キミノヒカリ

三毛猫マヤ

キミノヒカリ

 メモにはただ一文――朝食は食パンでお願いします、とだけあった。


 幼い頃に私の両親は離婚していた。

 離婚の理由は知らない。

 聞いたところで結局は「価値観の違い」なんて一言で変換出来てしまうものにさして興味もかなかった。


 母親は幸い以前に勤めていた会社でその実績を認められていて、祖父母に私を預けると仕事に復職した。

 私が中学生になる頃、母親の仕事で異動があり、隣町に引っ越す事になった。

 祖父母と別れ母親とのニ人暮らしが始まり三年の月日が流れた。私は高校生になった。



          ◆◇          


 駅のホームに立ち、彼女が来るのを待つ。

 しばらくして私の後ろを通り過ぎるいつもの靴音が聞こえた。

 コツコツとアスファルトに響く小気味良い音は私と同じ一両目の位置で止まる。

 顔を上げると左前方にその人物はたたずんでいた。

 長身のスーツ姿の女性。肩口まで伸びた髪はからすの濡れ羽のようにつややかだ。背筋をピッとした立ち姿は美しく、同性の私が見ても魅力的だった。

 名前すら知らない彼女に私はかれていた。


 電車に乗ると彼女は大抵イヤホンをして降車駅ひとつ手前まで目を閉じている。目を閉じた彼女の口元にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいて、それを見つめていると不思議と胸が暖かくなるのだった。


 私と彼女の降車駅ひとつ前に到着してホーム側のドアに立つ。

 彼女との距離が一番縮まる瞬間だった。

 いつもなら席を立つはずだけど――そっと彼女を見ると、小さく船をいでいた。

 昨日は遅くまでお仕事大変だったのかな?    

 それとも、夜更よふかしでもしたのかな?

 そんな事を思いつつこのままでは乗り過ごしてしまうのではないかと心配になる。

 声、かけようかな? でも、いきなり話しかけたら警戒されそう。 

 電車に乗るとすぐに目を閉じてしまう彼女は私の事を認識していない可能性があった。

 声をかけてもし明日から別の車両に乗られたりしたら正直へこむ。でも声をかけずに下車したら、きっと私はモヤモヤした気持ちを抱えたまま今日を過ごすことになる気がした。


 彼女の隣に座り軽く揺する。

 髪が揺れ、ふわり――かすかに花のやさしい匂いが香る。

 起きる気配はない。私は口元に手を添えて、内緒話をするようにして声をかける。

「……あ、あの……もし、もーし、聞こえますかぁ? そろそろ駅に到着しますよ~。あ、私は怪しい者ではないです。同じ車両に乗っている、女子高生です。身長は、百六十センチくらい欲しいです。体重は秘密…です」

「ふはっ……」

 彼女が吹き出した。

 驚いて、おそるおそる見るとクスクス笑う彼女と目が合った。

「そ、その……お、おはよう、ございます」

「あはは、おはようございます。私を起こしてくれてるのかと思って聞いてたら、途中から急に語り始めたからおかしくてつい。あなた、いつも私の向かい側に座ってる学生さんだよね。声をかけてくれてありがとう。わざわざ起こしてくれるなんて、キミ、チョ~いい奴だね♪」

 ニッと笑いかけられる。

 初めて話す彼女から親しげな笑顔を向けられて戸惑いつつも、覚えられていた事実に驚きと喜びと恥ずかしさ等がない交ぜになり、反応に困った私は視線をらして「ど、どうも」とぽしょりと呟いた。

