第30話 日本対ブラジル② 壁――

 中継も一度コマーシャルに入る。ここで、錠はようやくビールに手をつけた。一口だけ飲んでのどを潤す。

 そのとき、電話が鳴った。

 今、代表関係の人間からかかるはずはない。ということは姉か竹内らか――。

 テレビに目をとめたまま、錠はそろりと電話に出た。いつものように無言で耳元の声を待つ。

「錠?」

 その声を聞いて錠は固まった。

「あら、留守電かしら?」

「あ、いや、母さん、何?」

 母からの電話などめったにない。用件は姉を通して聞くことがほとんどだ。去年帰省して以来の会話になる。

「いやね、錠がどうしてるのかと思って」

 母の声の向こうから、こちらのテレビと同じ音声がだぶって聞こえる。

「ん、まあ普通だよ」

「そう。ならよかった。元気ならそれだけでいいのよ」

「……うん。母さんは?」

「母さんは元気よ。決まってるじゃない」

 なんだか、いつもより声が弾んで聞こえる。

「そう、よかった」

「あのね、錠。麻美がね、錠に謝らなきゃって言ってたわ。お姉ちゃん、ひどいこと言っちゃったって」

「……いまさら」

「麻美、錠に愛情足らなかったのかもって」

「やっぱそうなんだ」

「そんなわけないでしょ。泣いてたわ。錠を傷つけたって悩んでるのよ。きっと私のせいね。私が男の子をどう育てたらいいかわからなかったから。仕事のせいにしてお姉ちゃんに任せちゃって。だから苦労したぶん、言いたいこともあったんだと思う」

 錠は、母のそんな言葉を初めて聞いた。

「でも、本当は大事に決まってるじゃない。錠だってそうでしょ。子供のときからお姉ちゃんに怒られてばかりだったけど、でも嫌いじゃないんでしょ」

「っていうか、仲悪いだろ、俺たち。姉ちゃんは嫌いだったって……」

 控えめながらも、いつものリアクションが出た。

「でも本当に嫌いだったら本気で落ち込まないでしょ」

 母の声は壁の亀裂を優しくなぞった。錠はその言葉に抗うことをやめ、耳を任せる。

「昔、お姉ちゃんが東京に行っちゃう前、春休みなのに錠も毎日朝起きて一緒にご飯食べてたでしょ。いつもは寝坊助のくせに。それに上京する日だって、駅には見送りに行かないって言ってたけど、家出るとき窓からこっそり見送ってたでしょ。お姉ちゃん、あれ知ってたのよ。駅までずっと泣いてた」

