吸血鬼人形クオーレ
ひゐ(宵々屋)
クオーレとの出会い
昔の話をしなくてはならない。私が十五歳の頃の話だ。
当時『蒸気と硝子の街』に住んでいた私、少年ネイトは、薄汚れた少年だった。鏡を見れば、赤茶色の髪は半端に伸び、どこかしらがはねている。洗っても汚れが落ちない服を着続け、靴もぼろぼろのものを履き続け、けれども決して貧乏ではなかった。そして私には「画家になる」という夢があって、黄色の瞳をいつも輝かせ、何かしらの絵を描いていた。
ところが母が病に倒れて、私は絵筆を手放さなくてはいけなくなった。
私の家に父はいない。私と弟、そして稼ぎ手であった母だけがいた。母は働き者であり、私に夢を追わせてくれた。しかし彼女が倒れたのなら、私が家計を支えなくてはいけなかった。
私の絵での稼ぎはあてにならない。私は人の紹介により、骨董屋で働くことになった。
その店で、出会った。
彼は商品の一つだった。店の一角、小さな棺があり、そこに眠っていた。
黒髪の少年の人形。白い肌は作り物そのもので、人形であり、目を閉じているにもかかわらず、私は一目見た瞬間「生きているように眠っている」と思ったのを憶えている。
店の中がどうなっているのか確認していた私は、棺を開けて、彼をまじまじと見つめてしまった。とても美しく、目が離せなくなってしまったのだ。触れたいのに、触れたくないような、そんな感覚を強く覚え、うるさいほどに鼓動が響いていた。
すると、まるでその鼓動が聞こえてしまったかのように、眠っていた人形がぱちりと目を開けたのだった。赤い双眸が、私をしっかりと捉えていた。
驚いて私が瞬きをすれば、彼は目を閉じたままだった。人形が動くわけがない。その時私は、きっと幻を見たのだろうと思った。
ところが店主の老人に言われた。
「吸血鬼人形クオーレ」が『生き返る』かもしれない。彼は噛むことがあるから、気を付けておくれ、と。
* * *
骨董屋といっても、高価なものが置いているわけではなかった。「かつて誰かが使ったもの」が、ところせましと並べられるように、または積み上げられるように置かれている、そんな店だった。絵画や壺だけでなく、本、小瓶、化石、かつての時代の道具、はたまた何に使うのかわからないもの……店はそれらでできた、鬱蒼とした森だった。
買いに来る客こそ少ない店ではあったが、毎日何かしらが店に入荷した。『蒸気と硝子の街』で思い出は常に生まれ、捨てられるものであるから、骨董屋はそのゴミ箱であった。
故にものの整理や掃除を常に行わなくてならず、それが私の仕事だった。そして店主は立つことも苦労するような老人であり、店のほとんどのことを、私がやらなくてはならなかった。
「吸血鬼人形クオーレ」が目覚めて私の前に現れたのは、私が骨董屋で働き始めて五日目のことだった。
その日、私は掃除をしていた。その時、積まれた本の上に、昨日はなかったものがあることに気付いた。
クオーレが座っていたのである。古風な貴族の服をしっかり着込み、窓からの風に黒髪を揺らしていた。そして宝石よりも澄んだ赤い瞳で、私を見下ろしていた。
「ネイト、仕事は順調か」
彼は喋った。その時の私と同じ、十五歳くらいの少年の声で。不思議な声だった。威張っているようで、しかし思い返せばどこか甘えたがっているかのような、凛とした声だった。
けれども確かに人形であった。とんと床に着地した彼の背は、私の背丈の半分に満たない。
私を見上げれば、冷たいはずの表情は、不敵な笑みを浮かべた。かすかに開いた口の中、鋭い牙が見えた。
もちろん私は驚いて尋ねた。
「君はあの棺に入っていた人形? どうして僕の名前を知っているの?」
「棺に入っていた人形だからこそ、お前のことを知っているのだ。お前が一体どういう人間で、どう仕事してくれるのか、私は見ていたのだ」
そう答えた彼は、もはや人形ではなく、妖精や小人のようにも思えた。しかし彼は「吸血鬼人形」である。私はしゃがみ込み、彼をまじまじと見つめた。見える肌は、確かに作り物の白さと固さを持っているように思えた。ところが、その細い指は滑らかに動き、また顔も、からかうように瞼をやや閉じ、より口の端をつり上がらせる。そしてガラス玉であるはずの赤い瞳の奥では、きらきらと、何かが輝いていたのである。
「どうして人形なのに動いてるの? まるで……生きているみたいだ」
「『まるで』ではない、実際にこの私、吸血鬼人形クオーレは、いま『生きて』いる!」
クオーレが両手を伸ばす。だから私が手を伸ばせば、彼の手は間違いなく冷たく、肌の柔らかさといったものもなかった。しかし動きは球体関節によるものとは思えないほど人間らしく、彼は私の片手を、自らの胸に持っていったのだった。
