第31話 シブヤ ~再会
翌日、カルロスから手紙が届いた。
「こいつ本当にブラジル人か?」
外国人の書いたものとは思えない達筆に感嘆しながら、錠はその手紙を読んだ。そこには、トレーニング方法が改めて記されていた。
「これをやれってのか」
錠はいったんその手紙を脇に置いた。
なぜ自分なのか、自分に何を期待しているのか?
レインボーは完璧ではなかった。また期待を裏切る可能性は十分ある。
錠は手紙に意識を置いたまま、キャップとサングラスを手に取った。そして、何かを求めて外へ出た。
一直線に向かった先は渋谷だった。駅の改札を出ると、スクランブル交差点はいつものように溢れんばかりの人の群れ。錠は強い日差しに目を細め、その先を見渡した。
前回、人波をかき分けて帰ったルートを流れに沿ってさかのぼった。
やがて、目的の場所が見えてきた。ビルに挟まれたスペースをのぞくと、ちょうどあの時と同じようにその男は汗を流していた。
錠はサングラスを外し、ビルの挟間に足を運んだ。
「うおっ?」
男は振り返り、やはり驚いたが、すぐに珍客を受け入れた。
「今日はどうした。また、たまたまか?」
「前回はマジで偶然だ」
「あ、そう」
笑みをこぼしながら向き直ったゲンに、錠は唐突に尋ねた。
「やっぱり、いたのか? 国立に」
「ああ、ブラジル戦か。もちろんさ」
錠が何を言いたいのか、探りながらゲンは話した。
「結果は残念だったけど、次につながる試合だった。俺たちサポーターにとってもね」
二人の間に大観衆のニッポンコールがわき上がった。
「また勝手にって言われるかもしれないけど」
ゲンはそう前置きした。
「代表のこれからに期待を持てたと同時に、力をもらった」
いつもどおりのリアクションで、錠は顔を背ける。
「どうせ、あいつもいたんだろ」
「ああ。カトもいたさ」
ゲンは苦笑を浮かべた。
「カトの話は前にもしたと思うけどさ」
カトはあるクラブのサポーターグループから追い出され、ゲンたちのところにたどり着いた。その話だ。
「あいつも代表を応援しはじめてから、いろんなことに前向きになって、だいぶ変わってきた。試合のあとでスタジアムの清掃に参加するようになったり、この店で働きはじめたり。カトのお袋も喜んでる」
錠は今、その言葉には敏感だ。自然と視線を揺らした。
「カトはあいつなりに居場所を見つけて、自分のできること、精一杯やってるんだと思う」
ゲンは錠の反応をうかがいながら続けた。
「俺も似たようなもんだったからわかるんだ。昔はね、自分の小さな世界で、たまたま周りにいるやつらと合わないからって、自分はだめだとか、逆に世間のやつらは皆おかしいとか決めつけてた」
錠は壁に視線を置いて、ただ聞いている。
「でも何かを探して動いてたんだろうな。いや、何とかしたくて、もがいて、さまよってた。そう言ったほうが正しいかな。あのころの俺も、カトも。そんなときに俺たちはここにたどり着いた。だからこそ、大事にしなきゃって思うんだ」
ゲンは、錠から反論が出てこないぶんを埋めるように話を続けた。
「あのブラジル相手に日本も精一杯やってくれたよな。だから俺たちも精一杯声を届けた」
少しだけゲンのテンションが上がった。
「やっぱりヒロはすごかった。これから周りと合っていけば、もっとよくなる」
「……合わないだろ。自分のことしか考えてないからな」
中羽の話になれば、やはり批判が口をついて出る。
「そうかな。そんな男じゃないと思うけど」
「お前あいつのファンか? なら、そのうち捨てられるぞ」
「それは、どっか遠くに行くってことか」
「ああ。自分だけのために、金くれるとこへな」
「確かに、俺はヒロに入れ込んでる。同時にシェフにもね」
Jリーグのシェフ市川と聞けば、錠は一文字を真っ先に思い出す。
「ヒロは言ってた。いつかイタリアに行きたいって」
ゲンはサポーターのリーダー格だけあって、顔も広い。中羽との親交もあった。
「そりゃ、近くでずっと見ていたいけど、あれだけの才能だ。しょうがないさ。だからイタリアに行って、もっと活躍してほしいって思ってる」
錠に、一文字の移籍を耳にしたときの感情がよぎる。それとは対照的に、ゲンはうれしそうに笑った。
「そう伝えたら、ヒロは言ってくれた。シェフにいる間は俺らに全力で応えるってね。選手はサポーターにそれしかできないからって」
イタリアに行くなら中羽は敵になるわけではない。一文字の件とは異なる。
一文字はあえてライバルチームに身を売ったのだ。許せるはずがない。ずっとそう思っていた。が、そんなことは今の錠にはたいした問題ではないように思えた。
言葉数の少ない錠を前に、ゲンの話は止まらなくなっていた。
「実際にヒロはいつも応えてくれる。その姿を見てると、もっと応援したくなる。それだけじゃない。俺もやらなきゃって、なんか頑張れる気がしてくるんだ」
いつもなら食ってかかるところだが、しかし錠は何かを言い出せぬまま、ゲンの話に合わせるように口を開いた。
「中羽がそんなにすごいかよ?」
錠の本当に聞きたかったのは中羽についてではない。ここに来た目的は、そうではなかった。
「それは見てのとおりだろ」
ゲンは当然のように言ったが、それを客観的に受け入れることは錠にはまだできなかった。
「結構、謙虚なやつだよ」
そう言って、ゲンは含み笑いをした。
「オマーン戦は自分のせいだって言ってた。あの借りは最終予選で返すって。そうそう、あの接触、思ったよりジョーのフィジカルが強くて計算外だったらしい」
は?