 城壁のほころびから姉の思いがしみ込んできた。壁の内を伝ってこぼれ落ち、迷宮の底をうがつ。

 錠はとっさに鼻を手でつまんで息を止めた。やがて、壊れかけの壁が心中を外に漏らす。

「許して……、くれるかな」

「うん、大丈夫。姉弟なんだから。でも形にしなきゃ。ね」

 錠は声にならない声を震わせた。

「それからね」

 母は少し待ってから次の話題に入った。

「昨日、浩次さん、うちに寄ってくれてね。遠くからね」

 え? アノヒト……。

「いつもは振込なのに後期分の学費をもってきてくれて。いつもよりも多めにね。新しく始めた事業がうまくいってるんだって。元気そうだった。それと……」

 錠の母は上がりぎみのテンションをここで少し抑えた。

「記事とか見たんだろうね。錠に申しわけないって、そう言ってた」

 その瞬間、迷宮の底がひび割れた。熱いものがわき出してくる。

 ちょっとやそっとでは動じない予防線の張り方は身につけてきたはずだ。しかし、今やそのすべてが無意味と化していく。

「錠、今までごめんね」

 出そうになるものをせき止めて声が出せない。

「ほんとにごめんね」

 母はその言葉を繰り返した。

「……な、なんで母さんが謝るんだよ。わけわかんないよ」

 なんとか声を絞り出す錠。それと引き換えに、奥からわき上がる力が、もろくなった壁を内側から一枚一枚壊していった。

「ね、姉ちゃん、まだ勤務中かもしれないから、日曜にでも電話するよ」

「うん、うん、きっと大丈夫」

「それじゃ……」

 沈みゆく迷宮のなか、息継ぎをしたくて錠は受話器を置いた。そして顔を手で覆い、しばしうずくまった。

 コマーシャルあけの競技場、巨大モニタにはユキヤが映しだされていた。大観衆がどよめき、手を上げて応えるユキヤ。それを機にユキヤコールが巻き起こる。錠は乾ききらぬ眼でテレビ画面を見つめていた。

 試合は後半戦に突入。ここで友近が投入された。中羽とのコンビに期待が集まる。

 友近はあれからどうだったのか。錠はその動きを追った。友近の母親の様態は落ち着いているようだが、友近自身の調子は不安視されている。

 案の定、友近のプレーは精彩を欠いていた。

「やっぱブラジルはすごいねんな。前線にパス、全くつながらんなったで」

「いや、フォワード、特に友近の動き出しが遅いですね。あれでは中羽がなんとかパスを出しても相手の網にかかっちゃいますね」

 武堀の見解にユキヤも同調する。

「いつもはもっと息のあった素早いコンビネーションが見られるんですけどね」

 中羽が大声で指示を送る。友近は手を上げてそれに応えた。

「ただ、前線からの守備はちゃんとこなしてると思いますけどね。ボールを追ってプレッシャーをかけてる」

「でも、なんか空回りな感じやな」

「いや、あれでも効果はありますよ」

「そう。何かだめなら、せめて他の何かでってことじゃないですか」

 調子の上がらないなか、友近は自分の役割を果たそうと走り回った。

 それは友近だけではない。王国ブラジルの前に攻め手を見つけられない日本だが、選手たちは得点を与えまいとディフェンス面では奮闘した。ここまで無得点に抑えていること自体、奇跡に近かった。

 テレビは錠に代表選手たちの表情も切り取って見せた。いつも穏やかな小原は闘志をむき出しにし、南澤は何度も転がり、そして起き上がる。きっと今日だけでなく、これまでもそうだったのだろう。

 友近が映る。思えばプレー中の顔を見たことがなかった。いつも無邪気にしか見えなかった友近の顔。苦難を背負ってプレーするその姿に錠は見入った。

 司令塔中羽も走る。いけ好かない男だが、錠以上に鋭い目でピッチを見渡し、味方にパスを送る。そして相手ボールになると全力で追いかけた。

 それでもブラジルの球回しは格段に上だった。誰も彼らからボールを奪うことはできない。日本代表にボールが渡るのはブラジルのシュートの外れたときだけだ。

 これまでなんとか防いできたが、後半二十分、ついにゴールを割られてしまう。

「ああ、あかん。よう頑張ったけど、これで選手らの糸、切れてまうんちゃうか」

 スタジアムはため息に包まれ、ピッチ上の選手たちは膝をつき、しばし立ち上がれない。

「心の糸は切れてないと思いますけど、体が動かないんじゃないですか」

 武堀は実体験からそう言った。

 ここで、スタンドの一部から再びニッポンコールが巻き起こった。やがて、それに呼応するようにあちらこちらから声がわき上がり、スタジアム全体を大合唱が包み込んだ。

 カメラはスタンドをぐるっと回して見せた。超満員の大観衆、誰彼区別のつかぬほどに青一色。皆一様にピッチに声をぶつける。錠は目の前のブラウン管との間に大きな隔たりを感じた。

 代表選手は皆立ち上がり、リスタートに向かった。

 試合は日本のキックで再開。

 ボールを受けた中羽が、相手を引きつけてから右サイドに張った木田に出す。木田は数メートルほど前へ運んでから、大きく左の森波に振った。距離はあったが正確なパスが渡る。森波はうしろからオーバーラップしてきた服馬に預け、服馬から再び手を上げている木田へ。ダイナミックな連動で相手を揺さぶり、中羽へのマークがずれたところを突いて、木田は中羽へボールを送った。

 それを足元に収め、前を向いた中羽は縦に鋭いパスを入れる。スピードに乗った友近がそれを受け取り、チャンスになった。目の前のディフェンダーは一人だ。そのままの勢いでドリブルをしかける友近。ディフェンダーが激しく当たる。

 友近は吹っ飛んだ。

 友近!

