第4話 過去も未来も全部含めて

 びゅうおは沼津港の南端にある。今でこそ展望台として活用されているが、本来は水門だからである。沼津港は狩野川の終わりと駿河湾の奥を接続する港で、台風などで氾濫しがちな狩野川をコントロールしているらしい。津波が来た時にも活躍すると聞いた。


 駿河湾には津波が来る。特に沼津は最奥なので、もっとも高さのある三角形の波が来る。


 愛鷹山のふもとに住む向日葵一家は、自宅にいれば津波の被害を回避できるはずだ。

 だが、沼津の街はほとんどが水没する。


 時々、ふと、小学生の時にテレビで見た東日本大震災の時の三陸が脳裏によぎる。


 津波が来るのを前提とした、防災都市としての街づくりを急がなければならない。


 ――というのは今は置いておく。


 日没とともに明かりがともって、びゅうお全体が緑色に輝き始めた。クリスマス仕様で、クリスマスツリーを意識した緑らしい。おそらく沼津市で一番高い建物がパリの凱旋門のように光っている。


 向日葵と椿はびゅうおの展望台に上がることにした。受付で大人ひとり百円を払う。格安だ。公営だからだろうか。これで地上三十メートルまで上がれるのはなかなかの太っ腹だ。


 長いエレベーターで上にあがっていく。


 エレベーターをおりると、そこには複数のカップルがいた。クリスマスを感じた。しかし今日は自分たちも彼ら彼女らと同じだ。

 みんなが浮かれて外に繰り出しているのを見るのは楽しい。

 向日葵はクリスマスに働いていることが多い。特に大学時代は接客業で稼ぎ時だったので忙しかった記憶がある。イベント事は好きだが、自分は裏方でみんなのイベントを支える側で、自分が主役になったことはなかった。けれどたまにはこういうのもいい。嬉しくなる。


 びゅうおの回廊をゆっくり回る。

 西のほうに夕日が沈んでいく。北のほうで街が輝き出す。東のほうでは星が光っていた。

 落ちていく夕日に照らされた富士山が紫色をしていた。

 その様子を、椿がじっと見つめていた。


 びゅうおはそんなに広い展望台ではない。ものすごくゆっくり歩いても一周十五分くらいで終わってしまった。だが時間制で追い出されるわけではないし、気を遣わなければならないほどの混雑でもない。


 二人はソファに腰掛け、遠く太平洋のほうを眺めた。


 海の上を、大型船のライトが滑る。客船だろうか、漁船だろうか。


 日が完全に落ちた。展望台の中は夜景を見るためにライトを抑えて薄暗くしている。それでも、足元の沼津港が夕飯時で活気づいているので暗くはない。


「ひいさん」


 さっきから隣でずっと黙っていた椿が、不意に名前を呼んできた。向日葵は彼のほうに顔を向けて「なに?」と答えた。

 自分で呼んでおきながら、椿はなかなかその先を口にしようとはしなかった。しかも視線を落として、向日葵の顔も駿河湾も見ていない。何もない床を見つめて何を考えているのか。