「お、そろそろ駅に着くね」

 彼女が立ち上がる。

 私も急いで立ち上がろうとして――電車が強く揺れ、バランスを崩す。

「おっと」

 彼女が私を抱き止める。

 ぎゅっと――――抱きしめられる形で支えられる。彼女の体温と花の匂いがして、頬にやわらかいふくらみを感じた。

 いい匂い……暖かくて気持ちいい。

 その匂いを、どこかでかいだ事があるような気がした。

「大丈夫かい?」

 ハッとして離れる。

『わ、私、その、ご、ごめんなさい!』

 ドアが開くとそのまま逃げるように改札へと走った。

 他の乗り換え客にならい階段を駆け上がる。改札を抜けて角を曲がると体に衝撃が走りよろけた。

「いってぇ」

 男の低い声に、自分が人にぶつかったことに気付いた。

「…そ、その…ごめ…」

 謝ろうと思っても、気持ちばかりが急いて、声が思うように出て来なかった。

「んだよ、っぶねーな!」

 男は悪態をついてそのまま去っていった。

 とぼとぼと駅の出口へ歩いた。


 ……うそ。

 駅発のバスに乗り、タッチしようとした時、定期券がないことに気付いた。

 さっきぶつかった時か。見つかるかなあ。

 ため息をついて整理券を取った。



          ◆◇


 昼休みに友達と話をしているとスマホに着信が入った。

「もしもし?」

「もしもし、桜沢警察署の者ですが、ツキシロリッカさんですか?」

 ドキリとした。警察ときいてなんとなく居住まいを正す。友達と離れ、すぐ脇の引き戸から廊下に出る。

「…はい、そうですが」

「急な電話ですみません。あなたの物と思われる定期券がこちらの警察署に届けられていたので連絡しました」

 強張こわばっていたほおゆるみ、肩の力が抜けた。

 そのまま定期券の区間やパスケースの特徴を確認され、放課後警察署に取りに行く事になった。通話を切ろうとした、その時。

「ふふ、楽しみ……」

 そう聴こえた気がした。


 放課後、友達と別れ警察署へ向かった。

 警察署に入りすぐ右側に『おとしもの、ひろいもの』と書かれたプレートの貼られたカウンターの前に立つと、手前のデスクに居た女性と目が合う。

「え?」

 私は驚いて固まった。

 その人は私のところへまっすぐ向かってくると開口一番。

「こんばんは。あ、怪しい者ではないですよ。一応、警察の事務職員です。身長は多分百六十七センチくらい? 体重は秘密です」

 口もとに手を添えて、声をひそめて言うとスーツ姿の女性が笑った。

 毎朝私が電車で見かける女性は警察署の職員だった。


 受領書を記載して定期券を受け取り、警察署を後にして自転車置き場へ着いた時、後ろから声をかけられた。振り返ると先ほど落とし物の対応をしてくれた女性が佇んでいた。

「あの、ひとつ聞いてもいい?」

「…はい」

「お父さんとはあれから会えたの?」

「え?」

 彼女をまじまじと見つめる。

 風が吹いて、彼女の髪が揺れると私の鼻腔びこうをいつかかいだ花の香りが包んだ。

 彼女が穏やかに微笑み、一歩踏み込む。そして――私を抱きしめていた。

 突然の事に驚きつつも、不思議と居心地がよくて、私はおとなしくそのままでいた。


 ……目を閉じると、頭の片隅に埋もれていた記憶が、静かに口を開けた……。


「……こはく、お姉ちゃん?」

「久しぶりだね。いたかったよ、六花りっかちゃん。じゃあ、また明日ね」

 そう言って、彼女は私にメモを渡すと警察署へと戻って行った。

 


