなければと、オレは気合を入れて疲労でガクガクしている足で立ち上がり、監督の元に急いでこの後の指示を聞く。この間部長とサシで対決したのと、2年生の中ではエース扱いのまゆのお気に入りだと認識されているのとで、どうやら監督はオレを1年生をまとめるリーダーにしたがっているフシがある。そりゃあね、上級生にそれなりに顔を知られている方が話は通りやすいとは思うけども。


 男子の頃ならばこういうリーダー的な扱いを顧問から受けると、基本的に上下関係が身に染み付いているから周りもすんなり認めてくれるんだけど、女子はそうもいかない。


「なんでアンタがリーダー面してんの?」


 ほら出た、こういう子が普通に出てくるんだよな。ちなみにこの一週間、毎日何かしら監督やら部長やらまゆに話掛けられるのだが、その度にこの子はいちゃもんをつけにくる。


 井村穂香いむらほのか、中学では県大会の決勝まで勝ち進んだ学校のレギュラーだったらしく、変にプライドが高い。最初は文句を言われる度にごまかし笑いを浮かべながらやり過ごしてたんだけど、ここまでしつこいと段々面倒くさくなってきた。まとめ役なんて誰がやってもいいじゃん、オレも男だった頃に全国大会に出場したことがある。だけどそれを鼻にかけたり笠に着たことなんて、バスケに誓って言うが一度もない。そんなことをしたところで、実際のバスケの実力とはなんら関係ないからな。


 けれどもこの子は自分の経歴を自慢して、それよりも勝ち進められなかった子達を見下している。ひなたの経歴では公式戦で一度も出場していないし、なんならバスケ部でもない。そんな人間が自分を差し置いてまとめ役の真似事をしているのが、プライドが高い彼女には許せないのだろう。


「昨日も言ったじゃないですか、私は伝えられたことをそのままみんなに伝えているだけだって。むしろ井村さんが代わりにやってくれるなら助かるので、監督や部長に直談判してください。私に嫌味を言われても困ります」


 そう言い返すと、井村は『チッ』と舌打ちして踵を返した。そこで逃げるなら絡んでくるなよ、面倒くさい。伝書鳩代わりにされるパシリ役なんざ、喜んで代わってやるのに。


「女バスの1年はなんかギスギスしてんなぁ」


 深いため息をついていると、緑色の網で仕切られた男子部エリアからイチが現れた。そりゃあ男バスはなぁ。同学年の男子が上半身裸でフリーダムに寝転んでる姿を見ると、すごく和やかな感じに見える。


 ゆっくり歩いてきて隣に立ったイチは、らしくもなく優しくオレの髪を撫でた。その余裕ぶった様子にイラッとしたオレは、ペシッとその手を払い除けようとするがビクともしない。またそれが腹立たしい。


 さっき考えた『井村がオレを目の敵にする理由』をイチに話してみたら、苦笑して『それだけじゃないだろうがな』と小さく呟いた。どういうことなのかと視線で問うと、後ろで結んでいるオレの髪を軽く握る。


「知ってるか、女バスに小さくて可愛い新入生が入ったって男バスが大騒ぎになっているのを。ちなみに誰のことだとか、そんなボケはいらんぞ」


「……オレよりもまゆの方が全然かわいいだろうに、男バス部員は全員目が悪いのか」


「どっちも可愛いとは思うが、俺はお前の方が上だと思ってるよ。それに肌も白いし身長もバスケ部にしては低めだから、弱々しく見えるのも加点ポイントなのかもしれん」


 そう言って、イチはオレの頬をぷにっと摘んだ。そんな気を遣わなくていいのにな。そもそも男にお前の方がかわいいと思っているとか言われても、嬉しくないし素直に気持ち悪い。それがオレが元男だと知っている親友なら余計にだ。


 確かに他人より色白だとは思う。たまにオレがちゃんと髪や身体を正しく洗えているかをチェックするために、姉貴が一緒に風呂に入ってくることがあるんだが、一緒に湯船に浸かっている時とか人種が違うのかと思うぐらい色が違うからな。そのおかげで子供の頃から入退院を繰り返しているという設定に、信憑性が出た訳だが。日焼けした形跡がないからな。


「つまりあの子は、先輩や監督どころか男バス部員にも注目されているお前のことが気に食わなくて仕方がないんだろう」


「……目立ちたがり屋かよ、こっちはできる限り目立たず穏やかに生きていこうと思っているのに」


「初日に部長とあれだけ派手に勝負したくせに、目立ちたくないとか穏やかに暮らしたいとか寝言にしか聞こえないぞ」


 辛辣なイチの言葉がオレの胸に刺さったような気がして、思わず胸を押さえる。確かに勝負したけどさ、あれだって部長が強引に勝負を仕掛けてきたのであって、オレはただ巻き込まれただけだし。


 というか、こんな風にイチがオレに話しかけてくるのも敵を作る理由になるんじゃないか? ただでさえ面倒な状況なのに、更に他人の色恋沙汰になんて巻き込まれたくないぞ。そう考えたオレはススス、とイチとの間に距離を取った。と思ったら、イチのヤツは何故か開いた隙間をすぐに埋めるように近付いてくる。


 そりゃそうだよな。イチにとってはオレのことは親友というカテゴライズだろうし、中身がオレだとわかってからは女子だとも思っていないだろう。そんな相手にさりげなく距離を開けられるとか、驚くだろうし意味がわからないと不審がるだろう。


 今度イチがうちの家に遊びに来た時に、学校ではお互いにあんまり近づかないようにしようと話をしておこう。部活がない休日なら一緒に遊びに行ってもいいんだし、その時に好きなだけ話もできるからな。


「こらぁ、イチ! うちのかわいい後輩にちょっかい出すなー!!」


「チッ、うるさいのが来たな」


 まるで番犬が不審者を見つけたような勢いで、まゆが駆け寄ってきてオレとイチの間のスペースに割り込んでくる。そして背中にオレを庇うようにして、イチに相対するまゆ。


 ついこの間まで仲が良かったのに、こいつら最近ピリピリしてるんだよな。オレの知らないところで揉めることでもあったのだろうか、今度イチを問い詰めて話を聞いてみるのもいいかもしれない。まゆはオレの正体を知らないし、今後も言うつもりはないからな。イチにしか強く出られないっていうのはある。


「まゆ先輩、イチ先輩は私を励ましてくれてただけで、別に変なことはされてなかったですよ。でも、心配してくださってありがとうございます」


 まゆの背中をつつきながらそう言うと、まゆから発せられていたトゲトゲしさは鳴りを潜めたように見える。イチもため息をついて、ひらひらと手を振りながら男バスのエリアへと戻っていった。ふたりとも、中学からの付き合いなんだから仲良くやろうぜ。

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