破顔した夜
そうざ
The Broken Face Night
終電車のシートに力なく
これが、よくある一日の締め括り――の筈なのだが、この夜は違った。
涎を
いつの間にか、対面のシートにロングヘアーの女が座っていた。ニットのノースリーブから伸びた腕の先端に色取り取りの爪が並び、ミニスカートから伸びたむっちりとした脚が黒いショートブーツに収まっている。二十歳そこそこという感じで、厚化粧だが端正な素顔が想像出来た。
腕組みで寝た振りを決め込んだ俺は、ゆっくりとずるずると身体を傾け、薄目で視線を飛ばした。果たして、スカートと太腿があやなす三角形の闇の奥に暖色系の生地が
すると、女はバッグから花柄の化粧ポーチを取り出し、メイク道具を
俺は軽く冷めた。乗客がほとんど居ないからと言って、そして、目の前の俺が寝ている様子だからと言って、電車内で堂々と化粧直しをするのはどうだろう。昨今は
ところが、薄目で観察をしている内に気が付いた。女は化粧を直すのではなく、落としていたのだ。ガーゼにリキッドの液体を染ませ、それで
そのまま様子を
全く呆れた所業だ。羞恥心が欠如している訳だが、同時にモラルと言うか倫理観と言うか、大人の自覚がないのだろう。
女は、ウエットティッシュで汚れを取り去った後、キャラクター柄のタオルで顔全体をごしごしと拭った。実は老けた顔立ちとシミやクマや吹き出物が
化粧落としに気を奪われているからか、女の両腿は無防備な形で開いていたが、もう当初程には俺の心は動かなかった。股間に見えるのは、もう単なる『布地』でしかなかった。
俺が完全に幻滅していると、女は頭を抱えるような仕草をし、髪を掴んで引っ張った。最初はウィッグを外すのかと思ったが、違った。頭髪がぶちぶちと千切れる音が聞こえて来た。指の間に溜まって行く長い茶髪が、見る見る内に周囲に散らばる。中には、薄く
女はすっかり短髪に変じた。正確に言えば、全体的には短く、所々から千切れ損ねた長い髪が飛び出した、使い古した
すっかり観察者と化した俺の対面で、女は欠伸のように大口を開けた。その無防備な口腔に色取り取りの指先を突っ込むと、白鍵のように規則正しく並んだ上下の歯の裏側に引っ掛け、前面に向けて一気に力を込めた。飛び散った歯が乾いた音を立てながら床を跳ね回る。入れ歯や差し歯でない事は、二の腕の肉がプルプルと揺れる程の
果たして、電車内での抜歯はマナー違反だろうか。
女は、すっかり呆気に取られた俺の事など微塵にも気に掛けず、バッグから段ボール箱を開封する時に使うような大き目のカッターナイフを取り出した。そして、それを左耳の下辺りに斜めに突き立てると、グリグリと引き下ろし出した。車両の揺れに抵抗しながら、刃は顎の下を通り、右耳の下まで行ってやっと止まった。
まだ終わらない。女はその
さっきまで香水が支配していた空気が、いつの間にか錆色の
俺が逡巡している間にも、女は作業を止めない。剥がした顔面の三つの
だったら化粧を落とす必要もなかったろうに、どうやら若い女が下着を処分する際に原型を留めない程に切り刻んで破棄するのと同じ類の羞恥心だけは持ち合わせているらしい。滑稽な話だ。面の皮は見られたくないが、誰の物だか判らなくなるくらい
女は、もう女であるかどうか以上に人間なのかどうかも判らない見て呉れになっている。
電車が次の駅に滑り込むと、女は取り澄ました様子で小気味良い靴音を立てて降り去った。後に残されたのは、散乱した歯と毛髪と血溜まり、そして断片化した面の皮。
残念ながら、社会人として注意を促す期を完全に逸してしまった。
俺は、周囲に乗客がいない事を確認し、散乱した物を素早く出来る限り拾い集めて鞄に
念の為、車両を見渡す。隣の車両にちらほらと人影が見えたが、携帯電話を
俺は、堪え切れなかった。鞄の中の
破顔した夜 そうざ @so-za
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