第二章
第27.5話 子どもだった
匂い。嗅覚と記憶はどうやら密接に結びつくものらしい。
長らく蓋をしていた、
「へぇー、ミオ姉とか呼んじゃってるんだー」
――
――うわぁ……キモッ。
――こいつシスコンじゃね?
――それ、可愛いね。
(どうして今さら……あの匂いのせいか――)
話を続けるふたりは
「そうだったの。言われてみればいい匂いさせてたもんね、あの娘。甘~い感じの」
「甘い……? いや、そうだったかな……?」
「あれ? 違った? ……はぉぐ」
澪は紙皿に載ったわらび餅を楊枝でつついては頬張りしている。
「どうだろ。俺が森で嗅いだのはラベンダーの匂いだった気がする」
「らべんだー? 献慈はそういうの詳しいの? ……もぐもぐ」
「ん……うん、まぁ……」
口ごもる献慈の脳裏には、かつての苦い思い出がはっきりと思い起こされていた。
中学三年の出来事だった。
「うちの姉貴がサシェ――匂い袋とか作るのにハマってた頃があって、妹とか俺にも配ってよこしてさ……いろいろと、ね」
「いろいろってなぁに? もっと詳しく聞かせてよぅ……んぁぐ」
澪は餅に食らいつく傍ら、話のほうへも食いついてきた。
こうなった以上澪は容易に引き下がってはくれない。献慈は洗いざらい話すことにした。
「そんな大した話じゃないよ。うっかり学校に持って行ったのをクラスの奴にからかわれてさ。それがきっかけで何となく、姉貴や妹とも距離を置くようになっちゃって……情けないよな」
「誰よ、からかった奴。私がしばき倒す」
静かに言い切る澪の目は完全に据わっている。
「(そうきたか……)いや、もう終わったことだからさ。俺も悪いんだよ。中三にもなって姉貴とべったり仲良くなんて、そんな歳じゃないってのにさ」
「それって、悪いこと?」
「……言い方が良くなかったかな。俺、ずっと子どもだったんだよ。自分の好きなことにばっか夢中で、周りのみんながちゃんと大人になっていってるの、気づきもしなかったんだから」
「違うよぅ! 献慈のことからかった奴のほうがずっ……と子どもだよぅ!」
純真なまでに寄り添ってくれた。それがどれだけ有難かったことか。
同時に自分の卑屈さをも改めてくれる気がして。
「そう……だね、うん。ありがとう。俺ってホント恵まれてるなぁ。今といい、あの時といい」
「あの時……?」
「ふてくされてた俺に、
「…………」
「つまんないこと話しちゃったかな。ま、そんなわけでラベンダーの香りは俺の勘違いかも、ってことで……」
切り上げようとした献慈の眼前に、澪は何かを差し出してきた。
「え……何……?」
楊枝に刺さったわらび餅。
「最後の一個。あげる」
「(間接……)いや、えっと……このあと夕食が……」
「私が全部食べたら太っちゃうじゃない。ほらぁ」
添えられた澪の手に、餅の上から黒蜜が一滴こぼれ落ちる。
「(一個ぐらい大して変わらないんじゃ……)わ、わかっ……むぐぁ」
半ば強引に餅がねじ込まれる。ひんやり柔らかい触感。黒蜜の甘みときな粉の香ばしさが舌の上へ広がった。
「元気出すには甘いものが一番」
優しげな微笑みを浮かべ、澪が見つめている。
自分を気遣ってくれたのだろうか。献慈は思いを巡らせながら、じっくりと口の中のものを噛み下す。
「ん……俺は元気だよ」
「そう? ならいいけど」
澪は手に付いたしずくを舌先で舐め取った。
「澪姉こそ……」
「私? 私は元気だから! 明日だって街を歩き回らなきゃでしょ?」
澪は膝立ちになり胸を張って元気ぶりをアピールする。
ナコイには数日逗留する予定でいた。次の町へ向かう準備と休息、そしてユードナシアやマレビトの調査もある。
「そうだったね。じゃあ……俺はそろそろ部屋に戻るから」
「え、あ……あの娘、まだこの町にいるのかな?」
献慈につられるよう澪も立ち上がる。
「さあ? 仮にいたとして大きな町だし、また会えるかどうかは……」
「そっか。あれだけ可愛いと目立つかなー、って思ったんだけど」
「かもね(何でついて来るんだろう……)」
ふたりはいつしか部屋の入り口まで来ていた。
献慈の手がふすま戸の取っ手に掛かった、その時だ。
「お、お口に――」
真横から差し込んできた澪の指先が、献慈の唇の辺りを拭う。
「きな粉、付いてるよ」
「(そうだったのか……)あ、ありがと。それじゃ」
若干の照れを置き去りに、献慈は澪の部屋を後にした。
窓の外では紫色の空が群青に染まりゆく中、港の
前半から後半へ、変わりゆく街の様相をぼんやりと眺めながら、献慈は慌ただしい一日の出来事を振り返る。
(結局何だったんだろうな……あのリコルヌの娘)
もつれ合った思考を頭の端に押し込むと、献慈は夕食までのわずかな時間を過ごしに自室へ戻るのだった。
* * *
お話のつづき
【本編】第28話 夏風に踊る長い黒髪
https://kakuyomu.jp/works/16817139558812462217/episodes/16817139559119508822
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