第3話

「BL作家と同居!?」

「浜尾さんどうしたんですか、どういう心の心境なんですか!」


 いつもの飲み屋で、ママに「女性と住むときに気を付けなきゃいけないことってなんですか?」と相談に行ったら、ものの見事に常連客にバレた。

 ママは呆れたような顔をしている。


「あんたたちもその辺で」

「でも……浜尾さん、女性恐怖症なのに大丈夫なんですか?」


 彼女たちは同じ常連客だけれど、気を遣って距離を空けてくれているからしゃべれる。ママはそもそも性別不明な上に、基本的にカウンター越しだから平気だ。

 でも、かしこ先生は普通の女性で、こちらもどうすればいいのかわからなかった。

 ただ、アパートを追い出されそうになっているせいで、困り果てていたから、好き過ぎる作家さんだったのもあって、どうにかしたかった。それだけだった。

 ママは「そうねえ」と言いながら、お冷に水を継ぎ足してくれた。


「浜尾くんは大丈夫とは思うけど、なにか思って口にしていても、基本的に本人がストレートに言ったこと以外はそこまで信じちゃ駄目よ? ときどきなんでもかんでも曲解して『自分のことが好きなんだな』と思い込んでは、ストーカー扱いされて嫌われる子、うちでよく見るから」

「ああ……」


 ときどきママに泣きついて「好きな子に振られた!」と愚痴をこぼしている人を見かけるけれど、女性の気持ちを計りかねての悲劇らしい。


「それはないですよ。自分はただの先生のファンですし。あの人、自分と住むのも背に腹は替えられないって感じでしたから。そんな人に、どうこうなんてできません」

「ええ……浜尾くんの女性恐怖症もわかっているけどねえ……こればっかりは、あちらがあなたをなんとも思わないといいって祈るしかないわね。そんな感じだったら、同居だって解消する可能性だってあるし」

「ははは……」


 多分、それだけは絶対にないですよ。そう思ったことは言わなかった。

 彼女は自分よりももっとひどい、対人恐怖症の気が見え隠れしたから。かしこ先生になにがあったのかは知らないけれど、近所に買い物に行くときも、自動レジ以外はほとんど使わないし、できる限り人の多いタイムセールは避けて出かけている。おまけに食事中でも会話でも、ほとんど目が合わない。

 それなのに歯医者で働いているのは、かしこ先生の締切に合わせられる仕事が限られていたんだろうと、勝手に思っている。

 ママからは「女性ものと男性ものとは違うから、シャンプーやリンスは本人に買わせたほうがいい」「男性にとっては大したことない重さのものでも女性にとっては持ち運べない重さのものはあるから、そういうのは手伝ってあげるといい」「困ってないときは基本的に見守るだけでいいし、困っていたときだけ声をかければいい」とレクチャーされて帰っていった。

 要は自分よりも怖いものが多い人に対する接し方でいいんだな。そう割り切った。

 でも彼女はなにに対しても淡白な性格で、表情筋もあまり変わらない人だった。家には特に重いものもないし、アパートだって元々同じアパートの隣に住んでいたのだから、部屋の位置とかもわかっているし、そこまで大きく困っている様子もない。

 なら、こちらが先回りして様子を見る必要もないだろう。そう割り切っていたけれど。


****


 最初にかしこ先生を意識するようになったのは、かしこ先生の妹さんを泊めたとき。

 さすがに自分はこれはまずいだろうと会社に泊まろうとしたものの、かしこ先生が心底恐縮して「いえ、ここの大家は浜尾さんですから!」と申し訳なさそうに頭を下げていた。


「そ、んな……頭を上げてください!」

「すみません。うちの妹も本当に粘ってホテルを探し回った結果、こんなギリギリになったみたいで」


 安いカプセルホテルだったら今でも予約が取れるだろうけど、かしこ先生の妹さんにそんな治安の悪いホテルを勧められる訳もなく、ふたりにアパートを勧め、自分はできる限り飲み屋で粘ってから帰るようにした。

 人懐っこいかしこ先生の妹は、自分みたいなのにも親切だった。ただ、本当に物怖じしない性格なのだろう。かしこ先生と違い、目を合わせて話をしようとしてくるために、こちらが何度委縮したかわからない。