「どうかした?」


 改めてそう問いかけると、彼が顔を上げた。その表情は硬く緊張している。


「何かあった?」


 心配で重ねて訊ねた。けれど彼は質問に答えなかった。


「向日葵さん」

「はい」


 こんなふうにかしこまって名前を呼ばれるのは久しぶりだ。何があったのだろう。向日葵も緊張してきた。


「確認したいことがあります」

「どうしたの、急に、改まって」

「ええから、真面目に答えてください」

「はい」


 膝を揃える。


「向日葵さんは、僕のことが好きですか」


 何を突拍子もないことを言っているのか。不思議に思ったが、向日葵の直感がここで茶化したらいけないと告げている。真面目な顔を保ってすぐに答えた。


「もちろん、世界で一番愛しています」


 いとおしい人。世界で一番可愛くて綺麗な人。彼より大切な人間はこの世に存在しない。


 彼は少しうつむいた。照れているらしく、少しにやけている。


 ちょっとだけ時間を置いてから、彼はずっと背負っていたワンショルダーバッグを体の前に持ってきた。チャックを開けて手を突っ込む。

 中から小さな紙袋が出てきた。硬くて上質な素材の紙袋は形が崩れていなかった。

 バッグをソファの上に置き、紙袋の中に手を差し入れる。


 向日葵は目を丸くした。


 紙袋から出てきたのは、小さな四角い箱だった。上品な淡い紫のベルベット調の箱だ。


 彼はいつになく硬い動きでその箱を開けた。


 銀の指輪が、ふたつ、並んでいた。


「安物ですが、やっと用意できました」


 視界がにじんだ。世界の明かりという明かりがぼやけた。


「受け取ってくれはりますか」


 向日葵は大きく頷いた。

 椿はそのうちのひとつを手に取った。そして、向日葵の左手を取った。

 優しく、優しく、薬指に押し込む。

 驚いたことにサイズもぴったりだ。


「これでやっとほんまの夫婦になれたな」


 そう言って、彼はぎこちなく笑った。


「ずっと気になってて。去年の今頃やろ、豪に指輪してへんて言われたの」

「そんなこと気にしなくてよかったのに」

「ほんまはもっとええもの買うたりたかったんやけどなあ。今の僕の財力ではこれが限界やわ」


 いくらなのかは聞かないことにした。こういうのは値段ではない。

 最近椿が金銭にちょっとこだわっていたのはこういう理由だったのだ。自分のバイト代をこつこつ貯め込んでこっそり高い買い物をしていたから、物の値段というものに敏感になっていたのである。

 金欠の彼が愛しい。このまま一生自分のヒモでいてくれと思ってしまうほどだ。


「一生おそばに置いてください」


 そう言って、椿が腕を伸ばした。向日葵はその腕の中に飛び込んだ。


「はい。一生一緒にいましょう」


 周囲から拍手の音が聞こえてきた。はっと気づいてあたりを見回すと、見ず知らずの通りすがりのカップルたちが三組ほど、拍手をしてくれていた。うちひとりのやはり知らない男性が歩み寄ってきて、椿の肩を叩いて「おめでとう!」と言ってくれた。椿がふにゃりと笑った。





 展望台をおりて二人でバスに乗った。上土町に帰ってリバーサイドホテルのディナータイムだ。


 ホテルの中はにぎわっていた。何かと思ったらラブライブサンシャインのクリスマスイベントが行われているらしい。いいことだ。クリスマスでにぎやかなのは楽しい。


 みんなみんな楽しく過ごしたらいい。この世には憂いなど何にもない。楽しく浮かれて生きればいいのだ。人生は楽しんでなんぼなのだ。


 この幸福を大勢の人と分かち合いたい。


 二人で手をつないでレストランに入った。

 窓から見える御成橋や狩野川沿いのイルミネーションが輝いている。


「おいしいね」

「おいしいな」


 向日葵は初めて食べるフルコースの高級洋食に緊張していたが、椿は終始落ち着いていた。けれどいつもは食が細い彼にしてはたくさん食べたので、めでたしめでたしだ。


 食事が終わった後はホテルの部屋でいちゃいちゃして過ごした。ホテルのスタッフまで若い夫婦に優しくて、世界じゅうの人々に祝福されているように感じた。






 後日、指輪をゆっくり眺めたところ、内側に『K.T→I.H』と彫られていることに気づいた。名前より姓を先にしたところに思想の強さが窺えるがそれはさておき、向日葵は結局椿が自分の実家の姓を完全に捨てずにここに刻印したことにかえって安心した。過去も未来も全部含めて婿にもらったのだ。そういう愛でもって彼を包み込みたい。


 物語はまたひとつピリオドを打ってから新章に突入する。途中途中で区切りを入れつつ、死ぬまで長く続いていく。


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