         ***          


 夜、久しぶりにあの夢を見た。

 幼い頃、私は母親から突然「六花、明日からお父さんとお母さんは離ればなれに暮らすから」そう告げられた。

 きょとんとする私に、続けてお父さんが言った。

「六花は、お父さんとお母さん、どちらと一緒がいいかな?」

 そんなこと、当時五歳だった私に選べるわけがなかった。

 首を振ると、大好きなクマのぬいぐるみを落とすのも構わずに、家を飛び出していた。

 もちろん幼い私に行く宛なんてなかった。私は家から少し離れた公園に逃げ込んで、ベンチの隅で足を抱え途方にくれていた。

 夕暮れ時の太陽はとても綺麗だった。

 綺麗なのに、見ているとなぜか胸がちくちくと痛んだ。

 通りを親子連れの家族が歩いていた。

 父親におんぶされた男の子が怪獣のオモチャを振り回して叫んでいた。

 あの子は、こんな悲しみがあるなんてきっと思いもしないんだろうな。

 私だって知りたくなかった。

 何で、私だけ……。

 そう思うと、鼻がつぅんとしてくる。

 胸の痛みと相まって、次第に視界がぼやけていった。

 私は膝の間に顔を埋め、肩を震わせた。

ふわりと――花の香りがして、顔を上げた。植え込みにある山梔子くちなしの花が微かに香っていた。

「こんばんは」

 そんな時、お姉ちゃんが声をかけてくれた。

 その穏やかな笑みを見ていると、不思議と胸の痛みがやわらぐような気がした。


「…あ、あのね……」

 気が付くと、私は見ず知らずの彼女に両親が離婚することを話していた。

 つたない言葉で綴られる話を黙って聴いた後、彼女はそっと私を抱き寄せると、眠りに落ちるまで背中をやさしく撫でてくれた。


 気が付くと私は迎えに来た母親におんぶをされて家へ帰っていた。

 私は妙にすっきりとした気持ちで父親との別れを受け入れる事が出来ていた。

 以来、彼女と出会う事はなかった。



          ◆◇


「おはよー、六花ちゃん!」

「おはよう、美綴みつづりさん」

「もう、固いな~、琥珀でいいってばよ!」

 翌日から電車で話をするようになった。

 明るい彼女のおかげで、数日の内に私は彼女を琥珀(昨日連絡先のメモを受け取った時に名前を知った)と呼ぶようになり、土曜日に買い物へ出かける約束をした。



 土曜日。電車に揺られて約一時間――目的地のショッピングモールに到着した。

 琥珀は可愛い系のキャラクターグッズに目がなかった。

「すみませ~ん、ここの棚の商品全部ひとつずつくださ~い♪」

「他にも見るから取り置きしておいたら?」

「そう? でもお金あるし、クレカもあるよ!」

「そんなに使うの?」

「さぁ? こういうの初めてだから、よくわからなくて……あ、あそこのアイス屋さん知ってる?」

「うん、普通に美味しいよ」

「普通に美味しいって、何か変なの。よし、すみませ~ん、コーンでクワトロお願いします♪」

「初心者がいきなり四段重ねとか、難易度高過ぎだよ!」

「そう? じゃあじゃあ、おごるから、ダブルふたつ買って半分こしようよ!」

 琥珀がニッとして、両手をカニのようにピースする。

「いいよ。あ、自分の分は払うよ」

「ま~ま~、気にしない気にしない。これくらいお姉ちゃんに支払わせてよ!」

「でも……」

「あはは、マジメさんだねぇ。あ、会計はカードで!」

「はい」

 ピッという電子音がしてあっさり会計を済まされてしまう。

「は~い、食べよ食べよ~♪」

「お、お金……」

「はい、あ~ん」

「あむ……」

 話してる途中にスプーンを口に突っ込まれ、有無を言わさずアイスクリームをあーんされたのだった。


「ねぇねぇ、この【ヤンデレ編集者の締切地獄】とかいう映画、超怖そうじゃない?」

「あの、私、怖いの苦手で……」

「すいませ~ん! 大人と高校生のニ枚で」

「ちょっ!」

「さぁ、行こ~!」







     ――――数分後――――     


「ぎゃああああっ! ごわいいいぃっ!!」

「だから言ったじゃないですか、ほら、他の人に迷惑だから」



 そんな感じで暴走する彼女にさんざん振り回されたのだった……。



 夕方、私たちはフードコートのテラス席に向かい合って座っていた。

「今日はありがとね、六花! めっちゃ楽しかったよ♪」

「そう。というか、これだけ振り回されてつまらなかったとか言われたら、多分私は琥珀に殺意を覚えてるよ」

「あはは、JKに面前で脅迫されちゃったよ♪ ところで、六花ちゃん。今更ながら聞くんだけど、お昼ご飯はフードコートの素うどん(小)なんかで良かったの? せっかく奢ってあげたのに」