 妹さんが帰ったあと、ぐったりとして、昼間からビールを飲んでいたところで、駅まで見送りに行っていたかしこ先生が戻ってきた。

 自分がビールを飲んでいたのに、彼女はきょとんとした。そういえば一緒に住みはじめてから、彼女の前でビールを飲むのは初めてだった気がする。

 成り行き上昼間から飲みはじめたとき、いつも全然表情筋の緩まなかった人が、目を細めておいしそうに飲んでいることに気が付いた。飲み屋で本当においしそうにビールを飲んでいる常連客はよく見るけれど、かしこ先生もストレスをビールで流し込むのではなくて、単純に味が好きで飲んでいるタイプだ。

 普段から原稿にかかりっきりなため、あまり酒を飲まないだけだとは、そのときに聞いた。作家にもアルコールを入れたほうが書ける人と全く書けなくなる人といて、かしこ先生は後者らしい。

 作家もいろいろだな。そう思っていたら、日頃は口の堅いかしこ先生が、あちこちに話を飛ばしてきた。

 どうにか必死に慰めようとすればするほど、かしこ先生はドツボにはまってきて、突然こちらを赤らんだ顔でじっと見てきた。

 自分はお世辞にもいい感じではない。癖毛がひど過ぎるし、度近眼でほぼ瓶底のメガネをかけているし、仕事の関係で目だってずっと充血している。

 その彼女が、自分をじぃーっと見てきたのだ。


「浜尾さん、優しいじゃないですか……私はそのまんまでいいと思います。無理に、男らしくとか、年相応とか、考えなくってもいいと思います」

「……かしこ先生?」

『なにか思って口にしていても、基本的に本人がストレートに言ったこと以外はそこまで信じちゃ駄目よ?』


 前にママに言われた警告が頭をよぎった。

 この場合、ただ愚痴吐きに付き合った自分をお礼で褒めているのか、純粋に思ったことを言ったのか、どっちだろう。

 人をすぐ好きになれる人を、自分は本気でわからないと、そのときまでずっと思っていた。


「普通って、しんどいじゃないですか……普通にしないといけないって、普通から外れちゃった人間からしたら、息苦しいじゃないですか……普通にしてて息ができないのに、それでも普通にしないと駄目なんですか? 呼吸困難に陥るくらいだったら、もう普通じゃなくっていいです。私も浜尾さんも、呼吸しやすい場所探して落ち着いてるだけじゃないですか……」


 言いたいことを言って、そのままかしこ先生はカクン、とテーブルに突っ伏してしまった。


「あの、かしこ先生?」


 ママがときどき酔っ払い客を起こすように、グラスで恐る恐る頬を触れさせるけれど、彼女は寝息を立てて起きなかった。

 どうしよう。眠っている人だったら、彼女を抱えて部屋に寝かせることができるだろうか。そう思って彼女の肩に触れようとした途端に、彼女のアルコールの混ざった体臭が香った。

