第20話 岡屋 その男快足につき!!

 梅雨に入ってまもなく、六月下旬に行われるワールドカップ一次予選・日本ラウンドの代表選手が発表された。

 メンバーはオマーンラウンドと全く同じだった。キャプテン小原に一文字、南澤、高村らドーハ組のベテランと、森波ら中堅、さらに枡田、中羽、友近、岡屋ら若手に、切り札の錠を加えた布陣で臨む。ユキヤはまだ戻ってこない。

 当面のライバル、オマーンとは三戦目で戦う。これが一次予選の最終戦となる。

 アウェイでの直接対決で勝利している日本は一勝ぶん、勝ち点で言えば三点リードしているが、日本ラウンドで敗れれば追いつかれてしまう。勝ち点で並んだ場合、得失点差での順位決定になるため、直接当たるまでの二試合でどれだけ得失点差を稼げるかが重要になる。

 Jリーグも中断され、代表は初戦の五日前に招集となった。

 今回の錠の同室は岡屋だった。岡屋はいつにも増して意気込んでいた。部屋に入るなり、錠を前に息巻いた。

「今回こそは出番つかむぜ。でないとワールドカップはもちろん最終予選さえ危ねえ」

 逆に錠は大事な戦いだけに自分の出番はあるだろう、なけりゃ次まで温存だ、そう気楽に考えていた。

「でもさ、俺、一回もピッチに立ったことないんだよな。毎回召集されてんのに何で使ってくれねーんだ。トモばっか出てよ」

 岡屋はベッドに寝転んで、ぼやきはじめた。錠はただ聞き流す。

「あれかな? 俺さあ、ヘディング嫌いなんだよ、ヘア乱れるから。だからかなあ」

 乱れるのが嫌なら走るのもダメだろ、錠はそう思った。

「お、それよりあの記事見た?」

 岡屋が、錠の部屋に泊まったときの件を持ち出した。錠は黙って顔をしかめた。

「浦賀の界隈じゃ大騒ぎだったぜ」

 岡屋は浦賀ヘッドイヤダモンズに所属している。

「ヘッズのみんなも女に見えるって、大評判だったわ」

「てめえ、恥かかせんじゃねえよ」

 錠は岡屋の大げさな言いっぷりについ口を尖らせた。

「俺って、そんなにセクシー?」

「ちっ、暗かったからだろ」

「光ってのは暗闇でこそ輝くもんなんだよ」

 錠はやつのペースに巻き込まれまいと、ボストンバッグを開けて荷物の整理を始めた。

「それよりも錠、彼女は大丈夫だったか?」

 錠の手が思わず止まる。

「いや、本物の彼女に誤解されなかったかって思ってさ」

 錠は無言で再び整理を始めた。

「お、マジかよ。そうなの?」

 岡屋は自分のペースでしゃべり続けた。

「いや、大丈夫だって。ちゃんと話せばさ。俺のセクシーさにあきらめちゃったのかなあ? なんなら俺、会いに行こうか」

 錠はいいかげん黙っていられなくなった。今度こそ無視をつらぬくつもりだったが、やはり無理だった。

「ち、ちがうわ。マジでうるさいな。だいたいお前、そんな暇ないだろ。試合に出たいんじゃないのかよ」

「おう、そうだった。今抜け出すわけにはいかねーもんな。一流のフットボーラーへの道中だったぜ」

 また一流って……。

 そのフレーズに、錠はまたも過敏に反応した。

「しかし、そんなに試合に出たいかね」

「あれ、錠は出たくねーの?」

 錠はまた手を止めた。

「そんなはずねーか。それなら代表に来ねーもんな」

 錠は館内用のジャージを広げ、着替えを始めた。

「だからさあ、俺の気持ちわかるだろ。錠もちょろっと出るだけじゃなくて、スタメンに選ばれたらうれしいだろ」

「はあ? なんで?」

 錠は、袖を通しながら岡屋を見た。

「え、なんでってか。そんなん恋愛と同じじゃん」

「あ?」

「好きになるのに理由いる?」

 岡屋の話の展開についていけず、錠は黙って着てきた服をハンガーに掛けた。

「そんでさ、好きって言われたら単純にうれしいだろ。そこに理由なんてよ」

