破顔した夜

そうざ

The Broken Face Night

 終電車のシートに力なくもたれた俺は、直ぐに舟を漕ぎ始めた。眠りの海を漂いながら、今日一日に対面した人間達の面貌を脳内の洗濯槽せんたくそうで回転させる。さかしらな上司の杓子面しゃくしづら、後輩社員の阿呆面あほうづら、理不尽なクレーム客の厚皮面あつかわづら、そこに過去の記憶――母親のしぶつらや、教師のしかめっつら、苛めっ子の畜生面ちくしょうづら等が混ざり込んで来る。洗濯槽せんたくそうはやがて便器になり、奴等の悪相は汚物と共に無明の闇へ消えて行く。

 これが、よくある一日の締め括り――の筈なのだが、この夜は違った。禍々まがまがしい汚物の渦動に乱れが生じ、耳の穴から漏れ出しそうな錯覚に陥った。

 涎をすすり上げて顔を上げると、閑散とした車内、連なる照明、黒い車窓、そして、鼻を突く、甘いようなえたような、香水とおぼしき強烈なにおいがあった。

 いつの間にか、対面のシートにロングヘアーの女が座っていた。ニットのノースリーブから伸びた腕の先端に色取り取りの爪が並び、ミニスカートから伸びたむっちりとした脚が黒いショートブーツに収まっている。二十歳そこそこという感じで、厚化粧だが端正な素顔が想像出来た。

 腕組みで寝た振りを決め込んだ俺は、ゆっくりとずるずると身体を傾け、薄目で視線を飛ばした。果たして、スカートと太腿があやなす三角形の闇の奥に暖色系の生地がうかがえた。終電の時間まで働いた男への細やかな慰労――そんな思いが頭を過ぎると、全身の凝りがすうっとほぐれ、胸が熱くなった。

 すると、女はバッグから花柄の化粧ポーチを取り出し、メイク道具をいじり始めた。

 俺は軽く冷めた。乗客がほとんど居ないからと言って、そして、目の前の俺が寝ている様子だからと言って、電車内で堂々と化粧直しをするのはどうだろう。昨今はあたかもそれが普通の事であるかのような風潮が見られるが、俺は好きではない。

 ところが、薄目で観察をしている内に気が付いた。女は化粧を直すのではなく、落としていたのだ。ガーゼにリキッドの液体を染ませ、それでしきりに瞼をぬぐっている。大方、帰宅後に落とすのが面倒で、途中で済ませてしまおうという腹だ。

 そのまま様子をうかがっていると、女はマスカラとアイシャドウを拭い終え、今度は乳白色の液体を顔全体に塗りたくり、せっせと擦り出した。

 全く呆れた所業だ。羞恥心が欠如している訳だが、同時にモラルと言うか倫理観と言うか、大人の自覚がないのだろう。

 女は、ウエットティッシュで汚れを取り去った後、キャラクター柄のタオルで顔全体をごしごしと拭った。実は老けた顔立ちとシミやクマや吹き出物があらわになり、別人と見紛みまがう程だった。薄目で見ている事もあるだろうが、この距離からは女なのかどうかもよく判らない有り様だった。何だか口の周りに薄っすらと髭が浮いているようにも見えて来る、生の顔面だった。

 化粧落としに気を奪われているからか、女の両腿は無防備な形で開いていたが、もう当初程には俺の心は動かなかった。股間に見えるのは、もう単なる『布地』でしかなかった。

 俺が完全に幻滅していると、女は頭を抱えるような仕草をし、髪を掴んで引っ張った。最初はウィッグを外すのかと思ったが、違った。頭髪がぶちぶちと千切れる音が聞こえて来た。指の間に溜まって行く長い茶髪が、見る見る内に周囲に散らばる。中には、薄くめくれた頭皮に植わった束の状態で落ちて行く髪もあった。

 女はすっかり短髪に変じた。正確に言えば、全体的には短く、所々から千切れ損ねた長い髪が飛び出した、使い古した束子たわしの状態だ。百歩譲って電車内で髪の毛を抜くのは自由かも知れないが、抜けたそれを周囲に撒き散らすのは明らかにアウトだろう。

 すっかり観察者と化した俺の対面で、女は欠伸のように大口を開けた。その無防備な口腔に色取り取りの指先を突っ込むと、白鍵のように規則正しく並んだ上下の歯の裏側に引っ掛け、前面に向けて一気に力を込めた。飛び散った歯が乾いた音を立てながら床を跳ね回る。入れ歯や差し歯でない事は、二の腕の肉がプルプルと揺れる程のりきみと、口吻からあふれ続ける紅い筋とが物語っていた。

 果たして、電車内での抜歯はマナー違反だろうか。

 女は、すっかり呆気に取られた俺の事など微塵にも気に掛けず、バッグから段ボール箱を開封する時に使うような大き目のカッターナイフを取り出した。そして、それを左耳の下辺りに斜めに突き立てると、グリグリと引き下ろし出した。車両の揺れに抵抗しながら、刃は顎の下を通り、右耳の下まで行ってやっと止まった。

 まだ終わらない。女はその蝦蟇口がまぐち状の切り口に両の親指を食い込ませ、Tシャツを脱ぎ捨てるかのような仕草で顔面の皮膚――いや、皮膚と言うには分厚いから、きっと真皮しんぴと呼ばれる部分までをズルッと剥がした。待ってました、とばかりに体液が噴き出し、胸元に深紅の涎掛よだれかけを描きながらシートへ床へと広がって行く。

 さっきまで香水が支配していた空気が、いつの間にか錆色のにおいに染まっている。俺は震えた。酷過ぎる。このまま見て見ぬ振りをしていて良いのだろうか。

 俺が逡巡している間にも、女は作業を止めない。剥がした顔面の三つのあな――口と両目の部分に指を掛け、エキスパンダー宜しく引き伸ばしている。女は千切れたそれを二枚重ねにし、更に引き千切り、やがて破片と化した物を躊躇ためらいもなく散撒ばらまくように床に捨てた。

 だったら化粧を落とす必要もなかったろうに、どうやら若い女が下着を処分する際に原型を留めない程に切り刻んで破棄するのと同じ類の羞恥心だけは持ち合わせているらしい。滑稽な話だ。面の皮は見られたくないが、誰の物だか判らなくなるくらい細切こまぎれにする手間は惜しまない。完全に感覚がおかしい。

 女は、もう女であるかどうか以上に人間なのかどうかも判らない見て呉れになっている。

 電車が次の駅に滑り込むと、女は取り澄ました様子で小気味良い靴音を立てて降り去った。後に残されたのは、散乱した歯と毛髪と血溜まり、そして断片化した面の皮。

 残念ながら、社会人として注意を促す期を完全に逸してしまった。

 俺は、周囲に乗客がいない事を確認し、散乱した物を素早く出来る限り拾い集めて鞄にじ込み、また寝た振りをした。公共空間に打ち捨てられたごみを処理しても、別に罪には問われないだろう。

 念の為、車両を見渡す。隣の車両にちらほらと人影が見えたが、携帯電話をいじっていたり、居眠りをしたりしているだけで、他人には無関心の様子だった。

 俺は、堪え切れなかった。鞄の中のごみを鷲掴みにし、頬擦りをし、鼻に押し付けて残り香を味わった。どれだけ無作法であろうと、非常識であろうと、不細工だろうと、女は女、腐っても鯛なのだ。

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破顔した夜 そうざ @so-za

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