「誰かさんが、片っ端から、買い食いするのに付き合わされて、胃もたれして逆に素うどんくらいしか、受け付けなかったんだよ! ていうか琥珀、あれだけ食べて今もキーマカレー特盛頼むとか、どんだけ健啖けんたんなのよっ?!」

「え? カレーは飲み物でしょ?」

「あははははは」

「わははは~」

 何かもういいや。はい、思考停止。


 食事を終えた琥珀が周囲に人が居ないのを確認してから、そっと聞いてきた。

「あれからお父さんと会ってる?」

「ううん。でも、もういいの。あの時琥珀になぐさめられたら、何か急に気持ちが吹っ切れちゃってさ。母親には一度だけ会いたいかって聞かれたけど、断った」

「そう?」

「うん。まあ、長距離トラックの運転手だったから家に居ないのが普通な人だったし、思い出もほとんどなかったしね。それに、もう別の家庭を持ってるみたいだし……」

「そっか……」

「そんな顔しないで、本当に平気だからさ。それより……」

 私はふと気になっていた事について聞いてみた。

「バッグに付いているペンギンのキーホルダーって、誰かからのプレゼント?」

「……ああ。これは、お母さんの忘れ形見なんだ」

「……ご、ごめん」

 軽い気持ちで聞いてしまった事に後悔した。

「いいよ、もう十年前の話だしね。それより、よかったら話、聞いてくれるかな?」

「いいの?」

 私は居住まいを正す。

「うん、六花ちゃんに聞いて欲しいな」

 静かに微笑んで、琥珀は語り始めた。

 

 中学ニ年生の時に、彼女は母親と死別した。

 身近な人の死から、人はいつ死ぬかわからない。そのいつは明日かも知れないと、そう思うようになっていた。

「それでさ、私も弟も早く父親を安心させたくて、高校を卒業して就職したんだ」

「そう……なんだ」

 それ以上、何も言えなかった。

 黙り込む私に彼女は笑った。

「あはは、辛気しんきくさい話してごめんね。でもさ、私や弟が就職した時にお父さんすごく喜んで仏壇に報告してたんだ。だから、きっとお母さんも喜んでくれてるって思ってる」

