グリーンマンゴーラブ

ワカコ

第1話 渡れない横断歩道とバイクシャワー

「危ない!!!」

そう流暢な英語で叫んで私の腕は健康的な浅黒い手のひらにしっかり掴まれた。


「まさか…道路すら渡れないなんて。」

ヒカルはは疲弊していた。ここは東南アジア、常夏の都市サイゴン。

ひょんなことから仕事の移動が決まり、東南アジアと言ってもイメージするのはシンガポール、タイ、バカンスといえばバリ…

ベトナムといえばエスニック料理店でフォーを食べたことがある思い出くらいしかない。

そんなイメージのなかあれよあれよという間に手続きが終わり飛んできてしまった。


しかし、これは何だ。


日本とは比べ物にならないバイク量でそれはまるで昔挑戦した東方とかいう弾幕ゲームや、難易度マックスのダンス・ダンス・レボリューション、あるいは鬼コースの太鼓の達人が4車線になってるイメージよろしく向こう側の歩道に行くのに一歩も踏み出せない。

初出勤なら早めに着いてコーヒーでも飲もう、そんな思いは打ちのめされ、かれこれ15分は就業予定のビルに向かう最後の、しかし最初の道路を渡れずに大量のバイクの切れ目を探しては一生見つからないもどかしさに天を仰いでいた。


「もう、渡るしかないよね」

走ってパパっと渡ればなんとかなるだろう、そう思って半ばやけくそに車線という概念も信号の役割も無視されている”バイクシャワー”に突撃することにした。


その距離約10m程度だろうか、大丈夫だ、小学校では脚が速いほうだった、瞬発力にも自信がある。車線脇の歩道には乗り上げてショートカットするバイクがおぞましいが無視することにした。気持ちは運動会だ。


位置について、よーい…


その瞬間ヒカルの横断徒競走は阻止された。フライングの生徒がいて戻されたかのように、いやそれは物理的だった。

ピストルの音よろしく大きな声で警告する英語が聞こえた。


冷静さを少しずつ取り戻すとヒカルの腕は元々なのか、日焼けなのかわからないが健康的な、しかしやや細い手にぐっと掴まれて体ごと歩道に戻されたのだった。


「危ないよ、こんなところを走らないで」

ぱっちりとした目元の、一見自分より年下に見える年齢不詳の男性が不安そうな表情でヒカルを歩道に誘導する。


「あの…ありがとう、どうしてもあっちの道に行きたくて」

ヒカルは自分のしたことが間違いだったのかとうつむく。

異文化にまったく触れた事がない訳ではない、しかし自分の経験した異文化とは留学時代に経験した、レジを通さず飲むコーラ、人の目を気にせず踊るダンス、目を見たらそらさずニッコリ微笑むなど…それは決してけたたましいクラクションでもなく、月光仮面のような完全防備でバイクに乗った女性軍団でもなく、ましてや大量のバイクシャワーでもないのだ。


「大丈夫、あっちに渡りたいんだね、ゆっくり歩くとバイクがよけてくれるよ」

車優先の日本のルールとはかけ離れている発言にヒカルはまだ理解ができなかったが

そのままヒカルは腕を掴まれ、日本人のパーソナルスペース的には少し驚くような距離の近さでヒカルを守るように誘導して男性は歩く。

信じがたいことに、穏やかなモーセの十戒が起きてるようにバイクシャワーはヒカルと男性を、それでも特別なことは何も無いような素振りでよけながら進むのだ。


それはたった30秒もかからず気が付けばヒカルは向こう側に着いていた。


「ありがとう、助かりました。あのままだったら私ケガをしていたね。」

「いいえ、ベトナム人じゃないとさすがにこの時間帯は渡るのが難しいよ。」

男性はニッコリ笑ってそれまで掴んでいた腕を優しく離す。

感じの良い男性だ。カジュアルなポロシャツに細身のジーパンはスリムなスタイルを存分に生かして、かつ嫌味を感じさせない。

刈り上げた横髪と清潔感のある量のワックスで整えたトップはどことなく東南アジアらしさも感じられる。


「私、今日からあのビルでお仕事なんです。」

ヒカルはふと隣の高層ビルを指さす。

すると男性は少し驚いた表情で、しかし日本人ではなかなか見られない柔らかな微笑みで返答した。

「僕もですよ、最近会社が引っ越して、一番上の階を借りてしまいました。」


そんな偶然があるのか、ヒカルは”借りてしまいました”という言葉の意味も深く考えず、いつか次会った時はコーヒーをご馳走しようかなんて暢気に考えていた。


それがヒカルの南国より熱い恋の始まりとなるとは思いもよらなかったのである。

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