第15話 ショックです
ビアンカには、兄より先に帰るという発想はなかった。家のなかが息苦しくて、家族の関係がよそよそしく感じられる。
父はほとんどいないし、母はジュリアンに付ききりだ。そのうえ、ビアンカは専属のメイドに見張られているような気がして、あの家にいるととにかく息が詰まる。
皆厳しくも親しみやすい人ばかりだった修道院が懐かしい。街の人々も信心深く、修道院は穏やかな海辺の街の安らぎのシンボルとなっていた。
今日は学園の図書館ではなく、カフェテラスで紅茶を飲みながら勉強することにした。
全体的に天井が高く窓が大きく、中央部分が吹き抜けになっているので、日当たりがよく解放感がある。兄には図書館にいるようにと言われたが、少しくらいここにいてもいいだろう。
午後の日差しに少しうとうとしながら、教科書のページを繰っていると人影が差す。
「ビアンカ様、ここ、いいかしら?」
コリンズ侯爵令嬢ナタリーと供のようにいつも付き添っているケリー・ハミルトンだ。同じクラスだが、彼女達とは話したことはない。いったい何の用だろう? ビアンカは不思議に思いつつも「どうぞ」と席をすすめる。
「記憶がないという噂を聞きましたが、どれくらいないのですか?」
ナタリーはビアンカを知っているのかもしれないが、ビアンカにとってはこれが初めましてだ。いきなりそんなことを聞くなど、少し不躾な気がする。
本当に学園の日常は記憶喪失にやさしくない。しかし、だからと言って嘘を吐くのも面倒だ。
「さっぱり覚えていません。同じクラスなのでお名前は存じておりますが、ナタリー様もケリー様も『初めまして』と言う感じです」
「初めまして」を強調したビアンカの言葉に、二人は一瞬鼻白んだ。しかし、ナタリーの方がすぐに態勢を立て直す。
「それでは初めましてから始めましょうか?」
悪びれもせずにっこりと笑う。
「そうですね。そうしましょう」
ケリーがナタリーに追随する。ビアンカはそんな二人のやりとりをぽかんとして見ていた。
「私達、以前お友達だったんです」
ナタリーが出し抜けにそんなことを言いだす。
「そうだったんですか? しかし、今まで話しかけてくれませんでしたよね?」
不思議だ。
「ええ、それは……ビアンカ様のご様子があまりにも変わってしまったので、話しかけづらくて」
そういうものだろうかと小首を傾げる。むしろ早々に声をかけてくれた方が心強かった。
「それで、フローラ様のことは今どう思っていらっしゃるんですか?」
「はい? フローラ様? ああ、スチュアート殿下の婚約者でしたっけ?」
すっかり忘れていた。名前と顔をおぼえるだけでも大変だ。
「いえ、まだ、婚約者ではありません!」
ナタリーがなぜか気色ばむ。
「そうですか」
ビアンカにとってはどうでも良い事なので、適当に相槌を打っておく。何しに来たのだろう? 彼女達とは関わり合いになりたくないと早くも思った。
「それで、婚約者でもないのに、べたべたとしているフローラ様をみてどう思います?」
また同じことを繰り返す。
「別にどうとも思いません」
興味がない。そんな事より、今度のテストで五十位以内に入らないとまた父から怒られてしまう。勉強時間が削られてしまうので、早くもこの訳の分からない会話を終了させたくなった。
「どうとも思わないって……。だって、ビアンカ様は、スチュアート殿下とフローラ様がお付き合いしているのが、辛くて自殺なさったのですよね?」
それを聞いた瞬間ビアンカの頭の中は真っ白になった。
「え? えーー! な、な、なんてことでしょう! 私が自殺?」
気付くと大声をあげ、驚きのあまり、無意識で椅子からガタンと立ち上がっていた。
ナタリーとケリーはビアンカの激しい反応に驚いた。少なくとも以前のビアンカならばカフェテラスで突然叫んだりしない。
「あら、やだ。そんな大げさに」
「そ、そうですよ。ビアンカ様、落ちついてください」
二人が呆れながらも、慌ててビアンカを宥める。
「これが、落ちついていられますか! 自殺は大罪よ。私がそんな罪を犯していたなんて……。もうだめだわ。もう終わりだわ!」
ビアンカはぶるぶると震え、顔を苦痛にゆがませる。二人は感情をあらわにしたビアンカに目を白黒させた。それに、何が「終わり」なのだろう? 意味が分からない。
彼女達はもちろん知らない。記憶を失くしたビアンカが修道女となることをこころの支えにしていたことを。もちろん兄にも将来の夢が修道女などと話していない。
しかし、自殺していたとしたら……神の教えでは自殺は大罪、修道女の道は絶たれるかも知れない。
いつの間にか涙が頬を伝い、あとからあとからあふれ出る。次の瞬間ビアンカは、カフェテラスを泣きながら飛び出していていた。
残された二人は、感情をあらわにする公爵令嬢に、ただただ呆気にとられた。
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