 その匂いをいい匂いと思えたらどれだけよかったのか。頭をよぎったのは、いつかの夏の記憶だった。


『頑張ってね』


 哄笑が頭をよぎり、喉を吐き気がせり上がってくる。さっきまで気持ちよく一緒にビールを飲んでいたのに、これだ。

 彼女を抱えてベッドに寝かせるのは諦め、倉庫から替えのタオルケットを取って来て、それを彼女にかけた。


「これなら、大丈夫ですよね」


 彼女が起きるのを待ったものの、彼女がいつまで経っても起きず、結局はシャワーを浴びて自室に戻ることしかできなかった。

 自分の手を握って広げる。彼女に触ることができなくって、残念だと思ったのはなんでだろう。それがわからなかった。


****


 彼女が弱ったのは、それからしばらくしてだった。

 理由がひとつだけだったらよかったものの、彼女の勤め先でのトラブル、新規の出版社とのトラブル、このところ出かけるたびに遭遇したトラブル。

 ひとつひとつの大きさは大したものではないけれど、それが雪だるま形式でどんどんと凝り固まった結果、かしこ先生は見るからに弱っていってしまった。

 最近は食事も細くなってしまい、こちらに向ける背中が妙に小さく細く見えた。

 その日、仕事から帰ってきたとき。彼女がトイレの戸を開けっぱなしにしているのが見えた。

 まさか、彼女が倒れたんじゃ。おろおろとしそうになる自分を奮い立たせて、努めて冷静な声を出す。


「かしこ先生、大丈夫ですか?」


 返事の替わりに、吐瀉物を吐き出す音が響いた。彼女は何度も口元を拭ってから、ようやく振り返った。

 見るからに憔悴して、前髪は汗で貼り付き、ぐったりとしていた。


「……申し訳ありません、浜尾さんのお宅で」

「……いいえ。体調悪いときはありますから。その、コンビニでお粥を買ってきますか?」

「……すみません。お願いします。それくらいだったら、大丈夫だと思います」


 それだけ聞くと、踵を返して、そのまま家を出た。

 どうしたらいいんだろう。彼女がどんどん弱っていく。

 もし自分が友達だったら、彼女を励ます言葉を言えたんだろうか。

 もし自分が恋人だったら、彼女を慰めることができたんだろうか。

 同居人だったら、どうしようもないじゃないか。

 コンビニに向かいがてら、自分は思わずスマホで電話をしていた。

 友達も乏しく、相談できる人なんて限られていた。


『はい飲み屋ふぇりーきたーすです。大変申し訳ございませんが、現在開店準備……』

「ママですか? 浜尾です。どうしよう」

『あら浜尾くん。珍しい。どうかしたの?』

「……好きな人が、弱っているんです」

『あら? それって、例の作家さん?』

「……はい」


 説明すべきかどうか悩んだ結果、コンビニを行く道すがら、淡々と全て吐き出した。

 かしこ先生をずっと信仰していたけれど、ある日突然あの人が女性だと気付いたこと。でも彼女に触ることはできず、その上に信仰対象をそんな目で見てはいけないと距離を置いていたこと。

 でも、ずっと表情筋が死んでいた人が、本当にときどき表情筋が緩む姿を見るのが好きなこと、触らなくてもあの人といると楽しいこと、でも自分だとあの人が弱っていてもどうしたらいいのかわからないこと。

 ここまでを一気に吐き出したところ、ママは『はあ……』と溜息をついた。


『一応聞くけど、浜尾くんは作家さんになんにもしてないのね? ただ作家さんがいろんなタイミングが悪くてどんどん弱っていくだけで』

「はい……」

『そしてその人が対人恐怖症だけれど、浜尾くんには懐いている。でも人に触られるのが病的に駄目で、結果的に浜尾くんと噛み合っちゃったのねえ……難しいわね』

「……自分、あの人になにかできるでしょうか? あの人がこれ以上苦しんでいるのは、見てられないんです……」

『ねえ、浜尾くんの好きってどういう意味? これって愛? 恋?』


 唐突に言われて、言葉を詰まらせる。

 彼女がずっと好きだったけれど、その意味がわからなかった。だって自分は彼女に触れないし、触りたいと思わない。ただ、本当に元気でいて欲しい、笑っていて欲しいと思っていて、世間一般の恋人にしたいことをしたいとは微塵にも思っていない。

 彼女を性的に全く見ていないのに、それでも好きでいるっていうのは、矛盾していないだろうか。


「……わからないです。生きづらそうにしている彼女が、自分の前くらいは元気でいて欲しいと思うのは、自分のエゴでしょうか?」

『その弱っている作家さんを閉じ込めたいとか、そんなのは全然ないんだったら、大丈夫でしょう。彼女が元気になったら、ゆっくりその話をしなさいな』

「……あの人を、苦しめないでしょうか?」

『あのね、浜尾くん。恋に恋してる子って、基本的にエゴでしか動かないし、相手の気持ちなんて無視して動くけどね、あなたは徹底して相手を優先して動いてる。それってもう、愛以外にないじゃない』


 ママの言葉に、コンビニの前でピタリと止まる。

 自分、そこまで深いこと、考えていなかったような。でも淡々とママは続ける。


『浜尾くんがハンディーがあるのは知ってるし、作家さんが人間嫌いだっていうのも聞いているけどね。それって逆に言えば自分を優先してもらえなくって絶望していることだから。その絶望には、徹底して相手を優先しているとアピールすることでしか、打ち勝つことはできないの。あなたの一番がその作家さんなら、頑張りなさい』

「……自分は、いつもママに感謝してますよ」

『そういうのいいから。行ってらっしゃい』


 そう言われて、自分はようやくコンビニでお粥を数個放り込み、スポーツドリンクもできる限り買い込んだ。


 あれだけ応援してくれたママには「愛」だと言われてしまったけれど、多分、自分たちの関係は、愛とか恋とかそういうのとは違う気がする。

 触れないし、スキンシップらしいことはほぼできない。ただ一緒にいると居心地がいい。本当にそれだけだ。

 名前の付けられない関係を引きずって、ふたりで生きていけたらいいのにと、そう思わずにはいられない。


<了>

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