肉を狩る。そして迷いエルフを拾う

 翌朝、ティレンはしばらく過ごした前線基地を出た。ねぐらはさっぱり片付けたから、戻った頃には後からやって来た他の誰かが使っているかもしれない。あるいは百八十五層の攻略を終えて、次の階層に進んでいるかもしれないという不安が脳裏に浮かぶが、それはないなとすぐに否定する。


「あの広さならまあ、大丈夫かな」


 百八十五層を牛耳っていたモンスターは、すでにティレンとヴァルハロートを中心とした討伐隊によって撃破されている。亜神デミとか呼ばれる人型の大型モンスターだったが、彼らにとってはそれほど手こずる相手でもなかった。

 そのまま次の階層に進んでも良いのだが、何しろ一層一層が広いのがこの迷宮だ。ティレンが見つけたアンブロージャの群生地だって、ティレンが最初に見つけるまで半年は発見されていなかったことになる。階層の地図が完成するまで次に進まないというのは、最前線で過ごす彼らの不文律だ。

 次の階層に進むまでにはまだ随分と時間がある。百八十四層と繋がる空間の穴をくぐって、ティレンは地上への旅の第一歩を踏み出した。

 見送る者もなく、寂しがる者もない。誰が地上に戻る時もそんな感じだ。どうせすぐに戻ってくる。最前線に立つ者たちは、誰もがそれを疑っていない。


***


 百六十層の前線基地で生まれたティレンは、百七十三層の攻略の頃から迷宮攻略に参加しはじめた。

 そのため、百六十層までの道行きはほぼ完ぺきに覚えている。

 食糧の補充が利く階層も、利かない階層も十分に熟知していると言って良い。

 するすると、階層と階層を繋ぐ空間の穴から穴へ、最短距離を進む。

 ティレンに襲い掛かるモンスターは決して多くない。彼我の実力差が分からない若い獣か、命を持たない被造物系かのどちらかだ。

 背中に差した長剣を抜くことなく、骨製の鉈でそれらを撃破していく。

 前線基地を通っては顔見知りと挨拶をして通り過ぎていく。まだ寝床を借りるほど疲れてはいない。

 最前線ではない基地に残っている顔見知りの事情は様々だ。怪我や病で療養している者、先祖が遺した『宿願』がこの階層にあると踏んで腰を据えて探すと決めた者、あるいは先の階層に実力が及ばないと判断して現在の階層を終の棲家と決めた者だ。

 珍しいところだと子育て中の親子や、地上や下の階層から物資などを運んできた商人というのもいる。

 百七十二層に入ってしばらく歩いたところで、ティレンはふと足を止めた。


「悲鳴?」


 女性の悲鳴らしきものが、遠く聞こえたような気がした。

 森と草地の多いこの階層は、探索の最前線である百八十五層と雰囲気が近い。

 前線基地まではまだ距離がある。この階層に住むモンスターは狼系だ、人に近い叫びを上げるような種類はいなかったはず。となると、誰かが襲われている?


「行ってみるか」


 走り出す。

 不自然ではある。百層より深くまで潜るような探索者は、モンスター相手に悲鳴を上げるほど軟弱ではない。たとえ自分より強いモンスターを前にしても、死ぬ寸前まで活路を見出し続けて動く。それが出来なければ淘汰されていくのみだ。

 探索者ではない可能性もある。護衛を連れた商人が護衛に騙されたり、護衛が道を間違えたりということも時折あると聞く。

 ティレンの鋭敏な感覚が人の気配を捉えた。数体の狼に包囲されているようだ。人の気配は明らかに弱々しい。怪我をして弱っているといった様子ではなく、そもそもの命の気配が薄いような。

 狼たちがこちらに意識を向ける前に、加速する。仲間内から最速と評価されている健脚で一気に距離を詰めれば、見えたのは火炎の壁と、それを遠巻きにしている狼たち。そして、火の壁の中に一人の女性。


「無事かい!?」

「!?」


 抜き打ちに骨の刃で狼の背骨を叩き折りながら、声をかける。

 熱を発する壁の中にいるにしては、顔色が悪い。どうやら腕を噛まれたらしい。右腕から出血している。悲鳴の理由はこれだろうか。

 狼たちの警戒が一気に高まった。

 だが、ティレンにとっては数も含めて敵ではない。ここでの正解は、獲物を諦めて全速力で逃げることだった。そうすれば、何匹かは生き延びることが出来ただろうに。

 ティレンは刃を持っていない方の手を天に向けてかざす。


「銀雷」


 唐突に。雨雲も黒雲もないのに、空から稲妻が落ちた。

 狼ではなく、ティレン本人にである。無論これは攻撃ではなく、元より超人的な素早さを更に向上させる強化バフだ。

 音を置き去りに、腕を振り抜く。骨の刃に首をひっかけられた狼が、断末魔の悲鳴を上げることも許されず近くの仲間に叩きつけられる。

 炎の壁が強く揺らめく。

 ティレンが狼の群れを無慈悲に全滅させるまで、ふた呼吸ほどの時間だった。


***


 耳が長い。

 ティレンが女性に対して最初に持った印象はそれだった。

 顔色が悪く見えたのは、生来の色白もあったようだ。傷を水で洗ってから薬草を塗り込み、包帯を巻く。随分と怯えた様子の彼女に関わったのはそこまでで、ティレンはすぐに狼の解体を始める。

