第10話 スター、日常、元カノ

 桜も見ごろを迎え、錠も大学四年生になった。

 履修科目の登録のため、錠は久々にキャンパスに入った。すれ違うたび、学生たちが振り返る。

錠からすると、そのあたりはもう近所で慣れていた。

 そんななか、最初に声をかけてきたのは前田だった。

「おう錠、一人でよく歩けたな」

「大袈裟だっつうの」

「変装用のグラサンやキャップは学校には被ってこないんだ?」

「逆に不自然だろ。カバンには入れてるけどな」

 そのうち当たり前のように竹内、大木とも顔を合わせた。

「それにしても錠、すごい科目の数だな。四年とは思えないな」

 四年次に履修しなければならない科目は、前田は三つ、他の二人は卒業に必要な単位はすでに取得ずみで、今年受ける授業は任意で取った二科目だけだ。

「大丈夫か、錠。お前の取る講義、俺たちほとんどいないぞ。試験とかレポートは前田のネットワークで情報集めてもらえよ」

 竹内が他人事ではない感じで心を配る。

「おお、まかせとけ」

 前田は、ここぞとばかりに乗ってきた。

 これまでも三人の集めた情報は利用させてもらっている。むしろ、それ抜きでは錠の学生生活は成り立たなかった。今回も当然のように当てにしてはいるが、今はその話は面倒に感じ、必要なときに頼めばいいと思った。

「聞いてんのか、錠」

「ああ。まあそんなに慌てんなよ」

 錠は竹内の言葉に、心配性だなとばかりに小さく笑った。

「お前、自分がどういう状況かわかってるのか」

 大木が冷静に言葉を挟む。

「そうだよ、就職活動中の学生でさ、こんなに単位残してるってやばいぞ」

 錠は『就職』の響きに陳腐さを覚えながら言葉を返した。

「結果的には取る単位数はおんなじだろ。卒業までにはさ」

「んん? まあ……なあ」

 竹内は苦笑し、大木は無言で目を伏せた。

「何言ってんだ、錠。俺でさえ単位落とすことあるのに、お前なんてまた落とすに決まってるわい」

 前田は黙っていられない。大声で錠にツッコミを入れ、そしてそのあとで横を指差した。

「でもまあ、こっちの二人はさすがだけどな」

 竹内、大木は単位を落としたことがない。

「でも俺と大木じゃ、内容が違いすぎるよ」

 竹内が謙遜するでもなく言った。大木は取得した単位すべてが最高評価だ。

 大木が時計を見た。

「悪い、そろそろ行かないと」

「そうか、用事あったんだっけな」

 大木は持ち上げられても表情一つ変えずに、その場を離れていった。

 三人になっても前田のテンションは変わらなかった。

「まあ、大木はうちの学部じゃダントツで首席だろうからな。錠は爪の垢でももらって帰れ」

 前田が、うろ覚えのことわざを持ち出した。竹内がそれに乗っかる。

「それを言うなら、煎じて飲めだろう。錠はもらって帰ったってしょうがないさ。飲む以前に煎じもしないだろ」

「そうなの? 煎じるぐらいはしろよ。せめてさ」

「いやいや、煎じたらさすがの錠も飲むだろ」

 前田のボケに竹内は必ず応じた。かたや、錠はたいがい鼻で笑っている。

「ふん。まあ、あいつぐらいやりゃあ誰だってできるよ。どうせまた帰って勉強するんだろ」

「やるのが大変なんだよ」

「そうそう、まずは煎じるのが大変なんだって」

 二人の掛けあいに錠はついていかなかった。竹内らもそのうち錠そっちのけで話しはじめた。

「大木、何の用だって?」

「なんか下宿先の関係らしい」

 大木は入学当初、群馬の実家から通学していたが、一年生の冬からは都内の親戚の家に下宿している。

「初めは通学に三時間かかってるって聞いて驚いたけど、やっぱ勉強の時間を確保したいから下宿にしたんだろうな」

「いや、あいつ胸よくないだろ。だからじゃない?」

 大木は幼いころから気管支を患っていた。今は落ち着いているようだが、注意は必要らしい。竹内や錠は普段から煙草は吸わないが、喫煙者の前田も大木の前では気を使っている。

