転(あるいは本編)

 べちゃり

 あるいは、ぐちゃり、という感触がする。


 夏奈は歩みを進めるたびに、空気が冷えていくのを感じた。

 これ以上進んではいけない、という命令が頭に流れ込んでくる。

 無事武田廃線跡地のトンネルへ侵入した夏奈と冬は、懐中電灯から出る白い光だけを頼りに一歩一歩ずつ進んでいく。

 その光が消えれば、あとは完全な闇である。

「何も起きないね」

 冬は残念そうにつぶやく。

 それを聞いた夏奈は、冬は本当に何も感じていないのだろうか、と思った。


 この異様は雰囲気に。


 ―耳鳴りがする。

 

 不意に懐中電灯の灯りがゆらりと揺れた。

「っ……」

 夏奈は思わず息を呑んだ。

 慌てて懐中電灯を振ると、からからと電池が動き小気味よい音がする。

 すぐに光は安定して、彼女は小さくため息をついた。

 二人の間に沈黙が流れる。

 べちゃり、ぐちゃり。

「いや、そんなことないわよ」

 突然、冬が声をあげた。

 夏奈は怪訝な顔をする。

「まあ、そうとも言えるね」

「……え、ふゆゆ?」

「え?」

 冬はゆっくりと振り返って、驚いた顔をした。

「……ふゆゆ、誰と喋ってた?」

「いや、いま、夏奈が……」


 耳鳴りがした。


 夏奈は立ち止まる。

「冬、やっぱり帰ろうって」

「待って。今の現象解明したい」

「そんなこと言ってる場合じゃ……!」

「場合だよ。だって、まだ何も起こってないじゃない」

 そう言われて夏奈ははっと我に返った。

 確かに、まだ、何も起こっていない。

 ただ異様な雰囲気と耳鳴り、幻聴が聞こえただけである。

「それは……そう、だけど」

「だからほら、早く行こう」

 冬は夏奈に向かって手を差し出した。

 夏奈はその手をぎゅっと握って、唇を結んだ。

「今のはわたしの耳がおかしかったのか、それとも夏奈が無意識のうちにわたしに呼びかけていたのか。どちらにせよ興味深いわね」

 冬はぶつぶつと考察している。

「冷たっ」

 再び夏奈の頬に水滴がぴちょんと落ちる。

 濡れた部分を右手で拭った瞬間。


 ―オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。


 と、地鳴りのような轟音がトンネルに響いた。

「っ……ひ」

 この時初めて、本当に恐怖を覚えた時は悲鳴すら上げられないんだということを、夏奈は知った。

「ふゆゆ!」

「動かないで!」

 冬が力強く叫ぶ。その声はトンネル内でオオオンという空虚な音となって反響した。

 彼女は真剣な表情で耳を澄まし、「うん、土砂崩れとかそういう類ではなさそう」と言った。

 あくまで冬は、現象を解明しようと思考を回転させているようだった。


 その時ふと、夏奈は口の中に違和感を覚えた。

 何か、糸のようなものが歯に引っかかっているような感覚。

「ん」

 舌を突き出して、右手を口内に突っ込む。

 糸のようなものを掴んで引っ張ると、それは思いのほか長く。

 喉の奥、食道のあたりを糸が這いずった。

「かはっ、え、なに?」

 ぬるりと口から出たそれを懐中電灯で照らすと、黒い色をしていた。

 それはよく見慣れた、人体の一部。

「髪の毛……えっ、うぅ、ゲホッゲホッ!」

 急激に喉に違和感を覚えた夏奈はむせかえり、慌てて喉に手を突っ込んだ。

 喉の違和感ごと引きずり出したその手には、数本、あるいは数十本の髪の毛が絡みついていた。

 夏奈は自分から血の気が引くのを感じ、気を失いそうになった。

「どうしたの、夏奈!」

「ひ……あの………………………………………………………………………………………………………………………………ふゆゆ?」

 冬に向かって懐中電灯を向けた夏奈は、その顔の形状に違和感を覚えた。

「……耳、それ、なにが出ているの?」

 冬の耳から何か棒状のものが出ている。

 その棒状のものは、うねうねと蠢いていた。

「なによこれ」

 冬は耳に手を当て、”それ”を掴む。

 ずるり、と引きずり出された”それ”は地面に落下し、しばらく蠢いた後、動きを止めた。

 蟲。

 脚と節の多い、蟲。

「ふゆゆ、あなた、耳は、なんとも、ないの……?」

「……ええ、特に」

 冬は耳を何度か叩き、あるいは指を突っ込み、自身の異常のなさを確認した。

 気が付けば蟲はどこかへ消えていた。

 夏奈の脳内に警鐘が鳴り響く。

 耳鳴りや幻聴どころではない。

 この空間は、やばい。

「ふゆゆ、帰ろう!」

 しかし冬は少しだけ笑顔を浮かべていった。

「ここまで理不尽な出来事、原因が理解できなかったらもったいないじゃない」

「あなた、この期に及んでそんな!」

 夏奈が叫んだ瞬間。

 懐中電灯の灯りがふっと、消えた。

「あああああああ! ふゆゆ、ふゆゆ、ふゆゆ、いる?」

「落ち着いて、いるわよ。単純に電池が切れたか接触が悪くなっただけ。いったんスマホのライトを出しましょう」

 言われた夏奈は震える手でスマホを取り出して、画面を点灯させる。

 すぐにライトを点灯させ、冬の方向に向ける。

 ライトを向けられた彼女はまぶしそうに顔をしかめながら、「今の蟲も幻覚の可能性はゼロじゃないわね」などぶつぶつ考察をしていた。

 夏奈はその狂気じみた理解への渇望に、恐怖を覚える。

 冬のことが理解できない。

 どうしてこんな状況になってもここまで落ち着いていられるのかわからない。

 怖い。

