私の腕の中で泣いて
水神鈴衣菜
Umbrella
暗い暗い森の中、震える体を抱きしめながら行く先も分からずふらふらと彷徨う。段々と寒さに指先が、爪先が、全身が限界を訴え始める。
ふと、ぱた、と音がした。嫌な予感。湿った空気が鼻腔に流れ込んできた。──雨だ。本当にまずい。
ぬかるんだ道に足を取られながら、森の中を小走りに進む。ふと視界の端に映った小屋の方へ体を急旋回し、その軒下に駆け込む。上がった息が、耳元でうるさい。
何を思って、ここまで来たんだったかと
一向に止まない雨音を聞きながら、その場にしゃがみこむ。寒い。秋口、まだ夏の空気も残っているはずなのに雨のせいで体温の下がり方が異常なのだ。
「寒くないの?」
そんな声が聞こえて、私は「寒い」と素直に返した。そして一拍遅れて、心臓が跳ねた。
「だ、だれ」
「この家の住民よ」
家だったのか。こんな森の奥に? きっと何か理由があるのだろうが、他人である私には知る由もない。
「……中、入る?」
「いいの?」
「ええ。どうぞ」
赤のような、ピンクのような、深い色が私を捉える。綺麗だと思った。それが私には、雨雲の中から私に差し出された傘のような、希望のように見えた。
家の中は暖かい。助けてくれた彼女は、特に何かを聞くこともなく、温かな紅茶とクッキーを出してくれた。
「こんなものしかないけれど、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
「まずは体を温めないとね」
長い髪が、彼女がこちらに笑いかけるのと同時にさらっと動く。ひとつひとつの所作に、彼女の気品というか、そういうものが見え隠れしている気がする。いったい何者なのだろうか。
「あの、あなたは、なんで」
「私? 私は魔女だから」
「魔女」
「そう、魔女」
本当に現実にいたのだ、と急に心拍数があがる。特に魔女を毛嫌いしているとか、そういうわけではないのだが、なんだか無意識に、目の前の彼女から圧迫感を感じた。
「でも別に、人に害なすものを作れるとか、そういう訳じゃないのよ。ちょっとだけ……そうね、頭がいいって言えばいいのかしら」
「頭が、いい」
「大人はね、常人が上のことに頭を突っ込むのが嫌いなのよ。だから私を魔女と言った、それだけ」
「……難しいです」
「ごめんなさい、難しい話は嫌いよね」
──でも彼女のころころとした声は、嫌いではなかった。聞いていて心地よい。
「それで、あなたは? 小さな迷い人さん」
「私は、教会での生活が嫌になっちゃって」
「いじめ……とか?」
「それもある、んですけど、毎日同じことをしてばっかりで、つまらなくて」
「ふふ。かわいい人ね」
その言葉に、心臓が跳ねる。最初に声を掛けられた時とは、ちょっと違う気がした。
「しばらくはここにいるといいわ。いつもと少し違う生活をして、気持ちが切り替わるかもしれないし」
「……ありがとうございます」
──そうして街を抜け出してから、もう何年が経ったのだろうか。
* * *
「███! 今日は一緒に踊りませんか?」
「どうしたの、急に。私だってもう軽いステップも踏めないおばさんなんだから、手加減してちょうだいよ」
「███はおばさんじゃないです、まだまだ若いでしょ?」
あれから私は街に戻ることはなく、ずっと森で魔女と暮らしていた。彼女はあまり自分の名前を呼ばれるのが好きでなさそうだったけれど、一緒にいると自然と覚えてしまうのが普通というものだ。
「今日はあの人が来るんだから、ちょっと静かにしていてね」
「……分かりました」
あの人というのは、魔女の好きな人(直接聞いた訳ではないから、憶測)である。彼女は彼といると、頬が赤らんでとてもかわいらしいのだ。それこそおばさんではなくて、少女のように。そんな顔は、私の前では見せてくれない。
「……ねえ、███」
「なあに」
「███は、あの人が、好き……なんですか」
「……どうして?」
「そ、そんな風に見えたから」
──私もあんな風に、彼女に微笑まれたいのだ。ただそれだけを切実に思うのだった。でもそれがどうしてかは、分からない。
彼がいなければ、そう思ったが、逆にそんなことをしては彼女が悲しむ。そうであれば、どうすれば彼女は、私を見てくれるのだろうか。
悩む私を見て、彼女は心配してくれた。心配してくれた、それだけで少々嬉しかったのだが、その表情は不安そうなもので、私の望むものではないのだった。
──そう、彼女は私の生きる希望であり、それは慈悲のような傘であった。それを私は、仇で返したのだった。
久々に街に降りた私は、故郷の教会に足を踏み入れ、魔女の存在を伝えた。そして、「彼女は忌むべき魔女なのだ」とも。
彼女をこのままの思い出のまま消してしまえば、これ以上他の人と彼女が一緒にいて私が辛い思いをすることもないと、そう思った。
初めは簡単な、ただ彼女に私を見て欲しいという願い、祈りだった。それがひねくれて、どうしてかこうなってしまったのだった。そしてもう、戻ることはできない。消えてしまえ。
「███」
「あなたが、やったんですね」
最後に向けられた笑顔は、呆れたような笑顔だった。
彼女は、彼女の瞳と同じような色に包まれて死んで行った。私の希望は、消えたのだった。
私の腕の中で泣いて 水神鈴衣菜 @riina
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