第59話 昌幸と家康
家康が雑兵たちの構える陣に足を踏み入れると、何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「武田様は懐の広いお方……。寝返った者も重用してくださる……。なにより、実力次第では城持ちにもしてくれるぞ!」
「あれは……」
聞き覚えのあるかん高い声。
間違いない。木下秀吉のものだ。
「なぜここに……」
飛騨での撤退で殿を務めた秀吉は、そのまま戦死したものと思われていた。
それが、なぜここにいるというのか……。
だが、そんなことはどうでもいい。
柴田勝家が討ち死にした今、秀吉の帰還は何よりも心強い。
「木下殿!」
家康が駆け寄ると、秀吉が「げぇっ」と顔をしかめた。
「と、徳川殿……」
「心配していましたぞ。てっきり、飛騨でお討ち死にされたものかと……」
「あ、いや、その……」
「む? こちらの御仁は……?」
家康の視線が真田昌幸に向けられる。
「それがし、真田昌幸と申す。武田家では侍大将を任されておる」
「なっ……」
昌幸の名乗りに、家康が絶句した。
家康だけではない。
秀吉もまた、昌幸の行動に目を剝いていた。
(なぜ素直に名乗る! ここは適当なことを言って誤魔化すところだろ!)
(恥ずかしながら、儂は嘘が苦手で……)
(嘘つけ!)
秀吉が小声でツッコむ。
「……驚いたわ。よもや武田の者がここに来ようとは……」
顔では驚きながらも、腰に下げた刀に手を乗せる。
隙あらばいつでも斬る。
そんな気配を漂わせ、家康が昌幸の様子を覗った。
昌幸もまた腰に下げた刀に手を伸ばすと──
「っ!?」
──刀を家康の足元に捨てた。
「なっ……どういうつもりじゃ!」
「こうでもせねば、徳川殿も話を聞いてはくれますまい」
家康が足元に投げられた刀に目を向けた。
……どうやら争うつもりはないらしい。
家康の力が僅かに抜ける。
それを見て、昌幸が薄っすらと笑みを浮かべた。
「話というのは、他でもない。徳川殿のかつての領地、三河のことよ」
三河と聞いて、家康の目の色が変わった。
「たしか、義信は三河に本拠地を移したのだったな……。義信に攻められ、三河を失った儂を笑いに来たのか」
「さにあらず。三河の国衆のことよ。
三河侵攻ののち、お館様は三河の国衆を手中に収められた。
しかし、未だに徳川殿を慕う者が多く、お館様も難儀されておる。
……そこでじゃ。お主、お館様の家臣とならぬか?」
「なに!?」
「もちろんタダとは言わぬ。郡二つ……いや、三つくらいならお主の領地としていいぞ」
「……………………」
三河を追われて以降、家康は事実上、信長の家臣となった。
とはいえ、心から忠誠を誓っているわけではない。
信長についたのも、あくまで義信を打ち倒し三河に帰り咲くための布石にすぎない。
しかし、いま義信に降れば三河の一部を返してもらえるという。
……悪い話ではないのではないか。
逡巡する家康に、昌幸が続けた。
「もちろん、郡三つとは言わぬ。働き次第ではあるが、武田家が天下を取った暁には、三河一国を領地に賜われるやもしれぬぞ」
家康の額を汗が伝った。
昌幸に提示された条件は破格のものだ。
現状、兵数では優位となっているものの、織田軍に勢いはない。
それなら、武田軍に降った方が、得なのではないか。
そこまで考えて、いやいやと首を振った。
「……武田家中は譜代も多い。新参者の儂が降ったところで、出世など望めるはずもなかろう」
「それは違いますぞ!」
口を挟んだのは、他ならぬ木下秀吉であった。
「飛騨戦役で捕らえられたのちは、それがしはお館様にお仕えしております。その儂が、今では侍大将にまで任ぜられておる。
この儂が侍大将なのだ。徳川殿であれば、国持ちなどあっという間よ」
「木下殿……」
実際に寝返った秀吉の言葉は、どこか説得力があった。
少し考えると、家康が口を開いた。
「此度のお話、実にありがたいことだ……」
「では……」
「されど、どうあってもそれは呑めぬ」
岡崎城から脱出する際、徳川家臣たちは命を賭して家康を逃してくれた。
その家康が武田家臣となっては、あの世で家臣たちに合わせる顔がないではないか。
「この徳川家康、仇敵に尻尾を振るくらいなら、潔く死を選び申す! ゆえに、何があっても武田義信に降るなどありえぬわ!」
「それは残念……」
真田昌幸が少しも残念でなさそうに言う。
「武田の間者め! 晒し首にしてくれる!」
刀を抜くと、家康が襲いかかった。
すんでのところでそれを躱すと、昌幸は家康の足元を指差した。
「気をつけろ。お主の足元に落ちているそれは、紛れもない名刀じゃ。世が世なら、城一つ手に入るようなシロモノよ……」
「なに!?」
「えっ!?」
家康の視線が、ついでに秀吉の視線が足元の刀に寄せられる。
その隙に、昌幸は辺りの雑兵に向けて声を張り上げた。
「武田軍につけば、恩賞は思いのままぞ!」
懐から小粒金をバラ撒くと、雑兵たちの足元に転がった。
「これって……」
「金だ!」
「金が落ちてるぞ!」
雑兵たちがその場に群がり、我先にと足元の金を拾っていく。
雑兵たちに紛れるように、昌幸と秀吉はその場をあとにするのだった。
二人を見失うと、家康は思わず地団駄を踏んだ。
「くそっ!」
と、足元に落ちている刀が目についた。
『気をつけろ。お主の足元に落ちているそれは、紛れもない名刀じゃ。世が世なら、城一つ手に入るようなシロモノよ……』
昌幸の言葉が脳裏をよぎる。
「……………………」
せっかくの名刀だ。
敵が捨てたものとはいえ、捨て置くには惜しい。
昌幸の放った刀を、家康はそっと懐に仕舞うのだった。
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