あと半歩の勇気
無頼庵主人
あと半歩の勇気(上)
「あと半歩前へ」
男性用の立ち小便器。その正面に立つと、壁のタイルの上に、こんな言葉のシールが貼られていた。
立ち小便器のしくみ、というか、造りは小便を垂直面で受けとめて、その流動体を伝わせて集約するように出来ている。
省スペースな仕様だが、存外に飛沫が散るものなのだろう。その飛沫を少しでも抑えるために「あと半歩前へ」出てほしいと言うのだ。
僕はそれをみて半ば無意識に、すすっと半歩……には及ばないが数センチほど前に足を動かす。
そう、こんな半歩でよければいくらでも前に出てやる。だが、本当に前に進みたいとき、半歩、いや、数センチ前に出るにもすくみあがってしまうものだ。そして、自分がいかに臆病な人間であるのかを、その数センチが教えてくれる。
「あと半歩前へ」
その言葉に揺れ動いたのは足だけでなかった。ほんの一週間前、ある晴れの日のことも脳裏をよぎった。というより、その日のことがずっと頭の片隅にあって、はっきりと認識されられたのであった。
その日は、風の強い日で、涼を与える樹々は大きくそよいでいた。レンガの形に形成された道を彩る木漏れ日たちもしきりに照り隠れしていた。
そのなかを駅にむかって歩いていた。木漏れ日が妙に鮮やかにみえるのは、隣に詠子がいるからに違いなかった。
詠子は職場の同期だった。三年前に僕と同じく中途採用で入社してきた。偶然にも歳が一緒であった。
日曜の緑道を歩く二人。いかにも美しいデートの景である。が、その実は逢い引きなどではなく、ただの用事の帰り道に過ぎない。
夏は各地で催事が行われる。この日はとある郊外の公立公園に出展し、家族連れ相手に自社のキャンプ用品を紹介していたのだ。
この頃のキャンプブームもあってか、反応は良好であった。この製品はブーム以前から沢登りを趣味としていた僕と、同じくハイキングを愛好していた詠子が主となって開発にかかわってきたものである。即売のためにもってきた段ボール一箱分の製品も、すべてテントの下で売り切れたのだった。
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