2022年9月
第1話 椿と大きな白い犬の出会い
義父の広樹は六人兄弟だ。内訳は姉二人、弟一人、妹二人である。
このうち一番上の姉である
本日、椿は義母の桂子に頼まれてこの由樹子に工場で手伝ってくれた分の賃金の給与明細を届けに行くことになった。
さすがにただ働きではなかったらしい。時給千円のどんぶり勘定だが、一応口座に賃金を振り込んで後日明細書を届けることになっているらしかった。
どうして自分が明細書を持ってわざわざ伯母の家を訪ねないといけないのか。取りに来させるのではだめなのか。しょせん徒歩二十分弱の道のりで伯母のほうも何かにつけて訪ねてくるのだから、その時を待てばいいではないか。あるいは郵送ではだめか。椿の一時間弱と切手代84円のどっちが大事なのか。
義両親に逆らえない椿はもやもやしながらもあたかもひとつ返事だったかのような顔でこの仕事を請け負った。椿もこの分給料を貰いたいものだ。
由樹子は夫と暮らしている。かつては夫の老母がいて介護をしていたらしいが、一昨年亡くなって以来二人暮らしとのことである。
コンクリートブロックを積んで作られた塀、タイル張りの玄関ポーチ、回すタイプのドアノブ、古き良き昭和の家だ。築五十年から六十年程度とみた。
安っぽいステンレスの門を開け、石畳の道を抜けた。玄関にたどり着き、チャイムを押す。冗談のような、ぴんぽーん、という音がした。
チャイムから電子音に変換された声が聞こえてきた。由樹子の声だ。
『はーい』
「椿です。お義母さんのおつかいで来ました」
『はいはーい。開いてるから勝手に上がってー』
ドアノブをつかみ、回した。
引いた。
「こらっ、だめ!」
若い男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
椿はびくりと肩をすくめた。怒鳴る、といっても本気で怒っているわけではなさそうだが、大きな声には違いない。少し怖い。
開けてはいけなかったのだろうか。
だがもう遅い。玄関扉は今まさに開こうとしている。
「すみませ――」
次の時だ。
椿は口から心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
白く巨大な毛むくじゃらの何かが、飛びついてきたからだ。
「わっ!?」
勢いよく胸を押されて、椿は後ろに尻餅をついた。
白い何かが椿の体の上に乗っている。重い。
「こら、だめだって言っただろ!」
先ほどの青年の声が頭上から降ってきた。向日葵の従兄、由樹子の長男の
しかし、よくよく状況を鑑みると、怒られているのはどうやら椿ではないらしい。
柊平が、椿の上にのしかかっている白くて毛むくじゃらの生き物を後ろから抱え込んだ。
「だめだ、ベリー、お客さんに飛びついちゃだめだ」
それは、巨大な犬だった。
池谷家の血を引いている男ならではの高身長で筋肉質な柊平と比べても同じくらいのサイズの、大型犬だった。
柊平に後ろから胴を抱えられている白い犬が、椿に対して、舌を出し、尻尾を振って歓迎の意を表明している。
柊平が白い犬を玄関のほうに押しやり、椿のそばにしゃがみ込んだ。白い犬はなおも柊平の後ろで嬉しそうに尾を振り続けている。
「ごめん、椿くん、怪我はない!?」
椿はしばらく呆然と柊平の後ろにいる犬を眺めていたが、ややしてから我に返って「大丈夫です」と答えた。
「ごめんね、本当に、こいつお客さんが大好きで。チャイムが鳴ったら走り出しちゃうんだよね」
「お……大きいお犬さんですね……」
「グレートピレニーズといって、山岳救助犬になるような、人間を背負って山を降りてくるような犬種の犬なんだ」
逆に考えて、この犬にとっては人間の体重くらい何でもないのだ。恐ろしい犬に出くわした。この犬が本気を出せば成人男性にしては体重の軽い椿など吹っ飛ぶのである。