 せっかくの非常食だ。直接雷を落として駆逐しなかったのは、雷で変に焼き殺すと血臭が浸み込んで味が落ちるからだ。

 足首と首筋を手早く裂いて、血を抜く。手頃な樹木が近くにあったのは良かった。ロープを引っ張り出して枝にかけて、狼の肉に手早く結ぶ。

 せかせかと作業を続けていると、耳長の女性はようやく落ち着いたようだ。おずおずと声をかけてくる。


「あ、あの。助けてくれてありがとう」

「うん」


 二匹目はひときわ大きな個体を選んだ。

 干し肉にするには時間がかかるし、悪くなるまでに食べきれる量でもない。残りは打ち捨てていくことに決める。

 慣れた作業なので手際よく進める。ぼんやりとこちらを見てくる女性に、


「俺はティレン。あんたは?」

「え? あ、アリアレルム。エルフよ」

耳長族エルフ?」


 まさかの答えに、ティレンは思わず狼の首を一息に切り落としてしまった。

 それはまあ、別にどうでも良い。


「何でまたこんな所に。エルフは確か掟で百層よりも深くまでは来ないんじゃなかったのか?」

「や、やっぱりここは百層より深いの!?」

「は?」


 話が噛み合わない。

 エルフは最初期に神授の迷宮に挑んだ種族のひとつで、種族としては攻略を最初に諦めた長命種でもある。

 長命種は種族としては七種が迷宮に挑み、百層を過ぎて心折れたドラゴニュートを最後に、迷宮の攻略からは手を引いた。

 とはいえ諦めたと断言するのは迷宮を創り上げた天神にまずいと思ったのか、裏方として支援をすると表明している。

 エルフは百層までの前線基地間の護衛を主な任務としているが、時折百層の奥を目指そうとする変わり者が現れる。

 ティレンはアリアレルムがその変わり者の一人なのだと思っていたのだが、そうではないのだろうか。


「あんたは『変わり者』じゃないのか?」

「え!? い、いえ。『変わり者』よ?」


 妙な言い方だ。まるで、そう答えろと誰かに教えられているような。

 怪訝な顔でじっと見ると、アリアレルムは程なく両手を挙げた。


「……ごめんなさい。百層越えの連中に会ったら、『変わり者』だと名乗れって言われているの。そうじゃないと殺されるって」

「何だそりゃ。変な噂が立ってるんだな」

「あ、でも百層を越えようと思っていたのは本当。だからそうね、掟を破るつもりの私は『はぐれ者』なのかもしれないわ」

「へえ」


 はぐれ者だと言った時の言葉には、嘘を感じなかった。納得したと頷くと、アリアレルムが溜息交じりにここに来た理由を話してくれた。


「簡単な話よ。七十二層で、転移罠にかかったの」

「七十二? 百層飛ばしの転移罠かあ。そんな代物、初めて聞いたな」

「ひゃ、百層飛ばし!?」

「ああ。ここは百七十二層。『餓狼の楽園』と呼ばれる階層だよ」


 アリアレルムは唖然とした顔でこちらを見ている。

 百層飛ばしの転移罠など、ティレンも初めて聞く。自分がかかったら最前線をだいぶ更新することになるな、と考えて軽く微笑む。被造物系モンスターしかいない階層でさえなければ、後ろが追いついてくるまでは食いつないでいられるとは思うが。

 ともあれ、今はアリアレルムだ。


「最前線に行きたいなら、前線基地で護衛を雇うのが一番いいだろうね。そこまで送ろうか?」

「最前線!? さすがにそこまで行こうとは思わないわ。実力不足なのは嫌というほど実感したし、出来れば一度七十二層まで戻りたいんだけど」


 仲間も荷物も置いて来ちゃっているし、と肩を落とすアリアレルム。

 行くにしても戻るにしても、前線基地で護衛を雇うのが良いのは変わらない。だが、戻るのであれば提案できることがもうひとつある。


「それならそこまで一緒に行くかい?」

「えっ」

「俺も地上に向かう途中なんだ。あんたが良ければ、護衛の真似事くらいはしても構わない」


 アリアレルムがううんと唸った。自分が百七十二層にいることも含めて、ティレンの言葉を信じられるか迷っているのだろう。中々良い警戒感と心がけだと少しばかり感心する。


「……ぜひ、お願いします」


 じっくり迷った後、アリアレルムは深々と頭を下げてきた。

 葛藤はあったが、生きて戻るにはティレンに縋るほかないと判断したらしい。


「それじゃ、よろしく」


 ティレンは軽い調子で頷くと、二匹目の狼を木に吊るした。

 同行者が増えたなら、もう一匹くらいは吊るしても良いかもしれない。

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