第2話

 テーブルの上に出されたコーヒーの湯気が、ゆらゆらと天井に昇っていく。

 ブースの外は慌ただしい編集部の喧噪が響く中、編集さんは熱心に言葉を重ねた。


「かしこ先生の書かれるドライなキャラクターを、性描写なしでぜひとも読みたいと思いまして。そもそもかしこ先生、BLジャンルで書かれていましても、恋愛は全然興味ないですよね?」


 そう言われて、私は押し黙る。

 図星だ。自分の書きたい話を書けるジャンルがBLだったから書いているのであり、カテゴリーとしては恋愛小説には当てはまらないはずだ。

 この人、BL小説を馬鹿にしている言動は目立ったけれど、少なくとも私の本は読んだ上でちゃんと精査していたらしい。編集さんはさらに続ける。


「ですから、かしこ先生に打診しました。物語を、性描写なしの物語をじっくりと書いて欲しいんですよ。メールでも送りましたが、こちらがうちのレーベルの案内と、創刊号です。企画書ができましたらいつでも読みますから、どうぞよろしくお願いしますね」


 それで打ち合わせは終わってしまった。

 いや、私は一方的に編集さんの演説を口を挟む間もなく聞いていただけのような気がする。私はレーベルの説明のプリントと新規レーベルの創刊号を鞄に入れて、とことこと家に帰ることにした。

 あの編集さんに自分の中身を抉られたような気がして、妙に目眩がする。

 私は恋愛が書けない……いや、恋愛自体を馬鹿にしていないし、書くこともあるけれど。それをメインに据えて書くことができないでいるんだ。

 なによりも、性描写を抜いて書けと言われたことに、私は心底困り果てていた。


****


 他の原稿の改稿指示を受けて改稿しつつ、ときどき企画書を書くためにテキストエディタを開くけれど、そこは真っ白なままだった。

 普段であったらもっと早くにキャラクターなり設定なりを引っ張り出して、それを埋めることができるというのに。私はそこを書くことができないでいた。


【かしこ先生、どうしましたか? 今回改稿したあとの文がずいぶんと荒れているみたいですが】

【大変申し訳ございません、文章が荒れてしまって。ちょっとスランプに入ったみたいで】

【大丈夫ですか? この原稿、先生いつも早いですから、締切もうちょっとだけ伸ばせますけど】

【いけます。もうちょっと頑張りますので】


 ひとつスランプに陥ると、他の仕事にも連動して響いてくる。原稿が書けなくなるのは困る。仕方なく新規案件の企画書が真っ白なまま、他の出版社の仕事をするけれど、いつもはもうちょっとするする出てくる文章が、詰まったように出てこなくなり、話全体が揺れて据わりが悪くなってくる。悪循環だ。


「ああ、もう」


 仕方がなく、仕事を切り上げて、リビングに出て行く。飲み物を飲んで気分転換しようとしていたところで、部屋から出てきた浜尾さんと出会う。


「ああ、かしこ先生。今日はずっと唸り声が聞こえますけど大丈夫ですか?」


 そうおずおずと尋ねられて、「しまった」と思う。

 このアパートは全体的に壁が薄いんだから、こちらが悪態ついていたら、全部浜尾さんにも筒抜けなんだ。私はヘコリと頭を下げる。


「すみません……ちょっと新規案件が原因で、仕事が詰まってまして」

「前におっしゃってた、合わない編集部からの仕事の打診ですか?」

「はい……断るつもりだったんですけど、押し切られてしまったというか」


 私が新規レーベルの説明のプリントと創刊号の本を差し出すと、浜尾さんはそれをパラパラと捲る。そういえば、この人が私の本以外で読んでいた本、仕事関係らしい、私だとさっぱり内容のわからないプログラムの本くらいだった。小説も普通に読むんだな。

 パラパラ捲ってから、浜尾さんは自身の眉間の皺を揉んだ。


「……なんと言いますか、かしこ先生に合ってないような気がします。ここのレーベル。創刊号だけだったら、まだレーベルカラーも定まってないんで、はっきりと断言はできないんですけど」

