愛という呪い
幸い、というべきか。クオーレは、私以外の人間の前で、動くことはなかった。
客が来た時、店主である老人が来た時すらも、彼はその瞬間、ぴたりと動きを止めただの人形のふりをする。私以外の者と会話しない、笑顔も向けない。無だけを返す。
私はそれが嬉しかった。
けれどもクオーレを想うほどに、私の中の不安は強くなっていった。
優しい光を手に入れたのならば、失うことに怯えてしまう。当たり前のことだった。
クオーレは、どうだったのだろうか。
三百年もの間、まさに「愛に生きた」彼は、どうだったのだろうか。
恐らく彼は、絶望と希望の間にいたのだと思う。
そうでなければ、別れの時にあんな絶望に満ちた言葉を言わなかっただろうし――あの時、見えた希望を信じて私を噛まなかっただろう。
店で働く中、クオーレはよく私に口付けをしてくれた。くすぐったいから、そろそろやめてと、ついにある日、私は言った。椅子に座って商品のリストを整理している最中だった。クオーレは机の上に乗っていて、ねだられたものだから、私は彼に手を渡していた。
「食べてしまいたいくらいなのだよ」
クオーレは私の手に抱きついたままだった。そこで私は思い出した。クオーレが「吸血鬼人形」であることに。笑えば鋭い牙が見えるのだ。
「クオーレは本当に噛むの?」
尋ねれば、クオーレはより私にすり寄って答えてくれた。
「ああ、噛むぞ。噛んで……魂を喰らうのだ」
その時の、クオーレの顔。瞳の奥で揺れる、渇望。
私は、与えたかった。
それが私にしかできないことのように思えて。
その時の私の鼓動を、間違いなく、クオーレは感じとっていただろう。
「噛んでみてよクオーレ」
私はそんな風に、あたかも遊びに誘うように提案して見た。
クオーレはすぐに答えてくれなかった。赤い瞳に揺らぎを宿したまま、かすかに顔を私からそらした。それでも、
「いいのか、ネイト。後悔するぞ」
クオーレの神秘的な声は重々しく、その行為は冗談で終わらないのだと伝わってきた。
それならなおさら、私は噛んでほしいと思ってしまった。
クオーレは明らかに何かに飢えていた。それは私も同じだった。
クオーレは簡単にキスをしてくれる。しかし噛むことには躊躇いを見せる。それならばそこに、キス以上の大きな意味があるのだ。
私はそこに至りたかった。
クオーレは、私の黄色の瞳の奥に、揺らぎを見ただろうか。
長い間の末に、クオーレは私の膝に飛び乗ってくれた。そして私の首に手を伸ばしてくれた。
抱き付くような形になって、クオーレはまず、私の唇に唇を重ねてくれた。やはりクオーレの身体は人形で、冷たく固かった。
首筋に彼の小さな頭が埋もれて、その髪にくすぐったさを覚えた。肌に彼の冷たい唇が当たっているのを感じて、ああ本当に噛まれるのだと思うと、急に緊張を覚えた。
クオーレはすぐに噛んでくれなかった。私が静かに彼を抱き返して、しばらく待っても、彼はなかなか動かなかった。
まさか『死んで』しまったのだろうかと一瞬思ったが、彼の鼓動は確かに伝わってきていた。早鐘のように打っている。私の心臓もそれにつられる。
やがて、首筋に鋭い痛みが走った。
ああ、と私は悲鳴を上げてしまった。未知の感覚に襲われ、全身が震えてしまったのだ。同時に眩暈も覚えて椅子から転げ落ちそうになるが、クオーレを抱きしめて耐えた。
耐えたと言っても一瞬だけだった。ぱっとクオーレが離れたかと思えば、その整った顔の口元に、わずかに血がついていた。私も我に返って首に手を触れると、ぬるりとした感覚がかすかにあった。
なんだか妙な気持ちになり、また驚いたままでいると、クオーレが笑い出した。つられて私も笑ってしまえば、いつもの時間が戻って来たのだった。
クオーレが私を噛んだのは、その時の、一回限りだった。
噛んだことについて言及したのも、別れの時、その時だけだった。
* * *
