第4話
藩主自らによる領地見分の命令を受け、修之輔が馬廻り組の部下二名と羽代城を出たのは二月の下旬のことだった。
白梅の花が香気を漂わせるのは灰色の雲に覆われた冷たい冬の空で、最近は小雪が時折舞う日もあった。比較的温暖な羽代の地では積もるほど雪が降ることはほとんどない。むしろ雪を降らせる湿り気が春の訪れが近いことを告げていた。
城下町を抜けるときは、これも弘紀の命令で行列の体を繕った。今回は山崎が率いる番方の一部隊と行動を共にする。馬廻り組の者は修之輔を含めて馬に乗り、番方の者達は軽具足をつけている。幟旗には羽代家中馬廻り組を示す違い鷹羽に下り藤の紋が記されていた。
羽代において馬廻り組は藩主直轄の親衛隊の性質をもつ。修之輔が組頭に就任する時、弘紀が人選に細かく目を配った。
「私の身を護る者達です。あまり身分が明らかでない者は入れられませんが、かといって田崎の配下だった者を入れるわけにはいきません」
田崎の尽力で当主の座に就いたとはいえ、その手段は功績として報奨できるものではなかった。田崎を恐れて反発する者達を刺激することはできない。
修之輔は、田崎が鍛え上げた私兵の実力は評価に値すると思っていたが、その修之輔自身が羽代にきて五年の新参者である。判断は羽代をよく知る弘紀に任せることに異存は皆無だった。
「表立って動いてもらうので、見栄えもした方が良いのです」
弘紀は修之輔の顔をしげしげと眺めながら、貴方が家中でいちばん顔が良いのです、などと真顔で言った。
弘紀のその基準が活かされたのか、馬廻り組に集められた者達は皆見目が良い、と、しばらく羽代家中の話題になった。
今回修之輔が連れてきたのは、内務に携わる後用人衆であったが武芸に秀でていたため馬廻り組に配属された時谷と、先年親の代からの江戸勤番を引き上げてきたばかりの坂口だった。両人とも剣も乗馬の腕も確かで、何より状況を冷静に判断できるだけの胆力がある。
今回は領地内各所の報告書を作成することが馬廻り組の任務となっているため、武力よりも知力を優先した人選だった。替わりに、番方から鉄砲だけでなく中砲を扱える兵士が数名、随従している。
その番方のまとめとして山崎が任命されたのは、これは修之輔が知る範囲にない家中の隠微な取引があった可能性があった。しかし先日の竜景寺の件と同様に、そんな取引の内容は山崎にも修之輔にも伝えられることがないのも確実だった。
弘紀の命令を執行すること。
背景に蠢く何かがあったとしても、修之輔が信じるのは弘紀のみ、使命感に揺るぎはなかった。
一方で、身の上が重視された馬廻り組とは違い、山崎がまとめている番方には下士だけでなく郷士も混じる。武芸を磨いた農民や商人出身の、いわゆる武士ではない者も羽代の番方に採用されていた。当初顔合わせの内は内部での喧嘩が絶えなかったという血気盛んな番方をまとめるのは、山崎のように大きな巌のような体格や、鍛え上げた体躯で剣を振る外田のような者達こそ相応しい。そして先年の朝永家お家騒動ともいえるあの事件当時、まだ年若く、状況を間接的にしか知らなかった彼らは、純粋に羽代の当主である弘紀への忠誠が確かだった。
その山崎が出立に先立って修之輔に訊いてきた。
「今回の巡検の目的を秋生は知っているか。おっと、どうして巡検を、と弘紀様の意向を訊くのは無礼か」
先日の竜景寺の件もある、山崎が多少神経質になるのは仕方がないことだった。修之輔は個人的に弘紀からその意志を伝えられていた。
「弘紀様はできるだけ自分の目的を下の者にも伝えたいと話しておられた。構わない。家老の方に命じて調査を行わせると、どうしても途中で欠ける情報がある。できるだけ欠けない状態での領地の現状を知りたいとのことだった」
「……やはりか」
山崎のその返答で、彼もまた家中上層部に分裂の気配があることに気づいているが分かった。
「弘紀様はこれまでの政策が商業に偏り過ぎていて、農民への配慮が充分ではなかったと、そのことも案じておられる」
修之輔が付け加えたことは、年貢に対する農民の不満がどの程度蓄積しているのかを知りたい、という弘紀のもう一つの望みだった。山崎は深くうなずいた。
「儂等武士は農民がつくる米によって生活できているのだから、弘紀様のその御考えはご立派なことだと思う」
修之輔は弘紀からその意見の全体を教えてもらっていたが、領民の欲が制御しきれないほど肥大している、その理由と欲の向かう先を知りたい、という弘紀の要求のことまでは山崎に伝える必要は無いと思った。
領民、特に農民においてそのような傾向がみられる理由は、羽代国内の殖産が想定以上に上手くいってしまったことに起因するのではないか。
弘紀はそう分析していた。その分析の正当性を確かめるために修之輔にはどこを見てきて欲しいのか、具体的な場所を指示していた。
その場所は四つあった。
一つ目が城下町より半里と離れていない干潟の干拓地である。二〇年ほど前に羽代の地では大地震が起こり、それは人にも建物にも被害を与えた。被害をもたらしただけではない。それまで浅海だった土地が持ち上がり、海水が引いた後、そこは干潟となった。耕作に適した広大で平らな土地が突如現れたのである。
地震からの復興にめどが立ったあたりで弘紀の父が新たに現れた干潟の干拓を始めたのだが、水を抜く技術の他、土から塩を取り去る術を知る者が羽代におらず、結果、塩抜きが半端なままで干潟はしばらく放置された。
弘紀はその放置された土地を活かすために干拓事業を再開し、今は半分近くが水田となって十分な収穫を得るようになっていた。あとの半分には綿花を植えて土から塩を抜いているところだが、綿花には商業作物としての価値があることから、このまま綿花栽培を継続しても良いのではないか、と弘紀は考えている。
事業としての綿花栽培を推し進めるとき、干拓に従事している農民や綿花を栽培する農民たちの間に軋轢が生じる可能性がある。その辺りの機微を読み取ってほしい、と弘紀は修之輔に頼んでいた。
二つ目は海外との取引を見据えた運営が求められる茶畑、三つ目が製鉄所、そして四つ目が樟脳の原料となる楠の生息地だった。
この四つの場所を修之輔が順に見て回り、弘紀へ直接報告を行うのが今回の目的である。
事業の状態だけでなく、人の出入りや思想の偏りが現れていないかも備に見ることも求められているため、五日かけて山崎と領地の半分を見分し、もう半分は外田たちと合流して見分する予定になっていた。
話すべきこと話さなくて良いことを注意深くより分けながら修之輔は山崎に弘紀の目的を伝えた。しっかり何度もうなずきながら聞いていた山崎だが、途中から反応がやや鈍くなった。怪訝に思ってその先を待つと、思った以上に深刻な様子で山崎が修之輔の肩に手を置き、声を潜めて告げた。
「秋生、検分を終えて城に戻ったら寅丸のことで相談がある。時間を作ってくれ」
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