どこかくすぐられるような感覚を不覚に思った錠は、口元を結び、サングラスをかけた。
「それからさ。この間、錠に会ったあとでまた考えたんだ。なぜ代表を応援してるのか」
ゲンは晴れやかな目をして言ったが、錠はその先を待たずにキャップを深く被り直した。
「邪魔したな」
そして、そそくさと表通りに出た。
夕暮れどき、混雑のピークはこれからだ。求めたものを半分つかみ損ねた感覚を手に、錠は流れに紛れて街をさまよった。徘徊するうち、いつしか懐かしく覚えのあるあたりを歩いていた。ここしばらくは、渋谷に寄っても足を遠ざけていたエリアだ。
錠はとある喫茶店の前で足を止めた。格調高いアンティーク風でありながら、丸みのある模様がどこか愛嬌をかもしだすその扉にしばし目をとめていたが、やがて小さくつぶやいた。
「いまさら気にしてどうする」
錠は扉に近づき、ノブに手をかけた。ドアベルが軽やかに迎え入れる。すぐに店員が現れ、奥の壁際の席に通された。
錠はアイスティーを注文してからサングラスを外した。キャップは被ったままだ。左側面の壁にもたれてそっと周りを見渡すと、客の入りは八分ほどだろうか、ほとんどが誰かとペアでいる。
錠の他にパートナーがいないのは、右隣のテーブルにいるサマージャケットの若い男性ぐらいだ。大人が一人通れるくらいの通路を錠と隔て、本を読んでいる。
アイスティーがやってきた。まずはガムシロップを注ぎ、サマージャケットがどこかに向かって手を上げるのを横目に、グラスをストローでかき混ぜた。氷が軽く音を立てる。
それに被せるように、ヒールの音が近づいてきた。その響きが手前で止まり、錠はふと顔を上げた。
相手の視線が、錠を固まらせる。
「どうかした?」
ジャケットの男が、やわらかい口調で女性に問いかけた。
「ううん、なんでもない」
女性は慌てて彼の向かいの席に腰を下ろした。男は錠を見やったが、錠は反対側の壁に目を向けた。
「遅くなってごめんなさい」
「いいや、全然」
錠は斜め前、その視界の片隅に元彼女のシルエットを捕らえながら、顔の火照りを抑えられなかった。ここは元カノ玲子と二人でよく来た店だ。それを承知で入ったのだ。だが、この状況を想定するはずもない。
どんなに無関心を装おうとも、耳は二人の会話をキャッチする。それをわかってか、玲子の声も錠の聞きなれたトーンではなかった。会話の内容も当たり障りのないことばかりだ。しかし他愛のないやりとりさえも、錠の胸を今はきつく締め付ける。
やがて、ジャケットの男は時計を見た。
「そろそろ行こうか」
「うん。その前にちょっといい?」
そう言って玲子は席を立ち、背を向けて離れていった。化粧室の方向だ。
わずかなスペースを挟み、男二人は妙な緊張感を醸し出す。それを破ったのは相手のほうだった。
「君だったんだ」
そう言って男は壁を越えてきた。
「流本錠くん、だよね」
「あん?」
店に入ってから、初めて錠は彼の顔を見た。やはり見覚えのある相手だ。男は笑みを浮かべ、余裕を見せつける。錠は顔を背けた。
こいつ、東大大蔵か。
まだ錠が玲子と交際中のことだ。錠は彼女とその男が二人でいるところを見てしまった。
玲子と会う約束の日、待ち合わせの場所に珍しく早めに着いた錠は、その近くのコンビニで立ち読みをしながら時間を潰していた。そのときだった。書籍コーナーのウィンドウの前を二人が通り過ぎていった。仲良さそうに微笑み合う二人の顔をいまだに忘れることができないでいる。
そのあと、錠と玲子は時間どおりに会ったが、錠は問い詰めることもできず、ただ冷たく当たるしかなかった。玲子も錠の態度から目撃されたことに気付いたに違いない。
