第2話 どちらに行かはるんです?

 由樹子の夫は定年しても六十五歳までは仕事をしたいとのことで、この時間はまだ働いているらしい。椿は由樹子、柊平、そしてベリーの三人と一頭で遅めのティータイムとなった。


 スフレチーズケーキは街道から少し南に行ったところにあるケーキ屋のものだった。こじんまりとしたケーキ屋は隠れた名店といった感じで、個数をあまり作らないらしく、遅い時間に行くと完売している。沼津市の原地区でイベントがある時はたまに露店を出して特別仕様のアップルパイを売っている。こちらも人気で早く買いに行かないと売り切れてしまう。椿はいつも向日葵になんとしてでも手に入れろと命令されている。


 池谷一族は――由樹子は嫁に行った身なので正確にはもう三十年以上池谷姓を名乗っていないのだが、近所にいる血縁者だから含めてもいいだろう――みんなおいしいものを知っている。

 椿もおもたせになるような菓子には精通しているつもりだったが、どちらかといえば京都の歴史のある名店というブランドを重視していて、味はあまり気にしていなかった。今思えば惜しいことをした。長く愛されているブランドなのだからおいしいに決まっている。もっとちゃんと食べればよかった。


 椿は好き嫌いがない。何でも食べるようにと教育されてきたのもあるが、食に頓着しておらず、胃に入れば何でもよかったのだ。なんと貧しい発想か。

 時々、さぞかしいいものを食べてきたのだろうと言われるが、そもそも京都の家庭料理はそんなに華やかなものではない。いつでも伝統のある料亭の京懐石を食べているわけではないのである。

 朝は使用人が買ってきたパンを食べ、昼は学食でみんなと同じものを食べ、夜はおばんざいの小鉢に囲まれる、それが学生時代の椿の食生活だった。慎ましい。


 そんな椿が唯一これは好きだと認識しているものがケーキだった。洋菓子の専門店で買うような、本場ヨーロッパではトルテと呼ばれる種類の小さなケーキである。特に甘酸っぱいものが好きで、ベリーのムースやチーズケーキが好きだった。

 これも向日葵のおかげだ。向日葵が一緒に食べてくれたおかげで気づいた自分の嗜好で、大学に入るまではそんなものは女子供の食べるものだと思っていた。


 そんなわけで、椿は今、ありがたくスフレのチーズケーキを頂戴している。何もかも忘れるくらいうまい。


「ベリーは僕が中学生の時に飼い始めたんだよね」


 柊平が言った。ケーキに夢中だった椿ははっと我に返った。


「僕は沼津高専に行って、寮生活もしたけど、基本的にはずっと沼津にいて。大学に編入した時も、新幹線通学で。その間ずっとこの家でベリーと暮らしてた。で、就職した時にペット可のマンションを借りて、横浜で一緒に暮らし始めたんだよ」


 椿が引っ越してきた去年は柊平はもうすでに横浜にいた。道理でベリーも不在だったわけだ。


「今日はベリーと一緒に里帰りなんです?」

「そう」


 ジャーキーを食べ終えて柊平のそばに控えているベリーの頭を、柊平が撫でる。その手つきには慈しみを感じる。

 そんな一人と一頭の間には強い絆があるように見える。

 だから次の言葉を聞いた時、椿は驚いた。


「母さんに、ベリーを引き取ってもらおうと思って」


 由樹子は何も言わずに息子を見つめている。


「転勤になったんだ。転勤先にベリーを連れていけない」

「引っ越しですか。どちらに行かはるんです?」

「サウジ」

「えっ?」

「サウジアラビア」


 思わず声をひっくり返した。


「国外ですか?」

「そう。海外転勤になっちゃった」


 今度こそ、椿は本当に驚いた。


「うちの会社、プラスチック製品を扱ってるから、石油産出国と取引があって。もちろん間に商社も入ってるんだけど、直接現地を見てきてほしい、直接石油会社とやりとりしてほしいと言われてさ」

「サウジアラビア……」


 とんでもなく遠い、はるかかなた遠い異国の地だった。欧米や東アジアとはぜんぜん違う、アラビアンナイトの世界だ。金色の砂漠、白い民族衣装、らくだ――はドバイだったか。ドバイはサウジアラビアだっただろうか。オイルマネーの国々は区別がつかない。


「さすがにサウジに家族同伴はちょっと。ましてや犬なんてさ。飛行機乗せるの嫌だし――貨物としてなら載せられるって聞いたけど、なんか、嫌なんだよね。どんな生活になるかもわからないしさあ。会社は僕が独身の若い男だから選んだみたいなこと言ってるし」

「ほんま……」


 柊平が溜息をつく。


「何年向こうに滞在するかわからないし、マンションも引き払った」


 そして、ベリーは日本で柊平の両親と暮らす。


「ベリーからしたら若い頃住んでた家だし、父さん母さんもよく知ってる家族だし、大丈夫だと信じたい」


 それから、ぽつりと付け足す。


「大丈夫、だと信じるしかない」


 ベリーの大きな黒い瞳は、まっすぐ柊平だけを見ていた。


「ベリーももう十六歳で、おばあちゃんだからなあ。今別れ別れになったら、最期を看取ってやれないっていう不安はあるけど……でも、知らない土地で寿命をすり減らすよりはさ……。何より僕自身、自分がどんな生活を送るかわからないっていうのに。家族に無理をさせたくないよ……」


 なんとも言えなくて、椿は無言でチーズケーキを食べた。ベリーはこんなに柊平が好きなのに日本に置いていかれてしまうのか。しかも犬の十六歳は相当な高齢だろう。柊平の言うとおり、今離れたらもう二度と会えないかもしれない。


 こんなに、好きなのに。


「いつ行くんです?」

「来週。飛行機はもうとってある。十月一日から向こうで働く予定」

「もうすぐですね」

「ぎりぎりまでベリーと一緒にいたいと思ったらこんな日程になっちゃったよ」


 ベリーは飼い主のこういう事情をわかっているのだろうか。彼女の黒い瞳からはそこまで読み取れなかった。ただ彼女がまっすぐ主を見つめているのだけが伝わってくる。彼女はこの青年を心から愛している。


「もう一枚あげようか」


 そう言って柊平はベリーにもう一枚ジャーキーをプレゼントした。


 椿も沈黙してしまった。

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