 怖い。


 その時、後ろから肩をぽん、と叩かれた。


 冬はいま、目線の先にいる。


「…………ねえ、ふゆゆ」

「どうしたの?」

「いま、あたしの、肩、叩いた?」

「あなたより前にいてどうやって叩けるのよ」

 かはっ、と、乾いた笑いが出た。

 後ろに何かが居る。

 心臓が脈打つ。

 夏奈は、ギギギ、と軋む音が鳴るかのようにゆっくりと、後ろを振り向いた。

 そこには。


 顔の部分が黒く塗りつぶされた、髪の長い人間が立っていた。


「ああああああああああああああああ!」


 反射的に足を前に蹴り上げる。しかし何かを蹴った感触はなく、人間の姿も消えていた。

「ふゆゆ、ふゆゆ、逃げよう、ね。ここにいちゃ駄目だ」

 夏奈はふたたび冬の方を向き直り―

 ……先ほどの髪の長い人間が、冬の背後に立っていることに気が付いた。

「―――――――――――――――――――――――!!!」

 夏奈は声にならない悲鳴を上げて、冬の手を掴んで元来た道を全力疾走で戻り始めた。

 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。

 走ろう、ここにいちゃ駄目だ。逃げろ。走れ。やばい。

 冬の手を引いたまま、夏奈はスマホの頼りないライトをかざしトンネルの入り口へと走る。

 その間も、耳鳴りや、地鳴りのような音は鳴り響いていた。


 どれくらい走っただろうか。

 夏奈は、視線の先に光を捉えた。

 出口が近いようだった。

「はぁ、はぁ」

 息を切らしながら、その光へ向かって走り続ける。

 そして彼女たちは無事、トンネルの外へと出ることができた。

「はぁ、はぁ、ふゆゆ、よかった。無事出られたよ」

 掴んだままだった手を放し、冬の方を見ると、


 顔の部分が黒く塗りつぶされた、髪の長い人間が立っていた。


 夏奈は糸が切れたかのように、その場へと倒れこんだ。

 瞬きをすると、その人間は消えており、トンネルの入り口には夏奈だけが残っていた。

 彼女は数分かけてその現実を受け入れ、中に冬を置いていったことに気が付いた。

「……」

 夏奈はダメもとでスマホを操作し、冬へと電話をかける。

 驚いたことに電話は繋がり、電話口から「無事?」と冬の声が聞こえた。

「それはこっちの……セリフだよ。おいていってごめんね、でも、もう帰ろ? ふゆゆもはやく出てきてよ」

 トンネルの中だからかその通話にはかなりのノイズが混じっている。

 ザザザ、ガガ、と調子の悪いトランシーバーのような音がする。

「よく聞こえ………………なんて…………」

 冬の声が途切れ途切れになる。

 夏奈は力の限り叫んだ。

「早く帰ってきて!」

 ザザザ。

「ちょっと待っ………………ここ、入れ………………」

 ガガ。

「………………………………ういうこと………………………………」

「ねえ、ふゆゆ! ふゆゆ、聞こえないよ! はやく!」

「夏奈! すごい………………理解できそうよ!」

 奇跡的に音声が綺麗につながったのか、夏奈は冬の言いたいことを理解した。


 彼女は、何かを発見したのだ。


「神隠しってそういうことだったの!」

 テンションのあがった冬の声がする。

 しかし、夏奈にとってそれはもうどうでもいいことだった。

 今はただ、彼女の安全だけが重要だ。

 帰ってきてと何度も叫ぶ。

 しかしスマホから帰ってくる声は、嬉しそうな冬の声だけだった。


 彼女は今、”理解できなかったものが理解できた瞬間”にいるのだ。

 それはきっと、とても幸せな時間で。


「だからさっきの蟲も!」「もしかして髪の毛も!」「っていうことは今までの消えた人たちは―」


 ノイズが乗り、籠った声がスマホから聞こえてくる。

 それでも彼女が多幸感に包まれていることは理解できた。

 夏奈はそんなことを理解しても、全然幸せな気持ちに、なれなかった。

 さらに数分の時間が経ち、突然、トンネルの中から一陣の風が吹き出てきた。

 その風の強さに思わず夏奈はスマホを落とす。

 拾い上げようと腰をかがめた瞬間、急にスマホからノイズが消え、「ポンッ」と、何かが弾けるような音が響いた。

 そして、酷くクリアに冬の声が聞こえてきた。




「なくなっちゃった」




「あはっあはっ、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 スマホのスピーカーから、狂ったような笑い声が鳴り響いた。

「あはっ、なくなっちゃった」

 夏奈はスマホを拾い上げる姿勢から動くことができなかった。

 何がなくなったの? という疑問は口から発せられることはなく。

「いひひひひひひひひ、そっか、なくなっちゃった。どうしよう。あはっ、ははははははは」

 冬の笑い声が一層大きくなった後。


 ぼん、と、何かが爆ぜる音がした。


 スピーカーから聞こえてきたその音はトンネル内を反響し、冗談みたいな爆音になって、夏奈の耳に届いた。

 夏奈はその爆発音と、少し前に教室で自分が放った言葉を重ねていた。


どっっっかー--------------------ん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 電話が切れて、あとには耳鳴りがするほどの無音だけが残った。

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