「そっか……」

「だから、今日遊べてすごく嬉しかった。高校時代、バイトと就職の勉強しか記憶になくて」

 そんなことをさらりと言われてしまい、反応に困る。 

 でも、私に出来ることをしようと思った。

「ねぇ…また、一緒にどこかへ出掛けよう」

「へ? いいの?」

「あ、当たり前でしょ。だって、琥珀はもう…私の…と、友達……なんだから」

 話している途中で恥ずかしくなってきて、声が尻すぼみになっていた。

「へへ、ありがと。やっぱりキミ、チョ~いい奴、だね」

 にへへっと笑い、手のひらをぎゅっと握られた。瞳は心なしか潤んでいるように見えて、その光に私の胸はじんわりと熱くなるのだった。



 それから、琥珀との日常が始まった。

 メッセージやスタンプを送り、寝る前には電話をした。

 放課後はお互いに調べたカフェでお茶をしたり、夕飯の買い物に付き合ったりした。

 週末になると電車で遠出をしたり、琥珀の運転する車でドライブに出掛ける。

 私の日常は琥珀との時間でいろどられていった。


 私の中で琥珀の存在が少しずつ大きくなってゆき、友達から親友へ。

 やがて――それは小さな恋心へと、変わっていった……。



          ◆◇


 窓の外には薄暗い雲が居座っていて、今にも雨が降りそうな気配がした。

 天気予報では、夕方ぐらいから台風が接近して大雨になるとの事だった。


「おはよ、六花」

「おはよう。今日は仕事早く上がれそう?」

「んー、まあ田舎の職場だし、突発事案とかなければね。一応今日はノー残業デーだし」

「そっか。弟さんは?」

「アイツは今日当直だってさ。今回、台風ヤバそうだから、ろくすっぽ仮眠出来ないってなげいてたわ」

 琥珀の弟は警察官だった。

 私の落とした定期券は、交番勤務の弟の手で警察署へ届けられたのだった。

「お母さんは早く帰れそう?」

「わかんない。連絡してもどうせ既読なんてほとんどつかないし。それにこういう時は大抵職場に泊まってるよ」

「そっか……ねぇ、今日うちに泊まっていかない?」

「え?」

「ひとりで家にいてもつまらないでしょ?」

「いや別に。普段からひとりだし」

「即答かよ。レス早いな! メールダエモンさんかい!」

 と、琥珀がふいっと横を向いて毛先をくるくるしながらぽしょりとつぶやいた。

「そ、そのさ、これは例え…だよ? 台風の夜とか、ひとりで居ると不安にならない?」

 頬を染め、心配そうにまゆを寄せる。

「へぇ、琥珀、怖いんだぁ?」

 クスリと笑う。

「だから例えだって言ってるじゃん! 勝手に私と決めつけるなし!」

「ふぅん」

「何よ、その視線は?」

「べっつにぃ~、ま、琥珀がそこまで言うなら? 今晩泊まってあげてもい~けどねぇ♪」

「い、いやいや、怖くねーし! いつもは弟に泊まりに来て貰ってるから全然ヘーキだし!」

 焦りすぎて墓穴を掘っていた。

「……そう? なら止めとくわ」

「り、六花ぁ~」

「あはは、ごめんごめん。わかったよ」

 私はうるうるしている琥珀の頭をやさしく撫でるのだった。



           ◆◇


 放課後、琥珀と合流してスーパーで買い物をすると、泊まる準備のため、家へ向かう。

 駅の入り口で荒々しい風の音に空を見上げると、雲がすごい勢いで流れていた。

 断続的に吹き付ける強風に傘を持つ手があおられて、横殴りに降り注ぐ雨のせいで傘はあまり意味を成さなかった。

 さっき水たまりを踏み抜いたせいで靴下が貼り付いて気持ち悪い。

 家に着いたら一旦シャワーを浴びて、それから泊まる準備をしよう。


 家が見えるところまで来て、立ち止まる。

 なんで、こんな日に限って……。

 家から明かりがれていた。


「ただいま……」

 おそるおそるドアを開ける。

 リビングから母親が出てきた。

「お帰りなさい、遅かったわね」

「うん、ちょっと寄り道してた」

「何で台風が来てるのに寄り道なんてするのよ? 早く帰らないと危ないでしょう」

 雨にれて不快なうえに、いきなり頭ごなしに言われてムッとする。

 何よ、普段は私の事なんか気にも止めないくせに。こんな時ばかり母親ヅラしないでよ!

 心ではそう思いつつ、ぐっとこらえて謝る。

「ご、ごめん」

「ちょっと、びしょ濡れじゃないの?! 風邪引いたらどうするのよ?! 明日も朝早いんだから、あなたの面倒なんて見れませんからね!」

 そんなのわかってるよ。お母さんはお父さんと別れてから、ずっと私より仕事を優先しているものね。

 授業参観も、運動会も、文化祭も、いつもいつもいつも、来るのはおじいちゃんとおばあちゃんで、私はすごく恥ずかしくて、でもせっかく来てくれたおじいちゃん達にそう思う自分が嫌だった。

 入学式と卒業式だけは必ず参加する母親に、ズルい女、と思っていた。



 いつからか、私の胸にはぽっかりと穴が空いていた。その空いた穴へ、ちゃんと涙を注いでいれば、あるいはちゃんと寂しいと伝えてその胸に抱かれていれば、私と母親の関係はここまでこじれていなかったのかも知れない。