 錠は岡屋らしい理屈に、錠らしい反応を返した。

「てめえは単純でいいわ」

 そうつぶやきながら、MDウォークマンを取り出した。

「だから、単純なことだって言ってんだろうよ」

 岡屋の言葉を聞き流し、錠はイヤホンをつけて寝転んだ。そして、ボリュームを上げながら背を向けた。

 スタメンで出たら疲れるだろ、俺は効率的に点取ってんだ。


 翌日、代表は国立競技場で練習を行った。

「錠、今日はボール使うから準備な」

「ちょっと待ってくれ」

 カルロスから聞きたくないことを聞かされ、錠はいつもどおり口を尖らせた。だが、カルロスは引き下がらない。

「今日の練習は非公開だ。今やらなくていつやるんだ」

 チャレンジカップでの論争から、カルロスは錠に対してあえて厳しく接するよう努めはじめた。

 カルロスは錠だけに付いているわけではない。専属トレーナーではないのだ。限られた時間のなかで錠を鍛えねばならなかった。もう無駄は許されない状況だ。

 カルロスの口調に押されながらも、錠はまだごねた。

「じゃあ、まず体慣らしてからにしてくれよ。いきなりは不安だよ」

 カルロスはひげをひくつかせたが、一瞬の思案のあと、

「それじゃ測りたいこともあるから、そのあとにするか」

 しぶしぶ錠に歩みよった。

 軽めのフィジカルトレーニングに続いて、錠はメインスタンド前の直線コースで五十メートルダッシュをさせられた。これも乗り気ではなかったが、まじめにやらないとすぐにボールを蹴らされる気がして全力で走った。

 真剣な顔の錠が、ストップウォッチを握るカルロスの前を駆け抜ける。

「お、六秒二」

 カルロスは意外に速い錠のタイムに、思わず声を弾ませた。

「錠、やるじゃないか。こないだ高校時代は六秒六って言ってたよな」

「え、今の何秒って?」

「六秒二だよ。成果出てるんだなあ」

「マジか?」

 自分でも意外だったが、うれしくないはずはない。加えて、しめしめとも思った。

「もっとやりゃあ、もっと出るぜ」

「そうだな。じゃ、もう一回」

 錠はスタートラインまでのんびり歩いた。

「全力はきついけど、ボール使うのに比べたらこればっかでもいいや」

 二度めの五十メートル走はこれまた好タイム。

「おお、今度は六秒一」

「うわ。すげえ、俺」

「な、やったらそれだけのことはあるんだよ、錠」

 錠はカルロスの話の展開をうざく感じたが、ここは乗っておいた。

「だろ、もっとやらなきゃ」

 しかし、そううまくはいかない。

「いやもうわかった。五十メートル走れてもボール蹴れなきゃ意味がない」

「はあ?」

 ちょうどそのとき、ピッチ上で長い笛が鳴った。ここで全体練習は一時中断となった。

「あ、もう休憩か。錠、次な」

 カルロスはボールを指差し、そして用具の山にストップウォッチを置いて監督のほうに向かった。その背を見ながら、錠はこの間にどう逃れるか思案しはじめた。

 そこへ岡屋が現れた。

「錠、お前五十メートル測ってたろ、何秒よ」

「おう、六秒一だ」

「ロクイチ? ふーん、まあまあだな」

 岡屋はさらりと言った。そりゃ足だけが売りの岡屋にかなうとは思ってはいなかったが、

「俺、六秒台なんかねーよ。普通に五秒台」

 その上から目線の発言に、憮然とした。

 岡屋は相変わらず人の顔を見ないで話し続ける。

「ま、ロクイチでも枡田やトモと同じくらいなら、まあまあって言っとかなきゃな」

 それを聞いて錠はやや消沈した。枡田や友近は日本を代表するアスリートだ。それもゴール前でのスピードには定評がある。普通、彼らと同じレベルで満足しない者はそうはいない。それでも今の錠には不満だった。