柊平の隙をついた犬がたたきに降りてきて、椿の着物の袖を咥えた。唾液で汚れないか不安になったが、飼い主と思われる柊平の前で振り払うのもいかがなものか。椿が悩んでいるうちに犬が椿の腋の下に頭を突っ込む。抱え起こされそうになっている気がする。犬の怪力にぞっとした椿は、慌てて自主的に立ち上がった。
「ベリー、だめだ、部屋に入れ」
飼い主の命令を受けて、犬――ベリーは、きゅうん、と悲しげに鳴いた。尻尾を振るのを止め、玄関ホールに上がる。
「ベリーていうお名前なんですね」
「そう、僕が子供の頃ホワイトベリーというバンドがいてね、そこからとったんだよ。椿くんはまだ赤ちゃんだった頃かな」
ベリーが居間に入っていく。
柊平が椿に「上がって上がって」と言った。椿は首を横に振った。
「お義母さんに、ユキおばさんに書類だけ渡すように言われてきたんです。これだけ渡したらすぐ家に帰ります」
着物のふところから封筒を取り出す。中に明細書が入っている。
柊平は受け取らなかった。
「たまにはいいじゃん。お茶出すよ。ちょっとおしゃべりしよう」
そして、悲しげな目をする。
「もうこんな機会何度もないと思うし。椿くんとも仲良くしたいな」
椿ははっとした。
そういえば、なぜここに柊平がいるのだろう。彼は横浜にある大手メーカーの工場で資材管理の仕事をしているサラリーマンで、普段から沼津にいるわけではない。
「柊平さんはお仕事どうしはったんです? お休みなんですか?」
「柊ちゃんでいいよ。わけあって二週間の休暇になって、昨日から実家に帰ってきてるんだ」
居間から由樹子が顔を出した。エプロンで手を拭きながら「いらっしゃい、お上がんなさい」と言ってくる。
「チーズケーキあるよ。柊平とお父さんと三人で食べようと思ってたんだけど、四等分したら一人分余るじゃ」
チーズケーキの魅力には抗えなかった。椿はとうとう玄関ホールに上がった。
居間に入ると、ベリーが機嫌の良さそうな顔で尻尾を振っていた。また伸び上がって椿に飛びかかろうとするのを、柊平が「待て」と止める。
「おすわり」
ベリーは柊平の言うことを聞き分けて床に座った。第一印象は最悪だが、本当は賢い犬なのかもしれない。
「ふせ」
ベリーが床に伏せた。大きな黒い目で柊平の動きを窺う。
この家の居間に上がるのは初めてではない。相変わらず雑然とした、生活感のある家だった。
妙に新しくて大きなテレビがあり、そのテレビを支えるテレビ台の中には、おそらく柊平が成人式の時に撮ったのであろう家族写真と、娘――柊平にとっては姉に当たる女性の若い頃の振袖姿、そしてその彼女の子供たち――由樹子にとっては孫に当たる乳幼児の写真が飾られている。庭につながる大きな窓のそばには洗濯物を干すラックがあり、大きなソファにはところどころほつれたカバーがかかっていて、テーブルの上には由樹子の夫が読む新聞紙の束が置かれていた。
だが、犬がいるのは初めてだ。この家には犬はいなかった。ベリーは柊平が横浜から連れてきた犬なのだ。
「座って、座って」
椿は勧められるがままソファに腰を下ろした。
「椿くんお茶でいい? オレンジジュースもあるけど」
飲まないという選択肢はないらしい。チーズケーキをいただくのだから当然か。
「ほなお茶をいただきます」
「はいはーい」
ふところからスマホを取り出し、家族のグループLINEで由樹子の家でケーキを食べさせてもらうことになったのを報告する。すぐに祖母の花代からOKというスタンプが送られてきた。花代からしたら長女の家なので安心してくれるはずだ。
ややしてカットされたスフレケーキと緑茶が運ばれてきた。椿は「おおきに」と言いながら受け取った。
物欲しそうな顔をしたベリーが静かに近づいてくる。柊平が「ベリー、待て」と言うと立ち止まり、また床に座る。
「お前はこれ。お客さんが来たから特別な」
柊平はいつの間にかわんわんジャーキーなる犬用お菓子を持ってきていた。袋のジップを開け、ベーコンに似た形状のジャーキーを取り出す。ベリーが尻尾を振って与えられるのを待っている。
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