「……」

「どうしたの? ボサッとしないで、早くしなさい!」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

「あら? こんな日に何かしら?」

 私はハッとしてきびすを返した。

「六花っ?!」

 構わず玄関を飛び出す。

 門を開けるとそのまま車に乗り込む。

「り、六花?」

 私の様子にチャイムの脇に立っていた琥珀が慌てて車に乗り込んでくる。

「出してっ!!」

「え? で、でも…」

 琥珀が玄関から傘をさして出てくる母親を見つめる。

「いいからっ!!」

 琥珀は車を発進させた。

 


         ◆◇


 アパートの玄関に入り、施錠をした彼女が横目で私を見る。

「ごめんなさい……」

「ううん。私は別に……」

「ねぇ、琥珀……」

 私は彼女の腕をつかむと、頭を擦り寄せる。

「り、六花…ちゃん?」

 こちらの突然の行動に琥珀が驚きつつも愛想笑いを浮かべる。

「ねぇ、キス……しよ」

 腕をきゅっと抱き寄せて、流し目でちらりと見上げると、琥珀が頬を染めて一瞬固まった後、視線を泳がせてもじもじとする。

「え……と、そ、それは……ちょっと……」

「私じゃ、イヤ?」

「そ、そうじゃなくてさ……ねぇ、とりあえずシャワー浴びよ。風邪引いちゃうよ……」

「……何であいつと同じ事を言うの?」

「え?」

「私の事なんかどうでもいいよ。どうせいらない子なんだから」

「そんな事、ないよ」

 琥珀が私の頭を撫でながらゆっくりと言葉を紡いだ。

「きっと、あなたのお母さんはひとり親という事で経済的に不自由な思いをさせないように、毎日仕事を頑張っているんじゃないかな? 私の父親も、そうだったからさ……」

「そんなの、私は望んでない。そんなことよりも、私は……」

 祖父母は優しかった。けど、私が本当に一緒に過ごしたかったのは……。

「六花の気持ち、分かるよ。本来なら一番一緒にいるべき時に、大切な人と時間を共有出来なかったんだもの、寂しいよね……。大切な人に大事にされてないと思ってしまう気持ちも分かるよ。でもね、あなたはいらない子なんかじゃないよ。ただ、それを伝えてるのは私の役割じゃないから……。だから、私の気持ちだけ、まっすぐに伝えるよ」

 逸らしそうになる顔をなんとか上げて、琥珀の瞳をじっと見つめた。



 その瞳は、あの夕暮れ空の下に視た、幼くも暖かい、穏やかな光を宿していた。



「私さ、六花と買い物やドライブへ出かけて楽しかったよ。一緒に居るだけで笑顔になった。六花からいつも元気、貰ってるよ。自分をいらない子なんて、言わないで。私まで悲しくなっちゃうよ」