「お前、ほんとに六秒台とかないんだろうな」

「お、見せてやるよ。勝負するか」

「いや、俺は走ったばかりだからよ」

「ふん。おーいトモ、測ってくれ」

 岡屋は鼻で笑ったあと、別に置いてあったシューズに履き替えた。

 スタートラインに向かう岡屋を見ながら、錠は直線コースの真ん中あたりの脇に腰を下ろした。

「お手、いや足並み拝見だな」

 他の選手たちも、ピッチの脇から様子をうかがいはじめた。

 岡屋はしゃがんで、トラックに手を着いた。

「まあサッカー選手なんだから、スタートはスタンディングでいくべきだろうけど、錠に見せつけてやらねーといけねーからな」

 そして錠同様、クラウチングスタートの構えで位置についた。

「見てろ錠め、ぎゃふんと言わせ――、って、またぎゃふんって。ひひっ、ひひひ、わはっ」

 前屈みの姿勢で岡屋はひとりにやけた。

「うわ、気色わるっ」

 周囲の反応は関係ない。

「ひひっ、あの錠がぎゃふんって、ひひ、わはっ……、あ? いや錠だろ。や、あいつは似合いだわ」

 自己完結し、岡屋の表情が引き締まった。

「あ、準備いいですか、いきますよー」

 ゴール前から友近が確認を入れる。

 合図とともに勢いよく駆け出す岡屋。と同時に乱れ狂う長髪。まさに野獣のようだ。かと思うと、あっという間に錠の前に獣は迫ってきた。足を高く上げ、腕を大きく振って駆け抜けていった。