私の母の病は、良くなる兆しが見えなかった。だが別の街に住む叔父がやってきて、こちらの街で療養しようと言ってきた。その街にはいい病院があるだけでない、叔父の家に身を寄せられたのならば、私達一家の生活は非常に楽になる。
私達一家は、引っ越すことになった。
それは私が骨董屋での仕事を辞めることを意味し、クオーレとの別れも意味していた。
引越しのことを店主に話し、その時私はクオーレを譲ってもらえないか相談もしたが、断られてしまった。クオーレは商品であり、それも高価なものだった。当時の私では、どうにもできないことだった。
私はクオーレに、別れの話をしなくてはいけなかった。
「君達人間は、いつもどこかに行ってしまう」
私が話して、クオーレはしばらく口を開いてはくれなかったが、ようやく声を発してくれた。目を合わせてはくれなかった。
あの時の言葉全てを、憶えている。
「わかってた。わかっていたのだよ。いつもそうだったから。でも……今度こそはと、信じたかったのだ。だから……噛んだのに」
クオーレは泣かなかった。人形は涙を流さない。しかし声は震えていて、二度と私を見てはくれなかった。
「でも……いいさ。ネイト、私は言ったはずだ、噛まれたら後悔すると。君は一生、後悔してくれ。私を噛ませた罰として」
クオーレは膝の上に乗って、最後まで私を抱きしめてくれてはいたものの、私は感じていた。クオーレの鼓動が、弱々しくなっていることに。
クオーレは『死のう』としていた。冷めてしまったのだ。彼はするりと私から離れ、あの棺に戻ってしまった。蓋を閉めて、もう出てこなかった。
「何故、愛で私は『生き返る』? 叶わぬ恋だというのに。人間はいつもどこかへ行く。傍にいてくれても、時が彼らをさらっていく。私はもう……『死んで』いたい。そのまま、目を覚ましたくない」
クオーレは『死んで』しまった。
私が街を離れる日になっても出てくることはなく、私は棺の前で、泣きながら別れを告げることしかできなかった。
* * *
十五歳の頃の思い出は、ここまでである。
私が『蒸気と硝子の街』に戻って来られたのは、それから十年後だった。私は街について、すぐにあの骨董屋へ向かった。
あの骨董屋は、なくなっていた。とある五人家族の家として、新しくなっていた。話によると、骨董屋を経営していた老人が亡くなったことにより、店は潰れたらしい。
骨董屋にあった商品がどこにいったのかは、誰も知らないようだった。吸血鬼人形クオーレについて知っている者もおらず、更に数十年の年月が経ったいまでも、私はクオーレの情報の一つも、手に入れられずにいる。
クオーレは消えてしまったのだろうか。『死んで』いるのだろうか。
あるいは、新しい恋に目覚め、いまもどこかで『生きて』いるのだろうか。
少なくともわかることは一つである。それは私についてだ。
私は『死んで』しまった。
私は誰とも恋ができなくなった。誰かに、心の底からの愛を向けることができなくなった。どんなに素晴らしい人と出会っても、鼓動が早まることはなくなった。
噛まれたら後悔する、と、クオーレは言っていた。
きっと私はあの時、クオーレに魂を喰われてしまったのだ。だから私は『死んで』しまったのだと思う。
そして魂の残骸は、クオーレに喰われ同化した魂と、クオーレそのものを欲している。
きっと、クオーレに再会できたのなら、私は『生き返る』のだと思う。
そしてもし、クオーレがこの世界のどこかに存在していて『死んで』いるのなら……私は彼と再び『生き』たい。鼓動を重ねたい。
しかし私はもう寿命を迎えようとしている。肉体は失われようとしている。本当の死を迎えようとしている。
それでも私は、彼に会いたかった。
だから願う。この手記を読んでいる者が、どうか「私」を彼の元に連れて行ってくれることを。
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