「そうか。長時間の電車とか、やっぱよくないもんな」

 ここで、錠が割り込んだ。

「いや、それよりも勉強だろ。あいつは」

 そうに決まってる。錠はさらに心の中で言い切った。

 うちの学校の成績など何の役に立つ、錠はそう思っていた。そもそも、そんなに優秀ならもっといい大学に入れているはずだ、そうも思った。

 その夜、彼らはいつもの居酒屋に入った。席に着くとすぐに前田がメニューをテーブルに広げた。

「あ、そうか。消費税五パーセントの表示になってる」

「なんか、へこむな」

「でも税込みの表示でよかったよ。今日は大木いないからな」

「しかし、三パーセントよりも計算楽なんじゃないか」

「いつか十パーとかになるのかな。そうすりゃもっと楽そう。八パーとかだったら面倒だけど」

「いや、でも金額でいったら二パーの差って、言うよりでかいぞ」

 ここで、錠がのんきな声で口を挟んだ。

「っていうか、増税って今月からだっけ」

 日本代表からの何気ない問いに、前田は手で顔を覆った。

「あああ、国民的スターが何言ってんだ。民を失望させるなよ」

「へん。五だの十だのって、ちっちゃいこと言ってんじゃないよ」

「さすがスターは違うな。器でかいよな。ゴール決定率百パーセントだもんな。そりゃちっちゃいわ」

「はあん? 相変わらずわけのわかんねえ」

 前田の話術に、錠はしばしばついていけなかった。

「しかしジョーフィーバー、もう社会現象だぞ」

 竹内の言葉に、錠は黙って鼻を鳴らした。

 ずっと敵だと思っていた世間の反応に、帰国直後こそ戸惑いを感じたが、その熱狂ぶりを実感するうち、やがて世間は俺になびいたのだ、そう思うようになった。

「でもあれだな。竹内のおかげだよな」

 前田が、話を膨らませにかかる。

「ん?」

「竹内に誘われなかったら監督の目にとまってなかったんだろ」

 前田の言葉に錠は何かしら反論したくなったが、他でサッカーボールを蹴ることなどないわけだから確かにそうだ。

「まあ、レポートの見返りに何かするって約束してたからな」

「でも錠、前半は遅刻だからな。また今度、残りの半分を出てもらおうか」

 あの日、夜型の錠は案の定寝坊をしてしまった。マンションから慌てて歩道に出たところで、幼い子供にぶつかった。泣き止まない子供に手を焼き、そのため試合の前半に間に合わなかった。

「しょうがないだろ。近所のガキのせいなんだよ」

 錠はいつもの口ぶりで自己を正当化した。

 店に入ってから結構な時間が過ぎ、おのおの酒がまわってきた。

「ところで、竹内はレインボーのこと知ってて錠を誘ったのか?」

「ああ、一年のとき入ってた今とは別のサークルで、一回だけ見たことあった。あれも冬だったかな」

「そういやあ一時期、お前ら二人で出かけてたな。竹内、錠のことあんまりうまくないって言ってたよな」

「俺そんなこと言ったか?」

 錠は黙って眉をひそめる。

 入学してからしばらく、竹内は時間をもてあます錠を気にかけていた。そのうち錠がサッカー経験者だと知り、それならとサークルに引き入れた。錠は竹内の誘いをすぐには受け入れなかったが、はっきりと断ることもせず、気付けばいつの間にか入会していた。思えば、ちょうど玲子と付き合いはじめのころだった。

 しかしサークルと言っても本格的で、錠のレベルでは練習についていくのは困難だった。慣れればそのうち追いつけると思ったが、何回か出ただけでは差は埋まらなかった。ボールに触れるたびにあざ笑われ、惨めな思いをするだけだった。

 しかし、やめようと思っていた矢先、これまた人数合わせで試合に出るチャンスがまわってくる。

 フォワードとして出場した錠は、いつものようにボールを受けるたびにミスして失い、チームメイトにも呆れられるばかりだった。当時のキャプテンはあからさまにいらついていた。

 だが、相手のファウルで無様に倒された直後だった。錠は屈辱に満ちた顔で起き上がると、味方をも出し抜き、あのフリーキックを敵のゴールに叩き込んだ。とっさの行動だった。