髪の乱れ同様ダイナミックではあるが、それでいて美しいフォームだ。

 直後、ストップウォッチを握る友近が、大きな声でタイムを告げる。

「五秒六!」

「おおっ」

 周囲からも驚きの声が上がった。

 岡屋はゴールの先で振り返った。乱れた息と髪を整えながら、誰にというわけでもなく言葉を吐いた。

「な、こんなもんなんだよ」

 一応、錠の耳には届く距離だ。

「でもついに出たな、六。あ、六ってコンマ六の六な。六秒じゃーないぜ」

 相変わらずどこを見ているのか定かではないが、岡屋はそう言っていたずらな笑みを浮かべた。

「やっぱ成果あったんだよ。立ち上がりから違うわ。続けりゃ、俺もっと速くなるぜ」

 息は荒くてもよくしゃべる。その声を聞いて、錠は先日の岡屋とオリンピック選手のトレーニングの件を思い出した。

 岡屋は得意げな顔で、ピッチの脇で休息を取る選手たちの周りをクールダウンのために歩き回った。中堅たちが声をかける。

「お前、日本記録超えたんじゃないか?」

「でもボールにからまなきゃ意味ないぞ」

「お前はボール追い越すからな」

 岡屋は腰に手を当て、なぜか高笑いをした。

「うわっはっはっはっ」

「あほだ」

 錠は、あんなのに負けても気にならない、別にいいやと思った。カルロスや皆の言うとおり、足が速いだけじゃ役に立たない、そもそも走ることなど自分にはない、そう思った。

「錠、そろそろ」

 休憩も終わり、カルロスが戻ってきた。

「カルロス、まずいよ。突然全力で走ったから足張っちまったよ」

「錠、いいかげんにしろよ。錠のために非公開のときに設けてるんだよ」

「ほんとなんだよ。あれだけのタイムで走ったんだよ、無理もないだろ」

 カルロスは立場上、違和感を訴えるアスリートに無理はさせられない。

「やれやれ、今回は応急処置をするから、次は覚悟な」

 そもそもこのカテゴリーの、いや、いい年の男がこんなことで仮病など聞いたことがない。カルロスは呆れ顔で嘆いた。

 そのあと、錠はピッチの外で他の選手たちの練習を見学した。この日の仕上げは、例によってゲーム形式での戦術確認だ。

 レギュラー組の司令塔は枡田、サブ組は中羽が務めた。サブ組のフォワードは友近と岡屋のツートップだ。友近が左、右には岡屋が入った。

 枡田は左サイドとの連携でボールを高い位置まで運び、ゴール前では相変わらずドリブルで強行に仕掛ける。一方、中羽は相手サイドの真ん中に陣取り、フォワードを操った。チャレンジカップ同様、友近との連携は抜群で、友近は無駄な動きが少なくてすむぶん、枡田以上にキレのあるドリブルで再三ゴールに迫った。

 岡屋もチャンスを狙ってはいたが、中羽が友近ばかりを使うことから、なかなかボールはまわってこない。

「ちくしょう」

 岡屋はしびれを切らし、自ら下がってディフェンダーからボールを受けた。そしてドリブルを始めるも、対面にいた左サイドバックの服馬にあっさり奪われた。

「ああ、あいつバカじゃん。身のほど知らずめ」

 錠はあざけり笑った。岡屋がやけになって叫ぶ。

「ヒロ、俺にもよこせよ!」

 中羽は聞いているのかいないのか、反応を示さない。が、次にボールを持ったそのときだった。センターライン付近でパスを受けると、すぐに右サイド前方のスペースに大きく蹴り出した。

「へん、誰もいねえよ。相変わらず」

 錠がそう思った矢先のことだ。岡屋が猛然と目の前を走り抜けていった。裏を取られた服馬が慌てて追走するも、追いつくはずもない。

「いくら野獣でもあのボールは無理だろ」

 だが、岡屋はコーナーフラッグ手前でボールを捕まえた。そして、体をひねってマイナス気味にセンタリングを上げた。

 が、ゴール前の友近には渡らず、長身のセンターバック小原にヘディングではじき返された。

 宙を仰ぐ岡屋。

 そのあと、岡屋はしばしその場から動かなかった。自分の駆けた右サイド、ボールを受けたあたりを見回し、そして中羽のほうを見つめた。

「野獣め、なに突っ立ってんだ?」

 その後、またも引き気味の中羽が、前めの位置にいた相手センターバックの裏にスルーパス。強めのパスにも反応した岡屋は、ディフェンダーの背後に抜け出してフリーでそれを受ける。キーパーと一対一、岡屋は右足を振り抜いた。だが、今度はキーパーにはじき出された。

 ここで笛が鳴り、ゲームはそこまでとなった。

 この日の練習メニューはすべて終了。ピッチから引きあげる岡屋は、いつになく思いつめた顔をしていた。錠は半笑いで寄っていき、言葉をかけた。

「おい、そんなにショックか」

 岡屋は前を見たまま、独り言のように口を開いた。

「あいつ、やっぱすげーよ」

「あん?」

「いつも、もっとはやくってうるせーから、今度は早めに動いてやろうと思ってよ、あいつが前向くより先に走り出したんだ。あいつが遅かったら遅いって言ってやろうって思ってた」

 岡屋はいつものふてぶてしさともひょうひょうとも違う、ストレートな口調で話した。

「そしたらヒロ、俺が走り出したと同時に出しやがった。それも俺のほう見てなかったのによ。どんぴしゃだぜ。俺の全力でちょうど追いつくとこへよ。もっとはやく、ってそういう意味だったんだな」

「ん?」

「だから動き出しのことだよ。動き出しの早さ」

 そう言って岡屋は空を見上げた。

「わはっ、あいつそれ言えっての。不器用者かっての」

 そのときの岡屋の表情が、錠は気に入らなかった。

「でも点になんねえじゃねえかよ。意味ねえよ」

 いつしか真顔になっていたのは錠のほうだった。

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