 錠は思わず身を乗り出した。

 ブラウン管の中、痛みにうめく友近。だが反則を得た。それもペナルティエリアの中、PKだ。日本のサイドチェンジに大きく揺さぶられ、慌てたブラジルのディフェンダーは友近のキレのあるドリブルに対して力が入ってしまった。

 友近は立てない。

 ここで、すでに準備に入っていた一文字が代わって登場、担ぎ出される友近と入れ代わり、ピッチに入った。

「一文字の登場ですね、武堀さん」

「本当ならもっと早く見たかったんですけどね」

「相当足の具合がよくないと聞いています」

「僕はこんなところにいて、テツさんには申しわけない思いでいっぱいです」

 ユキヤも戦友への思いを口にした。

「一文字もユキヤのこと、待ってるやろな」

「テツさんは、ユキヤくんやいろんな人の思いを抱えて代表に臨んでると思います」

 武堀は競技場の夜空を見渡しながら言った。

「南澤が言うてたわ。ドーハからの生き残り組は、あんときの他のメンバーの思いも背負ってるいうて」

「ありがたいですね。僕らも残った彼らのためになんでもするつもりです」

「タケさんには本当に世話になってますよ。リハビリとか、代表のこととか、いろんな情報を入れ


てくれるんです。テツさんや南澤にもそうみたいですよ」

 ユキヤは普段の呼び方で武堀との友好を表した。

「皆さん、いろいろな事情を抱えて、いろいろな場所で戦ってらっしゃるんですね」

「特にテツさんはお母さんのこともありますから」

 武堀はそれ以上は言わなかったが、その件はカルロスも口にしていた。錠にとって、自分が知る以上に一文字が大きなものを背負っていることを悟るには十分だった。

 ピッチはペナルティキックの緊張感に包まれていた。決まれば同点だ。

 友近の、皆の思いを背に、一文字がキッカーとして立つ。その鼓動は遠く離れた錠にも伝わってきた。

 ゴールを見据え、助走に入る一文字。固唾をのむ大観衆。一瞬ののち、強烈なシュートがゴールネットを捕らえた。

 沸き上がる国立。ユキヤも興奮の声を電波に乗せた。

 錠はピッチにできた歓喜の輪をまっすぐに見つめていた。そのときの思いは、まぎれもなく錠をブラウン管の向こうに立たせていた。

 だが試合はその後、目を覚ましたブラジルの猛攻にあい、結果は一対五。ワールドカップ優勝国の力をまざまざと見せつけられた。

「ユキヤさん、どうでしたか」

「いや、悔しいですけど、いい経験になったと思います。本気でぶつかったから、ブラジルの本気を見られた。それに対して、さらに本気で向かっていった。どうせ勝てないと思ってたら、何も得られない。全力でぶつかってはじめて経験になるんです」

 競技場では、ニッポンコールが鳴り止まなかった。

 錠はテレビを切った。仰向けになり、壁のカレンダーに目をとめた。上の一枚を乱暴に破いた残りが目立つ。その下にボンバ選手の一団。過ぎた年のものだが鮮やかなままだ。整列する選手たちのなかに、あのいかつい顔が混じっていることに今さら気付く。

 錠は天井を見上げた。

 電話の向こうで大事な人が喜んでいた。

 己を取り囲んでいた壁、その全てが押し流され、その跡に残ったもの。

 目の前が再び潤いに満ち、錠は何もはばからずにそれを抱きしめた。

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