東大大蔵と玲子の関係は如何なるものだったのか、その時点ではっきりとしたことはわからなかった。だが、正面から向き合うことのできない錠は、その後も会うたびに冷めた態度を取ってしまった。
やがて、錠は会うたびに玲子に別の男の存在を感じるようになった。彼女は錠の贈った物ではなく、見覚えのない高級品や、それまでとは違う香水を身につけ現れるようになった。
あの日、高層ビルで食事をしたあと、ビルの谷間で次の約束をしようとしたが、玲子は錠の提案を保留した。それだけでもう、錠は懐疑を抑えることができなかった。そうなると、錠の心は裏腹な言葉を発せずにはいられない。
「どうせ、他の男のところに行くんだろ」
玲子は長い髪で顔を隠し、無言でうつむいたまま否定もしなかった。
「こないだのあいつか」
黒髪の挟間から眉間の歪みをわずかにのぞかせて、玲子は答えた。
「そうよ」
彼女は、相手は東大を出て大蔵省で働いていると告げた。錠は言葉にならない感情にのみ込まれ、しばし抗ったが、やがて息苦しさから逃げたくて沈黙を破った。
「行けよ」
その言葉に、玲子は背を向けて駆け出していった。
あのとき、本当に言いたかったこと、聞きたかった言葉はなんだったか、そんな思いが今ごろになって浮かぶ。
錠が過去に心を沈めている間も、東大大蔵は笑みを浮かべていた。
「玲子さんに彼氏がいたのはね、知ってたよ。でもそれがあのジョーだったなんて、思いもしなかった」
錠は、ほとんど氷だけのグラスをかき混ぜた。
「僕がアプローチしたんだ。最初は取りあってももらえなかった」
意外な言葉に、手の動きが止まる。
「ここ、ひょっとしてよく使ってた? いや、彼女がお気に入りって言うもんで、僕たちもね」
錠は東大のほうに顔を向け、ここまで出なかった表情を見せた。
「よくしゃべるな、エリートさんは」
相手は思わず目をそらしたが、笑みは絶やさない。
「デリカシーないって? うん、まあ、そのくらいじゃないとやってられないさ。こう見えて、プレッシャーやら何やら日々抱えてる。それでも前に行くにはいろいろ大変なんだよ。恋愛でつまずいてるわけにもいかなくてね」
そう言って、クールに鼻を鳴らした。
錠は不意にグラスに目線を戻した。その眉間に深くしわが走る。
「だから無駄な駆け引きはせず、まっすぐ伝えたんだ」
それを聞かされた瞬間、今度は敗北感に似たものが胸中をかすめた。
「仮に、相手が日本代表だったとしても、そうしたね」
錠はストローで再び氷をかき混ぜた。ぎこちない音が響く。
「このまま、眠っておいてもらいたい」
その言葉はある意味、挑戦状ともいえたが、今さら東大大蔵のエリートがミスのレッテルを張られた男に何を言っているのか、錠はグラスを見る目を泳がせた。
玲子が戻ってきた。
「行きましょうか」
玲子は座らずに男にそう言った。そして一歩前に出ると、それまでとは別のトーンの声を出した。
「あのね」
錠はキャップのつばごしに、ヒールの先がこちらに向いているのに気付いた。
「前田くんたちがね」
予期せぬ展開に、グラスに手を当てたまま耳だけを預ける。
「前田くんたちが謝りに来た。許してくれって。錠は悪くないって」
錠は思わず顔を上げた。キャップのつばで玲子の顔は視界に入らない。が、その目線の高さには見慣れたバッグが下げられていた。そしてかすかに懐かしい匂い。
「怒ってないから。じゃ」
そう言って玲子は出口に向かった。錠は玲子の立っていた空間に目をとめたまま、その香りを見送った。そこへフレームインしてきた東大大蔵は、涼しげな口調で一言残し、そしてアウトしていった。
「僕は転んでもただじゃ起きないから」
二人が出ていったあと、氷が溶けきる前に錠も店を出た。そして駅に足を向けた。
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