「合わないんですかね……」

「てっきり、かしこ先生の作品を読んで、ドライなミステリーものとかアクションものとか、そういうのを求めているんだと思ったんですけど、ここのレーベルって、日常の丁寧な暮らしをしていく雰囲気で、かしこ先生特有のドライな人間関係を書くのには向いていないように思いました」


 それはものすごく思う。

 私が今まで書いていたのは、大きな事件を追う刑事と探偵のバディとか、ヤクザ同士の抗争とか、借金取りと借金滞納者のマネーゲームとか、大きな事件と一緒にセックスを入れるという作風だった。

 でもここのレーベルで、ドライな作品をお願いしますと言われても、事件を追うミステリーものも、ヤクザの抗争も、マネーゲームも。書いても浮くだけな気がする。

 だからと言って、今まで書いたタイプの作風を、丁寧な暮らしにシフトさせるにしても、地味になり過ぎる。ドライな人間関係だから余計にだ。私自身が恋愛を書くのを不得手だと気付いてくれたのは嬉しいが、丁寧な暮らしを書くには、私が間を埋められない。

 浜尾さんが「そうですねえ……」と言う。


「いつもかしこ先生がセックスを書くのは、ただ間を埋めたいとかではなく、感情を鎮めるとかいう作業ですよね? 昂ぶる感情を鎮めるために行うので、それが食事や恋愛が代替行為になるとは思いませんし、定期的に風呂のシーンを入れるのも、男性向けの小説だったらいざ知らず、ターゲットを女性にしているレーベルだと不自然に思えます。やっぱりかしこ先生に向いてないように思えますけど……」

「……本当にすごいですよね、浜尾さんは?」

「ええ?」

「……私が感覚で書いていることまで、詰まっていたところまで、私よりも詳しく言ってくれるじゃないですか。私……自分ひとりでずっと袋小路に入ってましたので」


 書きたいのに、書けない。なにを書けばいいのかわからない。普段は大なり小なりアイディアが出てくるのに、セックス禁止を言い渡された途端になんにも出てこなくなってしまい、途方に暮れていた私の代弁をしてくれたことに、ただただ感謝した。

 逆に浜尾さんは「あー、うー、えー……」とひとりで狼狽している。


「た、ただの、ファン心と言いますか、オタク心も申しますか……と、とにかく、かしこ先生がそれでも新しい挑戦をしたいって言うんだったら、ファンとしては支えますけれど。かしこ先生がチャレンジが原因でスランプに陥るくらいだったら、自分は反対でふゅ……」

「う……ありがとうございます……」

「で、ですけど、困りましたね? 自分、スランプとかってどうしたらいいのかわからないんで……ど、どうしたら、かしこ先生の力になれますか?」


 そう言われて、私は考え込む。

 とことん浜尾さんに甘えている気がする。ただでさえ、女性恐怖症の人にこれ以上甘えてしまってもいいんだろうか。私のスランプだって、セックス描写禁止から来ている訳で。


「……本当にどうしようもなかったら断るにしても、セックス描写以外でどうやったら代替できるのかよくわからないんで。本の買い出しに付き合ってもらってもいいでしょうか?」

「えっ」

「えっ」


 浜尾さんは私の申し出にあたふたとし出したのに、私また余計なことを言ってしまったかと焦って、気が付いた。

 一緒に住んでいるから意識していなかったけれど、そもそもこの人と一緒に連れ立って外に出るの、初めてだということに。


「あの、自分がかしこ先生と一緒にいて、大丈夫なんでしょうか?」

「いえ。むしろ私は振り回して申し訳ないって思ってますけど」

「かしこ先生に振り回されるんだったら、全然、大丈夫なんですけど……!」


 浜尾さんはあわあわしながら、大きく頭を下げた。


「ど、うにか。かしこ先生の邪魔にならないように、します!」


 私は目をパチパチさせながら「よろしくお願いします?」と言った。

 思えば。女性恐怖症の人がたつきのことはものすごく怖がっていたのに、私のことは作家としてしか扱わず、全然怖がらないんだよな。なにかあるのかな。

 一緒に住んでいるだけで、同棲とも程遠い関係だ。私は未だに浜尾さんのことをなにも知らないし、彼にずっと甘えている。

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