 ぎゅうっと一際ひときわ強く抱きしめられる。その痛みに、胸が熱くなった。それだけ、私の事を想ってくれている。必要とされていると思えたから。


 やさしい想いとやわらかなぬくもりに包まれて……いつの間にかあふれていた涙がれるまで――――ふたり、いつまでも抱き合っていた……。







          ◆◇


 熱めのシャワーを浴びると冷えきった体が生き返るようだった。

 湯船にかると体がじんわりとほぐれていくのを感じる。

 お風呂から上がると脱衣所に用意されていた下着を身に付けて、ペンギンのイラストが描かれたTシャツにグレーのハーフパンツ、パーカーに身を包む。

 パーカーのサイズが大きくて萌袖状態だった。ふと、気になって匂いをかいでみると琥珀の匂いがして、胸にぱぁっと小さな花が咲くようだった。

 鏡を見ると、桜色に頬を染める私がいた。


 リビングに入るとキッチンに琥珀がいた。

「ちゃんと暖まった?」

「うん。服、貸してくれてありがと。後で洗濯して返すね」

「相変わらずマジメだねぇ。ちょっとサイズ大きいけど、我慢してね」

「ううん、むしろ琥珀の匂いがして落ち着く」

「ええ?! 私ってそんなに体臭キツイ?」

「……琥珀って情緒じょうちょないよね」

「じ、情緒……初めて言われたわ」

「何作ってるの?」

 ミルクパンには白い液体が入っていた。

「はちみつ入りホットミルク、一緒に飲もうかなって」


 ソファーに座り、琥珀がマグカップを渡すと私の隣に座った。

「ハチミツ、多めに入れといたよ」

「えへへ、やった♪」

 カップに口をつける。

 とろりとした濃厚な甘味にほうっと息を吐くくと、気持ちがまあるくなる気がした。

 私はカップをローテーブルに置くと両手を膝の上にそろえ、口を開いた。

「琥珀、私、やっぱり帰るよ。このままじゃ琥珀が首になっちゃう」

「んー、その件なら多分、大丈夫かな」

「え?」

 シャワーを浴びている時、琥珀は位置情報で検索されないように私のスマホの電源を切り、当直の弟へ連絡して事情を説明し、アパートに近寄らないように伝えた。

 弟は最初難色を示していたが、幸い当直長が仲のよい人のため、うまく話してみると言ってくれたのだそうだ。

「とりあえず、今日だけはかくまえると思う。さっき上司に連絡して、明日の分の休暇貰ったから、明日、私と一緒に家へ帰ろう」

「……」

 うつむいて黙り込む私の手を、琥珀がそっと包み込んだ。

「……お母さんとの事は、多分すぐに解決する問題じゃないと思う。これから少しずつ、どうしたらいいか一緒に考えていこう」

「一緒に? でも……いいの?」

「もちろん。大丈夫、もしうまくいかなかったとしても、私がついてる。嫌になったり、ケンカしたらさ、いつでも私のところにおいで」

「そんな、琥珀に迷惑……」

 琥珀が目を細めて口元でゆるく笑むと私の頭をそっと撫でながら、言い含めるように伝える。

「いいの。六花はまだ、子供なんだから。もっと私を頼ってくれていいんだよ」

「……うん、ありがと。琥珀、チョーいい奴、だね」

「あはは、六花のが写ったのかもね」

 琥珀が快活に笑う。それだけで、私の不安な気持ちは少し明るくなった。

 琥珀が内緒話をするように手を添えて、私の耳に寄せた。

「ねぇ六花……キス、しちゃおっか」

 しっとりとした声音こわねが耳元でささやく。

 それだけで、胸がきゅうぅっと、締め付けられるようだった。

 胸を押さえ、ひとつ深呼吸する。

 目を開き、そろそろと横目で見ると琥珀が微笑みをたたえていた。

 木漏れ日を思わせる穏やかな光に誘われるように、頷いた。

 彼女の白く細長い指が耳をそっと包み込む。

 ひんやりとした指先が私の火照った頬の熱と混ざり合い、温もりを宿す。

 目を閉じる――――彼女と初めて出会ったときにかいだ花の香りと、はちみつの……甘い味がした。

「……んっ……」

 やわらかな部分から、じんわりと伝わる彼女の体温――――体がぬるま湯に包まれるように胸が満たされていった……。



 胸にぽっかりと空いた穴へ、とろりとした温かな液体が注がれてゆく。

 それは穴から溢れだしてもなお、流れ続け、やがて一条ひとすじの光となって私の頬を伝った……。







          ◆◇


 琥珀がおずおずと布団に入ってくる。

 さっきまであんなに頼もしかったのに、今は子供みたいに私の腕にしがみついていた。

「はぁ~、落ち着く~♪」

 見た目は大人なのに、全然大人じゃなくて、計画性がなくて、おバカで、甘えん坊で……でも、そんな彼女だからこそ、恋をしたのだと思うと、それすらもいとおしく思う。

 彼女の髪をかきあげて、おでこにそっとキスをした……。







 あなたと出会えたから…

 あなたが、隣に居てくれるから…

 私と一緒に寄り添ってくれると約束してくれたから……







 私は前向きな一歩を、踏み出そうと思う。

 ありがとう、琥珀……大好きだよ♪









        ⭐おわり⭐             

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