「いやあ、あのキックは……、錠はすごかったよ。みんな驚いてた」

「でもキャプテンはさ、なんか感じ悪かったけどな。それからずっと」

「うーん。きっと錠のこと、手に負えないモンスターに見えたんだろうな」

 キャプテンに冷遇され、そこに錠の居場所はなくなった。

「きっと後悔してんだろな、あの人も」

 ここで酔っ払いがまたあの話に触れた。

「いやあ、玲子ちゃんも後悔してんじゃないかなあ」

 前田節の直撃に、錠は動きを止めた。が、すぐに口元を緩めて見せた。

「へっ、関係ねえよ」

 それでも前田節は止まらない。

「東大大蔵省と代表のスターって、どっちがすごいかな」

「まあそりゃあ、代表のほうがかっこいいよな」

 竹内がフォローか本音かわからぬ調子で応じる。

「俺の周りでさ、東大入ったやつは中学の同級生にいたけど、ついに出ちゃったよ。日本代表が」

 しつこい前田に対し、錠はいつものように無関心を装ったが、東大大蔵省のネームバリューに心中は乱れた。

 あのゴールを決めたあと、興奮が覚めてから真っ先に浮かんだのは玲子の顔だ。その後も、ことあるごとに錠の脳裏をかすめていく。

 玲子は見ただろうか。レインボーを決めたときのあの勇姿を。それ以前にどこで知っただろうか、自分の元彼氏が日本代表に選ばれたことを。まさか全く――。

 玲子を思い出すたびに、錠のなかで認めさせたであろう自負と不安が入り混じる。

「代表は竹内、彼女はこの俺のおかげだよな」

 調子にのり続ける前田をちらと見て、錠は目を尖らせた。

 確かに、交際のきっかけは前田だった。

 元彼女、玲子とは前田がよその連中と企画したダンスパーティで出会った。竹内と大木は都合がつかず、錠は半ば強引に連れていかれた。これも講義のレポートを見せてもらった見返りだ。

 ダンスなど興味もない錠は、ごった返すフロアでただアルコールを口に運んでいた。人波を避けて漂ううち、ふと気付くと一人の女性と並んで立っていた。さりげなく見たその横顔はどこか寂しげだった。

 二人は言葉もなく、目の前で乱舞する男女の群れをただ眺めていた。

 そこへ前田がやってきた。

「おっ、錠。やるな、お前。いい子見つけたじゃん」

 前田の勘違いから接点が生まれ、そのお調子者の悪のりで連絡先を交換することになった。

 あれからいろんなことがあった。今は、このざまだ。戻らない過去を思い、錠は胸が焦げるような感覚をおぼえた。

 ――前田のおかげじゃない。前田のせいだ。

 険しい顔でうつむく錠を前にして、前田節はさらに続いた。

「スターっていやあ、やっぱユキヤだよな」

 普段から話題を膨らませるのはお手の物だ。これに合いの手をいれるのは竹内の役目だ。

「ああそう、ユキヤな。いつも、ここってところで点取ってくれるよな」

「俺、アジアカップの中国戦、鳥肌立ったわ」

「そういやあ、錠はユキヤの代わりに入ったわけだ」

「そうか。ユキヤの代役ってめっちゃ名誉じゃん」

 この言葉に、錠は下を向いたまま眉間のしわを深くした。

 いまだに俺がユキヤの代役だって?

 確かに錠はユキヤの代役として代表に呼ばれた。相手は日本スポーツ界のスーパースターだ。エースともキングとも言われている。その代役ならば光栄なことだ。しかし、今の錠には事情が違った。