そして私は感じた。クオーレが『生きて』いることを。
クオーレの胸に触れた指先から、彼の鼓動が伝わってきたのである。
「君には心臓があるの?」
「血はないがこの通り。お前が来てくれたことにより、この心臓は再び鼓動を刻み始め、私は『生き返った』のだ」
「僕が来たから?」
「ネイト、私はお前が気に入った――お前の存在が、私を興奮させ、この心臓を動かしてくれたのだ」
この言葉に、私は戸惑うしかなかった。そんな私をよそに、クオーレは私の手の甲に口付けを落としてくれた。やはり冷たく、柔らかさはなかった。
私はますます混乱してしまった。動く「吸血鬼人形」に、私が来たからこそ動いたという心臓。その上キス。まるで愛の告白をうけたかのような気持ちになった。
後から考えれば、実際にあれは、クオーレによる愛の告白だったのだろう。
クオーレの心臓は、愛や恋によって動く。愛や恋の鼓動が、心臓を動かし、彼を『生かす』のだ。
翌日からクオーレは当たり前のように店内を歩き、当たり前のように私に話しかけてくるようになった。
とはいえ、彼は私の仕事の邪魔をしなかった。ただ私の傍にいて、見守る。視線を感じてすっと目を動かせば、あの赤い瞳がいつも私に向けられていた。それにどうしてか、私はいつも安心を覚えていた。そして彼の声にも。
「ネイト、お前の髪は、いつもはねているな」
積まれた本の上に立つクオーレが手招きをすれば、私はそこに向かった。クオーレは人間用の櫛を抱えていて、それでよく私の髪を整えてくれたものである。その後、本の塔に登ったはいいものの、うまく下りられない彼を、私は抱えて下ろしてあげるのだ。
そして今度は私が、クオーレの髪を整える。彼を膝の上に乗せて、人形用の櫛で黒い髪をながすのだ。整えられた漆黒の髪は、店の小さな灯りを受けて、星のような光を返してくれた。
クオーレの服を直すこともあった。クオーレはよく私のあとをついて回った。その時に、マントや服のあちこちを引っかけて破くことがあった。それを手縫いで直すのだ。
修繕できなければ、新しく作ることもあった。マントは一度、一から作り直したことがある。
「お前には才能があるのではないか? 人形の服を作るのを職にしたらどうだ?」
そう言いながら、机の上を舞台にし、クオーレはくるくる回って見せてくれた。
服だけでなく、クオーレの身体、そのものの手入れをすることもあった。球体関節がうまく動かないというから、当時は素人ながら、何とかならないかと苦戦したものである。
それでもあの時、クオーレの関節が問題なく動くようになって、彼がほめてくれたのだから、今の私があるのだと思う。
クオーレは血の流れない人形であるものの、私の体温が移れば、その硬い球体関節の身体は熱を持った。私はそれがなんだか嬉しかったし、クオーレもそれが気に入っているのか、よく私の手を欲した。小さな両手が伸ばされ、私が応えて手を伸ばせば、クオーレは私の手に抱きつき、キスをするのだ。
またクオーレは、博識であった。私が歌えば、彼はお返しに、昔の詩人の詩を返してくれた。それだけではなく、彼自身で詩を作ることもあった。
クオーレの詩は、どれも金細工でできているかのように繊細で、煌びやかだった。どれも愛の詩だった。どうやったらこんなものが作れるのかと尋ねれば。
「こう見えても私は、三百年の時を過ごしてきたからな!」
そう言われたものだから、私は笑って「おじいちゃんってこと?」と返したのを憶えている。クオーレは少し恥ずかしそうに口を尖らせこう言った。
「ネイト、私に年齢の概念はない。私は吸血鬼で、人形なのだから」
気付けばクオーレとの時間は、私にとってかけがえのない、大切な時間となっていた。古びたものばかりがひしめく森の中、こうしてクオーレに触れていると、彼の鼓動を感じることができた。彼は確かに『生きて』いた。そしてきっと、私の鼓動も、彼に伝わっていたに違いない。
互いの鼓動が重なるということ。それが幸福の意味なのだと、私は知った。
だが彼はこうも言った。
「とはいえ、三百年の間、全て『生きて』いたわけではない。私は誰かに愛を抱かなければ『死んで』しまうからな」
彼は牙を見せて笑ってくれた。対して私は、ちくりとした痛みを覚えた。
クオーレは、私以外の誰かに「愛」を抱いたことがある。そう気付いてしまったのだ。
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