「なんか声かけてもらってないの、よくやったとかさ」

 そうだ、代わりだというなら礼の一言ぐらいあってもいいだろ。

 そんなセリフが錠の頭をよぎった。よくよく思えばいまだ何の接点もない。

「でも代役だからさ、ユキヤが戻ったら錠はいらないんじゃない」

 これにはさすがの錠も、ジョッキを見つめる目を思わず見開いた。

 ユキヤがそんなにすごいか? 俺のレインボーは百発百中だぞ。

 すぐにその目が鋭く尖る。

 が、前田節には遠慮という詞はなかった。

「ユキヤなら金も持ってるから玲子ちゃんもイチコロなんじゃない」

 酔っ払いの暴走ぎみの発言に、竹内が喉を詰まらせながら前田と錠を交互に見やる。

 錠は真っすぐにジョッキを見つめていた。話はまだ聞こえてはいるが、そろそろ自分だけの世界に浸る準備に入っていた。

「玲子ちゃん、見た目からお金好きそうだったもんなあ」

 前田の口から垂れ流される言葉から、錠は玲子のシルエットを思い浮かべた。

 お嬢様の玲子が身につけているのはブランド品ばかりだった。ゆえに、錠のプレゼントも相応のものでなくてはならなかった。

 錠は無理をしてでも高級品を贈ったが、その甲斐あってか、玲子はいつも喜んでくれた。

 錠のプレゼントのなかで、玲子の最もお気に入りはハンドバッグだった。錠にはその価値がよくわかっていなかったが、会うたび彼女は必ず肩に下げてきた。嬉しそうなその顔を見るたび、錠はえもいわれぬ幸せを感じた。

 錠はジョッキの中に漂う自分を見ながら、次第によき日の思い出に深く身を沈めていった。

「でもあれだろ、玲子ちゃんは錠のファッションにもうるさいんだろ。お前、よくうざいってグチこぼしてたもんな。よかったんだよ。そんな女、東大大蔵省にくれてやれ。一流同士お似合いだ」

「おいっ」

 竹内がまた前田に警告を出す。だが、錠のほうは反応しない。

「あ、また無視か。さっきから黙ってさ。都合悪い話だとすぐ聞こえないフリするよな」

 前田の言葉を受け、竹内がそっと錠の顔をのぞき込む。錠はジョッキに目をとめたまま動かない。

「いや、この顔、完全に自分の世界に入ってるパターンだな」

「逃げ込みやがったか。フリよりひどいぜ」

「当分、帰ってこないな」

 竹内はどこかほっとした表情を見せた。前田は不満そうだ。

 彼らの飲みはいつも、錠が逃げ込むか、前田がつぶれるか、どっちが早いかという展開になるが、今日の前田は酔ってはいるものの、増税のせいでいつもほどではなかった。

「にしてもさあ、この男は普段何やってんだろ?」

 前田が呆れた口調で言った。

「そりゃ、ゲームだろ。錠は」

「そうなの? ほとんど外出しないんだろ。ゲームってそんなにずっとするもんかね」

「するやつはするんじゃない。ロールプレイングなんて何日もかかるから」

「俺たちがちっちゃいときは、テレビゲームなんてまだなかったようなもんだからな。俺はハマらなくてよかったわ。これからの子供はみんなそんなになるのかね」

「いや、すでに多いみたいだぞ。ゲームに限らず、閉じこもりっきりの若者」

「俺たちが外に誘わなかったら、どうなんのかな」

「誰か言ってくれなきゃ、ずっとやっちゃうんじゃない」

 竹内は錠の表情をうかがいながらそう言った。

「そういや錠の部屋、とうぶん行ってないなあ。彼女できてからかなあ」

「そう、呼んでくれなくなったよな。一回だけ、レポートもっていってやったけど」

 竹内が去年のことを言った。

「別れる前?」

「いや、そのあとだな。近所のレストランで待ち合わせしてたのに来ないから行ったんだ。玄関から見ただけなんだけど、えらいことになってた」

えらいこと?」

「中はゴミだらけで足の踏み場なんてない感じ」

 竹内は思い出し笑いで答えた。

「手伝おうかって言ったら、困ってないって。俺の城だからほっとけって」

「や、こいつは言うわ、そういうこと。でも俺の城って、流本城ってか。響きからしてダメそう」

「たぶんそのころやってたゲームで城を守ってたんだろうな。もっと前は勇者だの、救世主だのってよく言ってただろ。あれはゲームの影響だな」

 ここで錠がいきなりジョッキを口に運んだ。

「うおっ」

 錠は二度ほど喉を鳴らすと、それをテーブルに戻し、また上から見下ろした。

「驚いたあ。無意識だな、今のは」

 二人はその後も錠を観察して楽しんだ。

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